アリスとチェシャ猫の対話(66)

260 猫: 岩波の仏教辞典によれば、空という言葉の語源は「膨らむ」という言葉だそうです。膨らんで中が空っぽになったものが空です。インド人はゼロの記号を発明したことで有名ですが、何もないものに空という名前を付けて、一見何かがあるかのように見せるのはインド人の特技かも知れません。私は「あるように見えるけれども本当は何もない」というのが空だと考えています。存在するように見えて存在しないもの、それが空だと考えています。現代語で言えばバーチャルというのがぴったりです。

<仏性(霊)は説明のための方便でしょうか?>というご質問の意味が、私にはよくわかりません。私は、霊の真実は言葉で厳密に表現することはできないと考えています。そういう意味では、私のしゃべる言葉はすべて方便であると考えていただいて結構です。いつも譬えでお話するのはそのためです。

仏性という言葉は、私の領分の言葉ではないので、暫く使用を差し控えますが、アリスさんの「−なるもの」というのが「私は・・・である」を意味しているのであれば、この「私」は、私の言葉でいえば「霊」です。そして・・・のところに入るのが、何を入れても「空」なのです。なぜそれが空であるかというと、霊は「私は・・・である」と思うだけであって、霊自身が・・・になるわけではないからです。「・・・」は存在しないのです。たとえば、霊が「私は死んだ」と思えば、霊は死を体験します。けれども霊が死ぬわけではありません。ただ「私は死んだ」という思いを体験するだけです。逆説的ですが、霊が死んだら、霊は死を体験することはできません。死なないからこそ、死を体験することができるのです。認識する者(霊)だけがあって、認識される物が何も存在しない(すべて空)というのが霊の本質なのです。

ご質問にお答えします。

私は、五蘊というのは、物質世界(色)と、物質世界と関わりあうための人間の精神作用(受想行識)だと考えています。ご質問の「立つ」という意志は、肉体を動かそうとする意志です。肉体は夢の中の存在であり、それを動かそうとする意志も夢の物語の一環です。したがってこれは五蘊に属するものです。

 これに対し、夢から覚めようとする意志は、夢の中の人物の意志ではなく、夢を見ているものの意志です。したがって、五蘊に属するのでなく、霊に属するものです。仏教では、このような意志を生ずることを発菩提心といって、高く評価するように思います。これが、すべての悟りの出発点だからです。

261アリス: 言葉の使い方という限界を越え、猫さんとのギャップが生じているように思います。「空」の理解なのですが、259でも繰り返しておりますが、私の「空」は空っぽでも、バーチャルでもありません。

<私は「あるように見えるけれども本当は何もない」というのが空だと考えています。存在するように見えて存在しないもの、それが空だと考えています。現代語で言えばバーチャルというのがぴったりです。> バーチャルであるということを否定しませんが、それ以上のものです。空の思想は大乗仏教の中核思想で、ヤフーで「仏教 空の思想」で検索すれば、さまざまな資料を得ることが出来ます。例えば、http://www.kosaiji.org/Buddhism/chugan.htm

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/

少なくとも、猫さんの空の理解(あるいは定義)は、仏教の世界では珍しい解釈と言えます。仏教思想を説くだけの力はありませんので、(般若心経にもあるように、「空」が分かれば、一切の苦から開放される)私の理解を申し上げますと、空=Oでもいいのですが、その0は231で示したように、ΣN=0=∞=神=私なのです。生齧りの量子力学的表現をかりるなら、空は粒子と反粒子が抱き合ってぎっしり詰まっている(あるいは波と粒子または虚数と実数が抱き合って詰まっている)世界で、きり方によって、無限の変化が現れる。

  猫さん:  五蘊=空=空っぽ=物質世界=仮 / 霊=実

  アリス:  五蘊=空=0=∞=霊=私

この対立では、平行線と思われますが、私の立場からすれば、仮に物質世界と霊的世界とに分けて考えると、分かりやすいという意味で、猫さんの考えは<方便>ですか?との問いが出るのです。

<私は、五蘊というのは、物質世界(色)と、物質世界と関わりあうための人間の精神作用(受想行識)だと考えています。>で立つという意志は五蘊で、夢から覚めようとする意志は霊に属するということですが、では「痛いと感じること」と「痛みから逃れたい」

と「痛みを取ってあげたい」というケースではいかがでしょうか?

262 猫: 「ただし、キリスト教にしても仏教にしても、私の解釈はあまり正統的ではないので、正統的なものを知りたい方はそれぞれの聖典や書物で勉強してください。」

これは私の唯一の著書「魂のインターネット」のまえがきに書いた文章です。私は、私の考えが(というより「表現が」というのが私の本心なのですが)キリスト教から見ても仏教から見ても異端であることを知っています。異端と呼ぶに値しないほどのつまらない考えだと思われる方もあるかも知れません。けれども、私は、もし私の考えが正統的な書物に書いてあるようなものだったら、本を書く必要もインターネットにサイトを開く必要も感じなかったでしょう。私は、私の言葉が異端だからこそ、存在価値があると思っています。

そのようなわけですから、私はアリスさんも含めて、私の本やホームページを読む人を説得しようというようなつもりは、毛頭ありません。私の言葉が、その人たちの心の奥に響く刺激になればいい、とただそれだけです。物質世界の常識的思考に凝り固まった心を揺さぶることができれば、それでいいのです。

空の理論を含めて、仏教にもキリスト教にも、膨大な思索の成果が積み上げられています。私はそれらの思想や理論が、この世において一定の役割を果たしたことを否定しませんが、私たちが目覚めた暁には、それらはすべて藁屑同然になると考えています。もちろん私の本などは灰の一片にも値しないでしょう。

以前にお話したかも知れませんが、13世紀の神学者トマス・アクィナスは、『神学大全』という大きな書物を著し、キリスト教神学の歴史の中では超有名と言ってもいい人物です。トマスは8年がかりで、この本を弟子に口述して書き取らせていましたが、1273年の12月、クリスマスを前にしたある日のミサを終えたトマスは、ぴたりと本の口述を止めてしまいました。年が明けても口述を再開しないので、弟子が心配して催促すると、トマスはこう答えたそうです。「私は大変なものを見てしまった。それに比べれば、私がこれまでに書いたものなどは藁屑のようなものだ」(上田閑照、『エックハルト』、講談社学術文庫)。トマスは結局著述を再開することなく、3月に世を去ってしまいます。『神学大全』の最後は、弟子が書き足して完成させたと伝えられています。

あとのご質問にも関連しますが、この物質世界で私たちがすることのすべては幻想です。神学も哲学も異端も正統も、すべて夢の中の出来事です。これらは、夢の中では一定の価値があるものもありますが、夢から覚めてみれば、そのような議論をする必要もなく、議論の中身も藁屑のようなものであったことがわかるでしょう。

ご質問ですが、「痛いと感じること」と「痛みから逃れたい」と「痛みを取ってあげたい」は、すべて夢の中の出来事であり、それにもとづく感情や意志です。これらは、すべて五蘊の中に入ります。ただし、痛みから逃れたい、あるいは痛みをとってあげたい、という思いが、夢から覚める方向への努力につながるときは、それらは霊の呼びかけに応える契機になったといえます。このような場合は、ほんとうは、無意識の心で霊からの呼びかけに応答した結果、先ず痛みを発生し、痛みから逃れるために勉強を始め、やがて夢から覚めることにつながって行くということなのかも知れません。

ところで、アリスさんと私の考えが平行線をたどっているのは、たぶん「存在の階層」という考え方が、アリスさんになじまないためだと思います。次回からは、少し話題を変えたほうがよいかと思います。

263アリス: 猫さんのお気持ちが伝わってきます。私も出来るだけ、既存の思想、宗教の言葉を使わない積りでいましたが、「空」に関しては、やむを得ませんでした。

私は「立とう」「痛みを取ってあげたい」は霊に属することと思っていますが、これは平行線なのかもしれません。猫さんの場合、五蘊のほうから霊に働きかけるプロセスがあるようなのですが、取り合えず「存在の階層」のお話をお伺いしましょう。

何か例をあげられるならできるだけ「痛い」の例を取り上げてください。

264 猫: アリスさんがいま何か小説を読んでおられるとしましょう。先ほど例にあげた『ジャン・クリストフ』でもかまいません。ここに描かれた世界は架空の世界です。これはもちろんおわかりになりますね。

けれども、この世界は、そこに登場する人物にとっては現実の世界です。ジャン・ミシェルという名の老人、その娘のルイザ、ルイザが産んだ醜い赤ん坊、これらの人たちにとっては、この架空の世界こそが現実の世界なのです。このことを、アリスさんは受け入れられるでしょうか。

私たちは、架空の世界は存在しない世界だということを知っています。けれども、ルイザにとって存在するのは、ジャン・ミシェルという父親や赤ん坊であって、自分たちの世界の作者がいるとか、それを物語として読んでいる人間が存在するなどということは、想像もしません。

ここには二つの世界が存在します。私たちの世界とルイザの世界、この二つの世界の違いを、私は存在の階層(レベル)が違うというのです。

もう一つ例をあげておきます。以前、アリスさんの紹介で『ビューティフル・マインド』という映画を観ました。この映画では、主人公のナッシュが幻覚を見ます。ナッシュは自分が某国のスパイと闘うある組織の重要なメンバーだと思い込んでいます。この幻覚の世界は、ナッシュにとっては、少なくともその幻覚にとらわれている間は、れっきとした現実です。スパイたちとの銃撃戦やそのときに味わう恐怖など、すべて現実です。けれども妻のアリシアから見れば、それは架空の世界です。彼女は夫が架空の世界にとらわれているのを悲しみ、何とかしてそこから夫を救い出したいと考えています。

ここには三つの世界があります。ナッシュの幻覚の世界、アリシアが生きている映画の中の世界、そしてその映画を見ている私たちの世界、これらはそれぞれ存在の階層の違う世界です。私たちの世界の中のひとりが映画の世界を作り出し、映画の中の人物が幻覚の世界を作り出します。そして、それぞれの世界は、その世界の中の住人にとっては現実です。けれども、それを生み出した階層(これを「上の階層」と呼びます)から見れば、それは架空の世界です。

この架空と現実の階層構造のことを、私は「存在の階層」と名づけているのです。

265アリス: 「存在の階層」は98あたりからしばらく続いた話題であることに気づきました。更に、50の体験劇場モデルあたりに引き返した方が良いのかも知れません。

これまでの会話で、猫さんのお考えには唯識の考えにかなり近いものを感じます。

まず、アラヤ識(八識)がマナ識(七識)を生み、マナ識が我と現象を生む。我が現象(物質世界)を本物と思い込み疑わない、というのが唯識の一般的なモデルのようですが、猫さんの今お考えの階層を全部お示しいただければと思います。

また、「痛み」の例に引き戻すと、ナッシュの「痛み」はナッシュだけのものでしょうか?

(仏教思想を引き合いに出すと混乱が生じるかも知れませんが、猫さん:唯識。アリス:中観。という図式が当てはまりそうです。)

266 猫: 私の考えと「唯識」が似ている点で重要なのは、私たちがふつう現実あるいは客観的な存在だと信じて疑わない物質世界が、自分の肉体も含めて、すべて自分の意識が作り出している幻想であると考える点です。このような思想は唯識だけではありません。同じような思想は古今東西にたくさん伝えられていますし、現代においては新しい情報源からも伝えられて来ます。私は釈迦の悟りもこの一点につきるのではないかと考えていますが、言い過ぎでしょうか。

 唯識が云う末那識や阿頼耶識が、私のモデルの「心の中のスクリーン」に似ているのは事実で、私自身そう思いますが、それは単なる比喩的表現ですから、似ていること自体にそれほどの重要性はないと考えています。

思想はそれ自体では何の意味もありません。思想はすべて、その思想を、自分が「そうだ、そのとおりだ」と納得したときに、はじめて意味を持ち始めるのです。アリスさんが「中観」という思想を真実だと思われるならば、その思想に基づいて「自分はどう生きるのか」ということを追求してください。ヘッセがその作品の中で書いたように、「真理は講義されるものではなく、生活されるべきもの」です。

二つのご質問にお答えします。

私が考えている「存在の階層」は、最低で四つあります。下位のほうは、普通の意味でいう「人間」と、人間が作り出した「仮想の世界」、つまり文学や、映画、演劇、それに近年コンピュータの中に多数作られているバーチャルな世界などです。人間の見る夢や幻覚もその中に入ります。

人間より上位には最低二つあると考えます。ひとつは、人間や物質世界を生み出している「霊的存在」たちであり、その上に根本的な唯一の「神」を考えます。

上位から順に並べれば、神、霊、人間、人間が作る仮想世界となります。いずれも上位の存在が意識の中に思い描くことによって、下位のものが上位のものの意識の中に生み出されます。したがって、究極的にはあらゆる存在は神の意識です。神自体も純粋の意識だと考えていますので、かたちのある「もの」のような存在は何一つありません。これが私が描いている「宇宙の構造」です。

ただし、究極の創造神が人間から二つ上の階層かどうかはわかりません。ひょっとしたら、神と人間とのあいだにたくさんの階層があるかもしれないし、もしかしたら無限の階層があるのかもしれません。たとえば、

   神 − 超霊 − 上霊 − 霊 − 人間 − 演劇

ということかも知れないし、

    神 − ・・・・・・・・・・・・・ − 霊 − 人間 − 演劇

かもしれません。

 けれども、上の方が何階層あるかということは問題ではないのです。いま現在、私たちにとって必要なのは、最下位の3階層、すなわち

     霊 − 人間 − 演劇

を理解することであり、人間と演劇の関係を類推の手がかりとして、自分が霊としての意識を取戻すことなのです。

 第二のご質問は<ナッシュの「痛み」はナッシュだけのものでしょうか>ということですが、ちょっとご質問の主旨がよく飲み込めません。

 ナッシュに限らず、私たちは誰も他人の痛みを感じることはできないと思うのですが、そのようなこととは違う話なのでしょうか。

267アリス:しばらく<私たちにとって必要なのは、最下位の3階層、すなわち

     霊 − 人間 − 演劇

を理解することであり、人間と演劇の関係を類推の手がかりとして、自分が霊としての意識を取戻すことなのです。>ということを前提に話を進めさせていただきます。

ナッシュさんの「痛み」は誰にも伝わらないかというのが私の第二の質問でした。

昨日、中国映画の「チベットの女」という映画を見てきました。イシという女性の一生を描いたものですが、スクリーンのイシの流す涙と共に、そこはことなく、悲しみとも喜びともつかぬのものが伝わってきて、多くの観客は涙を流しました。これは、猫さんのレベルで言うと 演劇―人間のレベルで感情が伝わったと思うのですが、いかがでしょうか?この感情は人間―霊へと伝わらないのでしょうか?

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