アリスとチェシャ猫の対話(71)


312 猫: 有難うございます。私の著書やホームページには、アリスさんとの対話を通して得られたインスピレーションもたくさん盛り込まれています。私は「物質世界は多くの霊たちがつくりあげる共同幻想である」と言いますが、そのミニ版のようなものです。

 さて、「すべての宗教的言辞は方便である」という点で、アリスさんと私は合意できているようです。そこで、もう少し先に進みたいと思います。

「人を見てものを言え」という言い方がありますが、方便的言辞の効果は、聞く人によって異なります。アリスさんは、<表現の中に、霊性回復へと促しやすいものとそうでないものがあるようです>と仰いましたが、霊性回復を促しやすいかどうかは、聞く人との相性によって決まると思います。

たとえば、維摩の一黙に激しく反応する人もいれば、まったく反応しない人もいます。このために、さまざまな宗教の、さまざまな宗派が持つ、さまざまな表現が必要になってくるわけです。これが応病与薬(いい言葉を教えていただきました)ということではないでしょうか。キリストも絶えず「聞く耳のあるものは聞け」と言いました。これは、反応する心がない人が聞いても無意味だということを示していると思います。

私は、すべての宗教的表現は、どれがどれよりすぐれているということはなく、その表現に反応する心をもった人だけに意味があるのだと考えています。ところが、人間のエゴの理性はそうは考えず、すぐに、このうちのどれが一番正しいか、と考えます。どれかが正しければ、他のものは誤りだと考えます。あるいは、どれかがすぐれた真理であり、他は劣った真理だと考えます。それは、宗教同士の争い、同じ宗教の中の宗派間の争いを見れば明らかです。

実は宗教的表現だけではありません。あらゆることについて、「物事の価値はそれ自体で決まる」と思っているのがエゴの理性です。

ひとつの例をお話します。ある小さな教会の集会の場で、会員のひとりが作ってきたケーキをみんなで食べていたときのことです。その教会の牧師の三歳になるユキちゃんという娘が、突然、「このケーキ、おいしくない!」と叫んだのです。すると、父親である牧師がすかさずこう言いました。「ユキがきらいなだけでしょ。そういう言い方をするものではありません。」 女の子の名前だけは変えておきましたが、これは実話です。

 「ケーキがおいしくない」といえば、「おいしさ」の責任はケーキにあることになります。「私はこのケーキはきらいだ」といえば、「おいしくない」と思う責任は自分にあることになります。実際、そのケーキをおいしいと思って食べる人もあるでしょう。ケーキ自体は中立です。おいしいと思うか、おいしくないと思うかは、食べる人によるのです。

 宗教的言辞についても同じです。霊性回復に役立つかどうかは、それを聞く人によります。けれども、エゴの理性は、言辞のほうに責任があるかのように考えたがるのです。

そこで、今回は、次のような言明に、アリスさんが同意されるかどうかをお尋ねしたいと思います。

 「エゴの理性は、宗教的真理の表現に、一番よい(あるいは正しい)ものが存在すると信じている。しかし、一番よい(正しい)ものというのは存在しない。それが、自分の心に、どのように作用するかということが問題なのである。」

313 アリス: 同意いたします。エゴが久しぶりに登場ですね。エゴと理性との関係はこれまでデスカッションしていませんが、それはさて置き、猫さん流に言うと、エゴは物質世界に身を置いているから、正しいものが沢山あると困るというところでしょうか。近世以降の自然科学優位の風潮とエゴの考えが対応しています。自然科学の世界も最近は揺らいでいるようですが・・・もう少し遡ると、一神教ということに関係していると思います。神は一つ、真理は一つとなる傾向が強いのではないでしょうか?一方、お釈迦さんは勿論、孔子もお弟子さん毎に仰ることが違います。

314 猫: 同意できることが着実に積み重ねられているのを嬉しく思います。私はすべてのことでアリスさんと合意に達する必要があるとは思っていませんが、宗教についての考え方で合意できることとできないことをはっきりさせておくことは、今後の話を進める上で重要なことだと考えています。

 <エゴは物質世界に身を置いているから、正しいものが沢山あると困るというところでしょうか>

 <一神教ということに関係していると思います>

 どちらも取り上げる価値があるおもしろいテーマだと思いますが、話をそらさないために、いまは目をつぶっておきます。

 いま、アリスさんと私は、次の二つの点で合意に達したと思います。

 「宗教的真理は、本質的に人間の言語による表現を超えている。したがって、すべての宗教的言辞は、聞く人の心に反応を引き起こすための方便であって、その言辞自体が真理ではない」

 「しかるに、エゴの理性は、さまざまな宗教的言語表現に優劣をつけ、どれかを絶対的な真理だと思いたがる」

 エゴの理性は、真理は永遠に変らない、と考えています。したがって、エゴの理性は、自分がある宗教的命題を真理だと信じることになった時点で安心してしまいます。エゴはどうしても真理を固定化しようとする傾向をもっています。

 けれども、宗教的言語表現はすべて、聞く人を霊的目覚めへ引っ張っていくための餌です。もし聞く人が一箇所にとどまろうとする傾向を見せたなら、そこからさらに先に歩かせるために、今までと違う言辞を与えなければなりません。それは、馬の前にニンジンを見せて歩かせるようなものです。ニンジンの位置を固定したら、馬は立ち止まってしまいます。したがって、馬が立ち止まりそうなったら、ニンジンの位置を変えなければならないのです。

 そこで、次の命題にアリスさんが合意できるかどうかをお尋ねします。

 「宗教は、絶えず自分自身を否定し、乗り越えていかなければならない。それは、どこかへ到達するためではない。いかなるところにも、立ち止まらないためである。」

315アリス: 宗教的真理、宗教的言語表現という二つの話題の後、今回のお尋ねですが、正直の所、<宗教的>という言葉には少し引っかかるものがありましたが、今回のように、<宗教>そのものについての議論をするのであれば、宗教という語の定義が必要です。そのことには当面興味はありませんが、このままでは「 」の中の表現は私には理解できません。

宗教をエゴと置き換えればよく分ります。

また、ニンジンと馬の譬えも私にはよく分りません。馬はニンジンがなければ走らない、というものではないと思います。

(ちょっと、間奏曲を一つ)

Row, row, row your boat

Gently down the stream,

Merrily, merrily, merrily, merrily,

Life is but a dream.

316 猫: アリスさんと私の語感の違いでしょうか、時々話が通じなくなりますね。では、もう少しブレークダウンした質問をします。

 私は「宗教」という言葉を難しい意味では使っていません。世の中で使っている程度の使い方です。

 質問:アリスさんは、次の四つの命題に同意されますか、されませんか。

 (1) 仏教は宗教である。

 (2) キリスト教は宗教である。

 (3) イスラム教は宗教である。

 (4) 神道は宗教である。

 宗教を定義したことにはなりませんが、もしアリスさんが上の四つの命題に同意されるなら、アリスさんの「宗教」という用語の使い方は、私と大差ないということになります。当分の間は、それで間に合うと思いますが。

317 アリス: いずれも宗教と呼ぶに異存はありません。「教えそのもの」と教団の二つの意味があるかと思いますが、いずれの場合も314の「 」の表現は理解でません。宗教はよく船に譬えられますが、船自身が自己否定したり、乗り越えたりしては意味をなさないと思うのです。これまで、対話は、<宗教>という言葉を用いずに進んでおりましたが、310で宗教的真理と宗教という言葉が突然出てきて不思議に思いました。宗教という言葉を使わずに話しができると分りやすいのですが・・・

「魂の導きは、魂の状態に応じて変化すべきである。魂を無限に遊ばせるためには、その導きも絶えず変化すべきである」というのであれば多少分りますが・・・(間奏曲はその気分を表したつもりですが)

318 猫: <「魂の導きは、魂の状態に応じて変化すべきである。魂を無限に遊ばせるためには、その導きも絶えず変化すべきである」>という表現は見事です。さすがはシェイクスピアで遊んでおられるアリスさん、と感心しました。

 この先、色即是空や五蘊皆空の話をしようと思っていたのですが、それは所詮ある特定の宗教が使っている表現のこと、「魂の無限の遊び」を心得ておられるアリスさんには「釈迦に説法」かも知れないし、別にどうでもいいことなので、方向転換して、アリスさんの「不如意」の話に戻ることにします。

 309のリストで、アリスさんは不如意がなぜ生じるのかということを、自問自答しておられます。そこへ戻りたいのですが、その前に二つ質問をしたいと思います。

 (1)アリスさんは魂の無限の遊びと仰いましたが、アリスさんは本当に「自分が無限に遊んでいる魂である」と信じておられますか。

 (2)私は、魂は霊であり、霊は無限の能力を持っている、と思っていますが、アリスさんはどう思われますか。

319 アリス:(2)は私もそう思っております。(1)は信じることの度合いがまだまだ、不十分だと思っています。間奏曲は自在に自分の魂を遊ばせたいという私の願望を表しております。

320 猫: 今のお答えで十分です。

不如意を解消するための道筋は次の三つに尽きる、と私は考えています。

 a.私は魂であり、したがって霊である。

 b.霊は無限の能力をもっている。

 c.無限の能力者にとって不如意(意に反すること)は存在し得ない。

以上三つの命題を常に頭の片隅に置いておいてください。

それでは、309のリストに戻ることにします。

<@この世は苦厄に満ちているというが、一体苦厄とは何なのか?

A苦厄とは不如意である。

B何故不如意が発生するのか?

C自分があるからである。

Dどうして自分があるから不如意が発生するのか?

E物事が自分の意志に反して変化するからである、>

 とりあえず、ここまでを考えてみたいと思います。

@ABはいいとして、Cですが、確かに自分がなければ、不如意も如意も存在しないでしょう。何かがあっても、それを如意だとか不如意だとか認識するものがいないからです。そして、無限の能力を持っている霊は、確かに「自分を無くす」事もできます。けれども、それではアリスさんの願望を達成することにはなりません。アリスさんは、不如意は体験したくないけど、如意は体験したいのです。そうではないでしょうか。如意を体験するためには、体験するもの(すなわち自分)がいなくてはなりません。

私は、このように考えますが、アリスさんはどう思われますか。

321 アリス:<アリスさんは、不如意は体験したくないけど、如意は体験したいのです。そうではないでしょうか。如意を体験するためには、体験するもの(すなわち自分)がいなくてはなりません。>その通りだと思っています。

私の自問自答を引用してくださいましたので、もう少しその続きを書いておきます。

 (24)どこから来たんだ?

(25)霊から来たのだと思う

(26)いつ来たのだ?

(27)言葉を使い始めたからだ。

(28)言葉とは何か?

(29)名前を付けることだ。

(30)何故そんなことをしたんだ。

(31)退屈だったから。

(32)どうしてそんなことをしたのだ。

(32)神様の真似をした。

(33)それでどうなった?

(34)面白くなって、どんどんと名前を付けていった。

(35)それからどうなったのか?

(36)名前を付けているうちに、付けている自分がいると思うようになった。

(37)それからどうなった。

(38)自分が偉いと思うようになり、ますます、偉くなろうと思った。

(39)それからどうなった?
 
       (40)自分の周りに物を集め始めだした。自分の手、自分のお母さん、自分の玩具。

       (41)色んなものが欲しくなったんだろ。何時ここへ来たのだ。

       (42)  多分、時間(White Rabbit))を見たときからだと思う。深い穴(The Rabbit Hole)に落ちて、気が付くとここに来ていた。
     
       (43) ここで何をしているのだ。

      (44) 探険をしている。

      (45) 面白いかい?

      (46) 面白いが、不思議なことが多く、余り、居心地がよくない。
 
      (47) それで、お前はどうする積りだ。

      (48) もっと、居心地のいい所へいきたい。どうすればいいのか?

      (49)  自分で考えてごらん。何故、言葉を使うようになったんだ。

      (50) 先祖代々そうなんだ。逆に、言葉を使い始めたときから、わが一族が始まったような気がする。

      (51) まあ、ゆっくりと考えてみるんだね。

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