アリスとチェシャ猫の対話(65)

254 猫: 簡単です。アリスさんが受け入れると決心すればいいのです。それ以上に何もする必要はありません。誰からもとがめられることはありません。

アリスさんは、なぜこのことを受け入れられないのでしょうか。証明がないからでしょうか。自分の感覚的経験に反するからでしょうか。そのことをよく考えてご覧になれば、自分の心が何に依存して立っているかがわかります。

これだけで終ってしまっては、あまりにもそっけないので、すこし補足します。アリスさんがいま、自分は肉体の人間であると思っておられるなら、アリスさんは夢の中の人物になりきっておられます。夢の中の存在には、夢を破る力はありません。夢から覚める力を持っているのは、夢を見ている存在のほうです。

ただ、一つだけ、夢の中と夢の外を結ぶ力があります。それは意志の力です。夢の中で夢から覚めようと強く思えば、覚めることができます。逆に、こんな夢を見ようと強く思って眠ればその夢を見ることができます。

先日、テレビでおもしろい話を聞きました。名前を忘れてしまいましたが、ある女流棋士(将棋指し)が対談でいろいろなことを話していた中で、こんな話が出てきました。この人は、対局前に試合に勝つ夢を見ると実際の試合には負けるのだそうです。あるとき、昇段試験か何かの大事な試合の前に、この人は勝つ夢を見てしまったのだそうです。目を覚ましたこの人は「困った」と思いました。そして、時間がまだ午前四時頃だったので、また眠りなおして首尾よく負ける夢を見たのだそうです。やはり勝負師だから意志の力が強いのでしょうか。

実は、霊的存在としての私たちも同じなのです。いま私たちは物質世界の夢にとらえられていますが、そこから覚めるか、どのような夢をみるか、それをコントロールするのは意志の力なのです。

255アリス: 猫さんにクドイという印象を持たれるかもしれませんが、これまでのところを要約すると、お前は「痛み」の夢を見ているのである。夢から覚めればよい。夢の中で夢から覚めようと強く思えば、覚めることができる。ということでよいでしょうか?

256 猫: 突き放して言えば、その通りです。けれども、それに追加して言えば、「夢を見ているお前は何者か」ということをよく考えなさい、ということです。夢を見ているのは夢の中の存在ではありません。いま私たちが生きているこの「現実」を夢であると見ることは、自分がこの「現実の一部」ではない、ということを宣言することです。釈迦は「色即是空」と教えましたが、この物質世界の現実が空であると見ることが重要なのではないのです。その空である幻の世界を見ているものがある、それは空の世界に属するものではない、お前は空ではない、そのことに気付きなさい、というのが釈迦の教なのです。自分がこの幻の現象世界に属するものではないと気付いたときに、はじめて「度一切苦厄」が成就するのです。

 次の話題を提供するために、少し私のほうからお話をします。

私は、夢の中で夢から覚めようと思えば覚めることができる、といいました。実際に私は何度かそういう夢を見たことがあります。けれども、夢の中から目を覚ますにはものすごい意志の力が必要です。覚めそうで覚めない、あと少しというところでどうしても眠りの中に引き戻されてしまう、という状態が続きます。

アリスさんはいま、夢からさめようという意志をもっておられます。もしそうでなかったら、私を相手に、こんな話を何年も続けることはなさらないでしょう。また禅の実習に参加なさることもないでしょう。私たち人間の見る夢は、外から見ていれば、一瞬に覚めるように思えますが、夢の中から見ればたいへんな努力と時間がかかるように思えます。霊の見る夢も同じです。いま現在のアリスさんの歩いておられる道が、アリスさんの目覚めのプロセスそのものなのです。そのことを自覚されたら、アリスさんの足取りはもっと確かなものになるでしょう。

対話245でアリスさんは、アリスさんが見ている世界はアリスさんの意識の中である、ということに同意されました。そのことを思い出してください。いまアリスさんに話しているこのチェシャー猫を名乗る人物は、実はアリスさん自身の意識の一部なのです。アリスさんは自問自答しておられるのです。アリスさんは、いま、自分はアリスであって、猫は猫だ、あれは別の人物だと思いたがっておられます。それはアリスさんの心の一部が、夢から覚めるのを嫌がっているのです。けれども、アリスさんの心には、既に夢から覚めた部分、いいえ、決して眠らなかった部分があります。それが、いま、人語をしゃべる猫の形を借りて、目覚めを嫌がっている部分に語りかけているのです。「そろそろ目を覚ます時間だよ」と。このように言えば、私が、本当のアリスさんがどんなものであると考えているかが、少しおわかりになるのではないでしょうか。

もう少し、話を続けます。

私は、夢から覚めようと思えば覚められる、といいましたが、それはふつう、私たちの時間つまり「夢の中の時間」で測ると、パッと一瞬に目覚めるようにはなりません。先ほどお話したように、その意志を持ちつづけたときに、さまざまなプロセスを経ながら次第に目覚めが実現して行くのです。その目覚めのために「夢の中で」使う手段として有効なのが、アリスさんの言葉で言えば座禅あるいは禅定、私の言葉で言えば瞑想です。これは夢の中にいながら、目覚めた状態に意識を集中して行くことです。その結果として、一瞬の目覚めを体験することがあります。けれどもすぐにまた眠りの中に引き戻されます。これが「見性」の体験であると言ったら、アリスさんはどう思われるでしょうか。

このようなことを何度も何度も繰り返しているうちに、目覚めの状態が次第に長くなってきます。最後に、もはや眠りの中に戻ってこない、という状態になったら、それがほんとうの「目覚め」であり、「悟り」の状態です。私が習った瞑想の言葉では、それを「宇宙意識」の状態と言います。

霊の見る夢と私たち人間の見る夢とは少し違います。私たちの夢は、覚めてしまえばそれで終わりです。もう一度眠って続きを見る、というようなことはめったにありません。けれども、霊は、目覚めた状態で、夢の続きをみることができます。「宇宙意識」の状態で日常生活をすることができるのです。そのときは、私たちは、もはや夢の中の出来事に縛られることはありません。逆に夢の中の出来事を自分で支配するようになります。物質の法則も超越します。アリスさんが、目覚めた後に、目覚めたままの状態で再びアリスの人生の続きの夢を見るならば、アリスの人生を自分の好きなように作り出すことができるのです。アリスさんが、「痛み」をコントロールできるのは、このときです。

痛みをコントロールするとは、自分の意識をコントロールすることであり、自分の意識をコントロールできるのは目覚めたものだけです。

これは、とんでもない先の長い話だと思われるかも知れません。けれども、霊にとって時間は無意味です。アリスさんの決心の強さによって時間はいくらでも変ります。決心が十分に強ければ、たった今でも目を覚ますことができるのです。

それは見方を変えれば、アリスさんが自分の心をどれだけ統御できるかという問題です。先ほどお話したように、アリスさんの心には、目覚めた部分、目覚めたがっている部分、目覚めたくない部分、無関心な部分などいろいろな部分(サブマインド)があります。もしアリスさんが、自分の心を説得してすべての部分を目覚めるということに同意させることができたら、目覚めは一瞬に起こるでしょう。

257アリス: <255アリス: お前は「痛み」の夢を見ているのである。夢から覚めればよい。夢の中で夢から覚めようと強く思えば、覚めることができる。ということでよいでしょうか?>

これに対して<256 猫: 突き放して言えば、その通りです。>

これで十分です。有難うございました。

そして、続いて、丁寧なお話もありがたく思います。

<アリスさんの心には、目覚めた部分、目覚めたがっている部分、目覚めたくない部分、無関心な部分などいろいろな部分(サブマインド)があります。もしアリスさんが、自分の心を説得してすべての部分を目覚めるということに同意させることができたら、目覚めは一瞬に起こるでしょう。>には共感しますし、努力します。

これまで、お付き合いしてくださった序にといっては何ですが、今しばらくお付き合いください。当面、次の2点についてお考えをお聞かせください。

@「痛み」の夢の「・・・」の中には不如意以外に、あらゆる感覚、感情、思考・・・を入れることが可能ですね。今こうして猫さんと対話していると思っていることを含めて。

そうすると、果てしもない循環論に陥りませんか?251独白で触れていますが。

A「色即是空」「空即是色」に関して、これを観ている(目覚めている)のも空ではないですか?それ以外に仏性(霊)があるのですか?それとも仏性(霊)は説明のための方便でしょうか?( cf.253)

258 猫: @<「痛み」の夢の「・・・」の中には不如意以外に、あらゆる感覚、感情、思考・・・を入れることが可能ですね。>

まったく、その通りです。そのことを述べているのが「五蘊皆空」あるいは「受想行識、亦復如是」という心経の言葉です。五蘊とは色受想行識の五つであると言われます。色とは物質のことであり、受とはそれを知覚した感覚であり、想とは感覚によって想起される対象の姿(表象)、行とは意志であり、識とは認識である、とされています。つまり、物質世界と、それとかかわりあうことによって起こる人間の精神作用のすべてが空である、ということです。

Aの問いとも関連しますので、ここで空についての議論は後回しにしますが、アリスさんが循環論だとおっしゃる意味が私にはよく理解できませんが、もし「アリスさんと私の対話も夢の中だから無意味ではないか、だから物質世界が夢であるということも間違いではないか」という意味でおっしゃっているのであれば、私は、「夢の中の議論は夢の中の存在にとっては真実である」と申し上げます。もちろん、夢から覚めれみれば、夢の中でそのような議論をしたこと自体、ほほえましい思い出以外の何ものでもないでしょう。同じように、苦痛も死も、夢から覚めてみれば、すべてが懐かしい思い出となるでしょう。

また、循環論という言葉をお使いになることによって、「物質世界が夢であることは証明できない」ということをおっしゃっているのであれば、私は「まったくその通り」と申し上げます。証明はできません。私たちの対話の最初の頃に、合理的思考には出発点が必要だということを申し上げたのを憶えていらっしゃいますか。証明には前提が必要です。夢の中で取り上げられる前提は、すべて夢が現実であるということを証明するだけのことです。だからこそ、この問題が宗教の領域に入るのです。そこで必要なのは、証明ではなく、直観であり、信であり、直接知なのです。そのために座禅や瞑想の修練が必要なのであって、論理的に証明できるのであれば紙と鉛筆があれば十分です。

 Aの問題に入りましょう。

 <色即是空」「空即是色」に関して、これを観ている(目覚めている)のも空ではないですか?>

 空については、さまざまな理論や解釈や議論があるようですね。仏性も空であるという一派もあるようです。けれども、私は、仏性が空であるとは思っていません。

 まず、「空」とは何かということですが、私は、空とは「架空」という意味だと考えています。架空の人物、架空の物語、という時の架空です。物質世界はすべて架空の物語、架空の出来事、架空の世界だというのが、般若心経の教えるところです。けれども、あるものが架空であるというためには、架空でないものがなければなりません。架空でないものから見てはじめて、架空の世界という言葉が意味を持つのです。架空の世界の中の存在にとっては、架空の世界が現実になります。架空の世界に属さないものが観たときにはじめて、それが架空の世界であるということが認識されるのです。

 作家が小説を書きます。小説は架空の世界です。たとえば、いま私の手許に、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』(新庄嘉章訳、新潮文庫)があります。

「やれやれ! なんて醜いやつだ!」と老人は、はっきりそう思い込んだ調子で言った。

彼はランプをテーブルの上に置きに行った。

ルイザは叱られた小娘のようにふくれ面をした。ジャン・ミシェルはそれを横目で見て、そして笑った。

「綺麗な子だって言わすつもりはないだろう? そう言ったところで、おまえだって本気にはしないだろう。まあいいさ、おまえのせいじゃないよ。赤ん坊て、みんなこんなものさ」

 これは、その始めのほうの一節です。朝からの雨で湿った狭い小屋の中に、老人とその娘と孫の赤ん坊がいます。老人が赤ん坊を醜いと言ったので、母親である娘は気分を害します。老人は「赤ん坊なんてみんなこんなものだ」と気にとめません。これらはすべて、物語の登場人物にとっては現実です。老人が赤ん坊を醜いと思ったのも、娘が気分を悪くしたのも現実です。ここには老人と娘の知覚や感情や思考や行動が描かれていますが、それらはすべて物語りの中では現実です。けれども、作家から見れば架空の世界です。これが五蘊皆空ということです。物質世界は誰が見たときに架空の世界なのでしょうか。仏性から見たときです。

 仏性とは、物質世界というこの架空の世界を作り出し、それを眺めている作家です。もしこの作家も架空の人物であるとするなら、作家を主人公にして物語を書いている別の作家がいることになります。たとえば、私が作家を主人公にして小説を書いているとします。

作家は、原稿用紙の上に、「やれやれ、なんて醜い奴だ」と老人は言った、と書いた。それから、暫く手を休めて、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 架空の世界が二重になっています。老人は作家が作り出した架空の人物であり、その作家は、私が作り出した架空の人物です。老人は架空の架空の世界に住んでいるといえます。私が以前「存在の階層」という言葉を使ったのはこのような意味です。私が第一の階層の存在であるとすれば、作家は第二階層の存在であり、老人は第三階層の存在ということになります。

 仏性に話を戻しますが、もし物質世界が架空の世界であるなら、それを作り出している架空でない存在があります。それを私は霊と呼んでいます。架空の世界を観ている架空でないもの、それが霊です。そして私は、仏性という言葉もそのようなものを指しているのであろう、と考えています。もし、仏性も架空の存在であるというなら、さらにその上に、仏性を生み出した架空でない存在がなければなりません。

 <これを観ている(目覚めている)のも空ではないですか?>という言葉に、しばらく私は考え込んでいました。そして、上のような文章を書いたのですが、ご質問とずれているかもしれません。もし、ずれているようなら、「目覚め」ということについてもう少しお話しする必要があるのかも知れません。ご質問をお待ちします。

259アリス;先ず、一致している所から申し上げますと、私の循環論は<「物質世界が夢であることは証明できない」ということをおっしゃっているのであれば、私は「まったくその通り」と申し上げます。>ということで、その後の宗教論も抵抗はありません。

現時点で私と猫さんの認識の最も異なるのは

<私は心経の五蘊皆空という言葉は、端的に物質世界にかかわるすべてが夢、幻、架空の世界であるという意味だと解釈しています。>

私は、五蘊は物質世界以外の一切を含むものと見ています。空を架空と形容的には理解できないのです。色=空、空=色と繰り返していることがそれを表していると思います。

空とは「−なるもの」であり、霊でもあると思っております。そのことを見ている誰かがいるではないかと仰れば、それは観自在菩薩=私ということになります。I am who I am.です。

猫さんの空=架空という説は今の私にはぴったりきません。空=無自性・無我なるものというのが、やや私には近いです。

従って<架空の世界を観ている架空でないもの、それが霊です。>とはならないのです。これが、猫さんとの対話が2年近く続いている理由かも知れません。

<仏性(霊)は説明のための方便でしょうか?>とお聞きしたのはそのためで、仮に観るものと観られる空とを分けて見るのも分りやすい。方便としては、猫さんの物質世界=夢、それに対して仏性(霊)=真実は私達の見方を根底から変える見方で素晴らしいものだと思います。方便として素晴らしい。果たしてそうか?猫さんからすれば、私の目覚めたくない部分なのかもしれません。私に成熟の時が必要です。

色々お聞きしたいことがありますが、まず、一つ。夢から目覚めようとする意志は五蘊に属するのでしょうか? 仏性(霊)に属するのでしょうか? 別の例をとりますと、私が今、立とうと思えば立てますが、立つという意志は五蘊に属するのでしょうか? それとも霊に属するのでしょうか? 

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