アリスとチェシャ猫の対話(68)

282 猫: <私が今描いている答えをあらかじめ言いますと、好奇心ではないかと思います。> まったくその通りです。以前に「神(=霊=仏性と私は考えていますが)にはしなければならないことは何もない」と申し上げました。すべては神の遊びである、というのが私の考えていることです。

 私は、若いときに、インドの古い哲学にこの考えがあることを知りましたが、当時は理解できませんでした。ようやく最近になって、確かにその通りなんだ、と思うようになりました。

 すべては神の遊びであり、そして遊ぶことは神の本質なのです。神は永遠の生命であり,生命とは燃えつづける炎です。静止した炎がないように、静止した神というものはありません。自らの意識の中に、無限の絵を描きつづけているのが神という生命の姿だと思います。絵をお描きになるアリスさんは、いわば神の直系の子孫ですね。

 どうやら、アリスさんと私の理解の接点ができたようですので、すこし先に進めたいと思います。

 最近は画家でも書家でも、箒のような筆を使ったり、自分の髪の毛を使ったりして、大きな紙の上を走り回って絵を描いたり文字を書いたりする人がいます。自分の身体をカンバスにして絵を描く人もいます。それと同じように私たちは自分の人生をカンバスにして魂の絵を描いています。それも、ひとつの人生だけではなく、転生の繰り返しの中で、何百という人生を使って描いてきた絵です。

 私がいま、霊性回復という言葉を旗印にして本を書いたり、インターネットにサイトを開いたりしているのは、私たち人類が描いてきたこの一連の絵の最後の仕上げの時期が来ていると感じているからなのです。いわば、龍の絵に目玉を入れるときがきた、ということなのですが、アリスさんはこのような考えをどう思われますか。

283アリス: <私たち人類が描いてきたこの一連の絵の最後の仕上げの時期が来ていると

感じているからなのです。>ということですが、私にはそのような認識はありません。

何故そのように感じられるかお聞かせいただけませんか?

人は、この面白い、苦しい人生のゲームを止める理由がないので、破局に至るまで続けるか、または、上手く行けば、より快適な形で再生産していくのではないかと思っております。今の私は、残り少ない人生の中でまだまだやりたいこと、味わいたいことが沢山ありますし、楽しい目に合いたいが、苦痛や不如意を避けたい。しかし<転生の繰り返しの中で>今しなければならないことがあれば、それもやらねばならない。欲張っていますね。

更に、別の私はこう呟きます。霊なのだから、何もしなくても良い。または、したいことをすればよい、と。

284 猫: 最後の仕上げの時期の予感をアリスさんがお持ちにならないとしても、それは仕方がないことですね。私がそれを感じると言っても、別に根拠があるわけではありませんから、理由を説明することはできません。予感というのはみんなそんなものではないでしょうか。単なる私の希望に過ぎないのかも知れないし、私だけが私の転生の連鎖を終らせようとしているのかもしれません。

 タバコを吸ったことのない人は、タバコを吸いたいと思うことはないでしょう。もしあるとすれば、それは他の人がうまそうに吸う姿を見たときです。「タバコって、そんなにうまいものかな」と好奇心が動きます。私が霊性回復に関心を持つのは、おそらく霊性の世界を垣間見てしまったからではないかと思っています。

285アリス: 前半のお答え分りました。「百匹目の猿」の話とか、色々な証拠が出るかと思いましたが、猫さんの言葉をそのまま味うことにしましょう。私の後半の認識、状態については何もコメントはありませんか?

286 猫: <更に、別の私はこう呟きます。霊なのだから、何もしなくても良い。または、したいことをすればよい、と。>

 これについては、まったくその通りです、とお答えします。けれども、いつものように,ひとつだけ追加のコメントをします。聖書にこういう言葉があります。「すべてはゆるされている。しかし、すべてが私たちの益になるわけではない」。人間は、何をすることもゆるされていますが、自分がまいた種はすべて自分で刈り取る、というのも真実です。これがインド系の宗教や哲学に伝わるカルマの思想です。

先日仏教の本を読んでいたら、仏教でいう「善」とは、自分の来世によい結果を生ずるような今世の行為を指すのだとありました。西洋系の宗教のように「神が罰する」と考えようが、東洋系の思想のように「自業自得」と考えようが、どちらも同じことをいっているのです。

 さらに突っ込んで云えば、私たちは物質世界という大きな舞台があって、そこでさまざまなドラマに巻き込まれる、と考えていますが、実はその舞台装置そのものからすべて自分でデザインし、自分でドラマの脚本を書き、演出をし、そしてその中の役を演じ(一人二役も三役もしているかもしれません)、そしてそれを自分が観客になって見ているのです。私たちは物質世界の中に種をまいているのではなく、物質世界そのものが自分がまいた種の結果なのです。

「したいことをする」のは結構ですが、どうせやるなら、舞台装置から書き換えるくらいの大きいことに挑戦して下さい。

287アリス: 自分の発言にこだわるようで申し訳ないのですが、次の発言についてもコメントいただけませんか?ノーコメントもコメントの一つなのですが・・・

<今の私は、残り少ない人生の中でまだまだやりたいこと、味わいたいことが沢山ありますし、楽しい目に合いたいが、苦痛や不如意を避けたい。しかし<転生の繰り返しの中で>今、しなければならないことがあれば、それもやらねばならない。欲張っていますね。>

これは私だけなく、ほとんどの人間の抱いている感情ではないかと思うのです。

つまり、「幸せになりたい。今世でだめなら來生にでも」

私は、あらゆる宗教はこれに答えるためにあるように思うのです。

少し前に「痛み」の問題を取り上げたのも、同じ線上の問題でした。

288 猫: <あらゆる宗教はこれに答えるためにあるように思うのです>と仰るのは、私もまったく同感です。それなのに、人間はキリストから2000年、お釈迦様から2500年経ったにもかかわらず、昔と同じ問いを発しつづけています。

これは一体なぜなのでしょうか。それは、人間が、釈迦やキリストの教えを受入れなかったからです。

<あらゆる宗教はこれに答えるためにあるように思うのです>と、アリスさんは仰います。そうです。釈迦やキリストも同じ考えでした。釈迦やキリストは、そのために地上に現れ、そのための教えを教えたのです。けれども、人間は、その教えを拒否しました。一見信じているふりをしながら、違うものを求めました。人間は、真実の答えを嫌って、自分の気に入る答えを求めたのです。真実の診断を嫌って、自分の気に入る診断をしてくれる医師を探して病院を転々とする患者のように、真実から逃げまくってきたのです。私は、仏教の歴史も、キリスト教の歴史も、教祖の教えが人間のエゴの抵抗によって切り崩され、変質していった歴史だと思っています。

けれども、仏教にも、キリスト教にも、真実の断片は残っています。これから、それらを探して拾い上げて行く道に、アリスさんを御案内しましょう。もちろん、これまでの私たちの会話も、すべてそのための旅だったのですが。

289アリス: 猫さん。私の尋ね方が悪いのか、ここしばらく猫さんのお答えは、私にはしっくり来ません。287で再度<今の私は、残り少ない人生・・・>についての猫さんのコメントを求めたのですが、お答えがありません。そんな今の私が今何をしたら良いか、ご存知ならお教えいただきたいという気持ちも含まれています。

それについてノーコメントということでしょうか?

<仏教にも、キリスト教にも、真実の断片は残っています。これから、それらを探して拾い上げて行く道に、アリスさんを御案内しましょう。>に関してですが、私はこれまで、他人の言説を材料に会話をするのを意識的に避けてきました。キリストの言葉もお釈迦様の言葉も、恐ろしいほど多様に解釈されているわけですから、この対話にそれを入れてしまうと、収拾がつかなくなると思うからです。「空」一つとっても、猫さんと私の理解の仕方は異なっています。私はキリストの言葉より猫さんの言葉を聴きたいので、この対話が続いているのだと思います。そして、猫さんのご案内で、仰るような旅に出る日が来るかもしれません。きっと楽しいことでしょう。しかし、旅立つ前に、私としてやらねばならぬことがあると思っています。私がこれまでの猫さんの旅でどうなっているか、現在の私を猫さんの目でチェックしてみてくださいませんか?

以前に<27 アリス:この対話編はこれまで一方的にアリスは質問側ですが、ソクラテスの例に倣って、逆に、猫さんから質問してみてくださいませんか?アリスは答えられないかも知れませんが、対話に変化が出ると思いますので。>と申し上げましたが、問われる側に立って、何が不足なのか見つめたいと思います。いかがでしょうか?

290 猫: 私もアリスさんが何を求めておられるのか、しっくりこないものを感じています。

283のアリスさんの<更に、別の私はこう呟きます。霊なのだから、何もしなくても良い。または、したいことをすればよい、と。>に対して、私は286で<まったくその通りです>とお答えしました。私の答えはこれに尽きています。何かしなければならないこととか、してはならないことというものはありません。ただ、何をしたら結果がどうなるかということを知り、それに基づいて自分の欲しい結果が出るようなことをすればいいのです。人間の問題は、物事のほんとうの因果関係を知らないために、自分の欲しない結果ばかりが出てくるので、困惑しているだけなのです。釈迦もキリストもそのことを教えようとしたのですが、人間は「本当の因果関係」を受け入れようとしなかったのです。

<何が不足なのか見つめたいと思います>と仰いましたが、問題は、アリスさんが、自分が霊であることを本当には信じていない、ということにあるのではないでしょうか。一方、私が言っていることは、本に書いたこともホームページに書いていることも、そしてこの対話も、すべて「あなたは肉体の人間ではなくて、永遠の生命を持った霊ですよ」ということだけなのです。もし何が不足しているかを私に言えと仰るのであれば、「自分が霊である」とはどういうことかということを徹底的に追求し、徹底的に信じることだと申し上げます。

アリスさんは「残り少ない人生」といわれますが、もしアリスさんが自分が霊であることを本当に信じておられるなら、ご自分に無限の時間があることを知っておられるはずです。必要なら何百回でも地球に生まれ変って、人生の続きをすることもできます。もうこのあたりで他の星に変りたいと思われるなら、それもできます。もし今の人生が残り少ないと思われるなら、それを次の人生のための準備に使うこともできます。ひとつの肉体の寿命を無限に延ばして、死を経験しないようにしたい、と仰るのなら、そのための修業をすることもできます。それをマスターするためには、あと何回か何十回か生まれ変わる必要があるかも知れませんが、それでも、それは確かに実行可能なことなのです。

霊には、不可能はありません。時間は無限にあります。いつまでに、何をしなければならない、というようなことはないのです。必要なことは、自分の欲しいものを明確にすること、自分の心の全体をそれに向けて統合すること、そしてその意志を持続することです。

<今の私は、残り少ない人生の中でまだまだやりたいこと、味わいたいことが沢山ありますし、楽しい目に合いたいが、苦痛や不如意を避けたい。しかし<転生の繰り返しの中で>今、しなければならないことがあれば、それもやらねばならない。欲張っていますね。>

確かに欲張っていますね。けれども、欲張りが悪い、ということはありません。ただ、欲張れば欲張ったことの結果を受け取るだけです。昔から「二兎を追うものは一兎をも得ず」と言います。けれども、だからといって、二兎を追うのが悪いというわけではない、というのが私の考えです。二兎を追えば、一兎も得ないという結果を得るだけのことです。それでも、いいではありませんか。もし、ウサギを追うこと自体に興味があるのなら、一兎だけ追うより二兎を追うほうがおもしろいのではないでしょうか。ウサギをつかまえるのが目的なら、一匹ずつ確実に追うのがいいでしょう。けれども、ウサギと追いかけっこをするのが目的なら、二匹でも三匹でも同時に追えばいいのです。そのほうが、複雑で、スリルに富んだ追いかけっこができるでしょう。ウサギも結構楽しんで遊んでくれるかも知れません。

昔、元祖アリスが不思議の国で元祖チェシャー猫に尋ねますね。

“Would you tell me, please, which way I ought to go from here?”

(すみませんが、ここからどっちへ行ったらいいのでしょうか?)

元祖チェシャー猫は答えました。

“That depends a good deal where you want to go.”

(それは、あんたがどこに行きたいかによるね。)

それにならって、私もアリスさんにお尋ねします。

「あなたは、ウサギとの追いかけっこを楽しみたいのですか。それとも、ウサギをつかまえたいのですか。もしつかまえたいのなら、最初につかまえたいのはどのウサギですか?」と。

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