アリスとチェシャ猫の対話(67)


268 猫: そのような意味であれば、人間が感じている感情はすべて霊に届いています。感情だけでなく、考えていることも、悩んでいることもすべて霊は知っています。そして霊はそれに対して応えようとしています。けれども、私たちの方が霊に注意を向けないので、そのことがわからないのです。いま、人間と霊の間は一方通行になっています。

269 アリス: 一方通行ということに関して、この映画について考えますと、泣くのは人間の私ですが、私だけが泣き、霊はそれを知るだけなのでしょうか? 霊もまた泣いていませんか? 別の例を挙げますと、この映画を作った人間はこの映画を自らの力だけで作ったのでしょうか?霊は何らかの働きをしているのでしょうか?

270 猫: 最初のご質問については「霊は泣いており、同時に泣いていない」とお答えしましょう。泣いているというのは、霊は人間のすることをすべて自分のこととして経験しているからです。人間が泣くとき霊も泣きます。霊が「知る」というのはすべて自分のこととして経験するということですから。けれども、同時に霊はいかなるときにも泣かないということもできます。霊は人間の感情も思考もはるかに超越しているからです。

 あまり適切でないかも知れませんが、ひとつだけ例をお話します。私はあるとき、自分のものでない感情を体験する、という夢を見たことがあります。眠っていた私の心に、突然ひとつの感情が、水に一滴のインクを落とすように落ちて来ました。それは、インクが水を染めるように私の心に広がり、私の心は深い悲しみに染まりました。頭の中は真っ白で、何も考えられません。心の中には小さな青い湖のイメージがありました。湖の周囲は真っ白く雪に覆われています。音はなく、しんと静まり返った水はそよとも動きません。私の心は凍り付いていました。そのとき、どこからともなく静かな声が心に響いてきました。「これは子供を失った女の悲しみである」。

 私はその深い悲しみをじっと味わっていました。けれども同時に、私は、それが自分の感情でないことも知っていました。どこからともなく流れてくる花の香りをかぐように、私は自分の心を流れて行く感情を味わっていたのです。私は、霊が人間の心を体験するのはこのようなものではないかと考えています。

 第二のご質問は<この映画を作った人間はこの映画を自らの力だけで作ったのでしょうか?>ということですが、私は「チベットの女」という映画は見ていませんので、この映画に特定したお話はできません。

一般論として言えば、いろいろな場合があると思います。268でお話したように、霊は人間のことをすべて知っており、それに対してさまざまな方法で人間に語りかけています。けれども、人間には、それを受け取るか受け取らないかを自分で決める自由意志があります。霊が、人間の自由意志を無視して強制的に介入することはありません。なぜなら、そうすることは人間そのものの存在価値あるいは存在の権利を否定することだからです。

人間に自由意志があるという意味では、すべての映画は人間が自分の力だけで作っているということができます。霊から来るメッセージを受けるのも拒否するのも、人間の側の選択だからです。けれども、人間が霊からくるメッセージに感応している場合には、霊の助けを得ているということもできます。

私がこうしてお話するメッセージも、私の霊からくるメッセージを私がインスピレーションとして受け取るからお話できていると思っています。けれども、そのことは私のメッセージがいつも正しいことを保証するわけではありません。それは私が私の自由意志と私の能力の範囲内で行なっていることですから、間違う場合もあり、間違った場合にはすべて私の責任だということになります。映画の場合も同じだと思います。

271 アリス: 第一の方は私も夢の中で似たような体験がありますので、猫さんのお話は良く分かりました。第二の方も、猫さんのこれまでのお話から理解できます。

<268猫: 人間と霊の間は一方通行になっています。>は、表現を改める必要はないでしょうか?
話を延長させます。
人間の行動(または思考を含む)には霊から来るメッセージを受けて行うものと、そうでないものがあるようですが、両者を見分ける方法はあるのでしょうか?

272 猫: 一方通行という表現は確かに極端な言い方かも知れませんが、私は霊とのコミュニケーションを自覚的に行なうことが重要だと考えていますので、当分の間表現の変更はしないつもりです。現在の状況は無意識のうちに影響を受けているというだけであって、それだけでことがすむのならすべての宗教は存在する必要がないことになります。

例をあげれば、キリスト教では「神に祈る」ということを重要視しますが、祈るということで一般に理解されているのは、神に語りかける、神に願うことだけであって、神の声を聴く、神の声に耳を澄ます、という姿勢がほとんど忘れられています。人間は神に対して言いっぱなしで、返事を聞こうとしていないのです。私は「神はすべてを知っておられるのだから、神に願う必要はない、だまって神が語られることに耳を傾けなさい」というのですが、こういう言い方はあまり普通ではないようです。

第二のご質問<人間の行動(または思考を含む)には霊から来るメッセージを受けて行うものと、そうでないものがあるようですが、両者を見分ける方法はあるのでしょうか?>については、質問の主旨が、アリスさんが誰かの行動を見て、「あれは霊のメッセージを受けて行なわれたものだ」とか、そうではないとか、判断するための目印のようなものがあるかという意味なら、そのようなものはありません。

273アリス: 第二の趣旨は本人がわかるかという趣旨です。先ほどの映画の例ですと映画監督自身が区別できるかという疑問でした。おそらく本人も識別できないのではと思います。

正直のところ猫さんの霊―人間の関係はよく理解できません。

<270霊が、人間の自由意志を無視して強制的に介入することはありません。なぜなら、そうすることは人間そのものの存在価値あるいは存在の権利を否定することだからです。>のあたりの理解ができていないのかもしれません。

そして霊からの働きかけを気づくこと、<272 神の声を聴く、神の声に耳を澄ます、という姿勢がほとんど忘れられています。>という問題になるのですが、これは、キリスト教(ルカ伝、放蕩息子)でも仏教(法華経、長者窮子)でも取り上げています。人間から霊の呼びかけに近づく方法についての猫さんのお考えを聞かせていただけませんか?

274 猫: 霊の呼びかけを受け取るということは、仏教的に言えば悟りを開くことと同じです。こう言えば、アリスさんにはすぐお分かりいただけるのではないでしょうか。私はただそれを別の言葉で、別の譬えで話しているだけです。

 <人間から霊の呼びかけに近づく方法についての猫さんのお考えを聞かせていただけませんか>ということですが、方法は無数にあるとも言えるし、そんなものはないとも言えます。ある方法があって、まるで丸薬を飲むように、その方法を実習すれば誰でも霊の言葉を受け取るようになるというわけには行きません。丸薬を飲むようにして悟りを開く方法がないのと同じです。

先ず言えることは、方法に頼る心があるあいだは、霊の声を聴くことはできないということです。霊の声を聴くというのは完璧な自己責任であるということを理解する必要があります。そこには方法や手段や理屈や理論が介在する余地はありません。霊の声を聴くとは自分自身になることです。霊と自分を別物であるように感じたり、「自分自身であるために」何か特別な方法が必要であるかのように感じるのは、すべてエゴが自分自身を偽っているだけのことです。

心のすべてをひたすら神(あるいは霊あるいは悟り)に集中するという強固な意志と真摯な姿勢があれば、自然に自分に適した方法に導かれます。「最も重要な教えは何ですか」と聞かれたキリストは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えたと聖書は書いていますが、これが霊のメッセージを受け取るために必要な人間の姿勢です。

275アリス: もう一度273の前半での私の疑問を繰り返させてください。
霊は人間に自由意志を与えて放り出し、自らの意志で霊に帰ってくることを待っているという構造となっているのでしょうか?

276 猫: ある意味ではそういう言い方も可能です。けれども、このままではたぶん誤解されると思いますので、いくつか補足します。

 第一に、霊は人間をつくって放り出したという言い方ですが、どこに放り出したと思いますか。放り出す場所はありません。霊の外側というのはないからです。

 第二に、霊は何から人間を作ったのでしょうか。自分自身以外には何の材料もありません。人間になったのは霊自身です。

 第三に、人間は霊から放り出されて人間になったわけではありません。人間は自分の意志で人間になったのです。霊と切り離された自由意志をもつことが人間自身の意志だったのです。

 最後に、霊は人間になりましたが、霊であることをやめたわけではありません。いま現在も霊でありつづけています。

 人間は霊であり、霊は人間であり、霊と人間は同じであり、別であり、作ったものは作られたものであり、帰るところからいまだかつて離れたことはない・・・・何とでも言いようはありますが、そのようなものが人間と霊の関係です。

277アリス: <放り出す>と言う過激な表現を使いましたが、猫さんの解説で大分風通しがよくなりました。問題は第三の<人間は自分の意志で人間になったのです。霊と切り離された自由意志をもつことが人間自身の意志だったのです。>というところですが、これも霊とは無関係ではないのでしょう?霊からはコントロールできないのですか?

278 猫: ご質問の意味がよくわかりません。「霊は人間の自由意志をコントロールできないのか」という意味ですか? コントロールしたら、自由意志ではないですね。

279 アリス: 猫さんの言葉で第三だけがわかりません。人間は霊そのものなのでしょ。

<霊と切り離された自由意志をもつことが人間自身の意志だったのです。>が理解できないのです。霊とは別に人間の意志があるのですか?

(この論議は何度も形を変えて出てきており、猫から見ると私が存在の階層がわかっていないことを意味するのかもしれません。私の理解は231あたりで止まっているようです。)

280 猫: <人間は霊そのものなのでしょ。> 人間は霊そのものではなく、霊の一部分です。以前に私は人間は神の意識の細胞だと言いましたが、神(或いは霊)は巨大な意識です。人間はその一部分です。

 ひとつの譬えをお話しましょう。スペースシャトルの事故で中断していますが、現在宇宙ステーションが建設中です。宇宙ステーションでは人間が排出する炭酸ガスや排泄物のリサイクルをしなければなりません。以前、米国でこのような閉鎖環境での居住実験が行なわれたことがあります。砂漠に巨大なドームを作り、その中は完全に外の環境から切り離されました。空気も水も完全に内部だけで循環させます。それは明らかに地球世界の一部ではあるけれども、その内部は地球世界ではなく宇宙ステーションなのです。その中で数十人が何ヶ月か生活しましたが、突然ある種の細菌が急速に繁殖しはじめたため、実験は中断されました。

 人間は、この閉鎖された空間に似ています。霊の意識の一部が他の部分と切り離されてそれ自体の自由意志をもっているのです。<霊とは別に人間の意志があるのですか?>ということですが、人間が独自に自由意志を持つことが霊の意志なのです。

居住空間が外部から観察されていたように、人間の意識は霊の立場からは完全に見えています。けれども、人間の自由意志に霊の方から干渉することはありません。ただ、ガイドしたい方向に導くための情報の提供やメッセージやサインの発信が頻繁に行なわれています。けれども、それを受け取るかどうかは、完全に人間の側に任されています。

 なぜ、このような霊の意識の構造が作られたかというと、それが「神を忘れる」という意識状態を体験するための実験装置なのです。霊からのメッセージやサインは、「神を思い出す」方向に導いていくために発信されます。なぜなら、それがこの実験の最終目的だからです。神を忘れて、再び思い出すまでのプロセスの中で、神を忘れた意識は何を考え、何に悩み、そしてどのような喜びや悲しみやや希望や絶望を体験するか、それを具体的に実現するのがこの霊の意識の実験なのです。

281      アリス:明け方、床の中で、スペースシャトルや宇宙ステーションの実験のことを思っていました。猫さんの描いておられる人間―霊の関係はこの実験のようなものではないかと。朝、起きて280のお答えを見て驚きました。

<霊と切り離された自由意志をもつことが人間自身の意志だったのです。>という所が<霊と切り離された自由意志をもつことが霊自身の意志だったのです。>とあれば、すんなりと理解できていと思います。
ルカ伝の放蕩息子も法華経の長者窮子のたとえ話も金持ちの親から離れさまよう息子がやがて親の元に復帰するのがテーマですが、特に後者は完全に親のことを忘れているのが面白い。
ここまでの所を理解した積りですので、話を進めさせていただきます。何故、霊がこのような実験をするのでしょうか?
私が今描いている答えをあらかじめ言いますと、好奇心ではないかと思います。

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