アリスとチェシャ猫の対話(61)

220 猫: 魂のしたいことは「すればわかり」ます。もしアリスさんが絵を描いているとき、深い安心感があるなら、それが魂のしたいことです。魂のしたいことをしているとき(あるいはしたとき)は、満足、充実、平安といった内面の力に満たされます。どんなに好きなことであっても、それをした後、満足感が長続きしなかったり、むなしさを感じたり、人生を無意味だと考えたり、これでいいのだろうかといった疑いが起こるようなら、それは魂のしたいことではないのです。

 「したいことが山ほどあって時間が足りない」という感じを持つ人もたくさんあるようです。けれども、魂にとって、時間は無限にあります。魂は急ぎません。むしろ、魂が「この人生で」したいことは、それほど多くはない、と私は考えています。ひょっとしたら、たった一つかもしれません。もしそれが達成されたら、魂は未練なく人生を終らせるでしょう。そして魂は、次のしたいことに取組むために新しい人生を計画するのです。

 これは「好きなことがたくさんあるのはよくない」と言っているわけではありません。絵を描いたり、音楽を聴いたり、人と交わったり・・・そういったさまざまな「好きなこと」に共通して自分が求めているものはないか、考えてみてください。

人生にはたくさんの「すること」があります。魂がしたいことというのは、それらのどれか一つ、ということではなくて、そのどれにかかわるにしても、それを通じて何か達成する、表現する、あるいは心の資質を獲得する、マスターする、といった目的があるのです。

たとえば魂は「親切にする」ということを「この人生」でマスターしようと考えます。「親切にすること」は、人生のいたるところに応用場面があります。「他人に親切」にするだけでなく「自分にも」親切でなければなりません。他人には親切にするけれども、自分は粗末にしているという人は、親切にすることを半分しか学んでいません。他人は親切にするけれども、家族には横柄だという人もいます、その逆の人もいます。人間は大切にするけれども、ペットや動植物には身勝手だと言う人もいます。親切の対象は生き物に限られるわけではありません。仕事をするにしても、絵を描くにしても、仕事や絵に対して親切であることができます。

ありとあらゆる場面において、あらゆる人、あらゆる物事に対して「親切である」ことを学んだとき、その人は「親切」というものを学んだと言えるのです。それは知識として学ぶのではありません。スポーツの選手が技を習得するように、バレリーナが踊りをマスターするように、職人が神技と呼ばれるような技を身に付けるように、心の使い方をマスターするのです。

 私たちは、このようにして心の使い方を習得し、それによって更に深みのある人生を描き出し、さらに精妙なエネルギーを用いた表現ができるようになって行きます。私たちはこのようにして、神の意識の一つの細胞としての表現力を高めていくのです。

221アリス: 魂の声を聞く方法として、猫さんの「魂のしたいことする」というユニークなお考えの展開をお聞きしているわけですが、したいことをしながらマスターをしようとしているお話などいくらでも奥がありそうですね。少し、後戻りしますが、この会話は215、216の

「<不如意な状態になった時にそこから抜け出す方法は、何か一般化できる原則というものがあるのでしょうか?>

あります。それが「魂の声にしたがう」ということです。」

あたりから、続いており、219の最後の部分でも

<「仮にいまあなたに何の不安もないとしたら、あなたは何をしたいでしょうか。」という前提条件についてですが、大抵の人はまず「何の不安も無い」状態を実現できたらどんなにか素晴らしいかとまず思うでしょうね。私もそうです。この壁をどう乗り越えるかが課題です。>と何だか堂々巡りのような発言を私はしています。具体例でお話しますと、例えば、知人の何人かがパーキンソン病を患っていますが、このような不如意に対しても魂の声にしたがうというやり方で抜け出せるのでしょうか?「不如意から抜け出すことがまずしたいこと」なんです。

これについての猫さんのお考えはいかがでしょうか?

222 猫: 私のほうも少し回りくどい説明をしていたようですね。いままさに質問が核心に触れたという感じです。私のほうも中心を射抜くようなお答えをしたいと思います。

 <「不如意から抜け出すことがまずしたいこと」なんです>とのことですが、この「したいこと」はエゴのしたいことであって、魂がしたいことではない、というのが私の答えです。

「不如意から抜け出すことがまずしたいこと」というのは、現在の私にとっても全くそのとおりです。私自身も身の回りにたくさんの不如意を抱えています。けれども、単に「不如意から抜け出したい」というのはエゴがしたいことなのであって、魂はそう簡単に「不如意から抜け出したい」とは思っていないのです。なぜでしょうか。それは、魂にとって、不如意というものは存在しないからです。魂は不如意が架空の出来事であることを知っています。それはエゴが自分で描き出した幻覚に過ぎません。それなのに、エゴは、それが幻覚であることに気付かず、一生懸命に「不如意から抜け出したい」と思っています。

魂はエゴのすることをじっと見ています。そして、魂も、エゴがこの幻覚から目覚めることを望んでいます。けれどもそれは、エゴが、幻覚から抜け出す方法を学ぶことによって、自分で目覚めるのでなければ意味がありません。

エゴが学ぶべき「幻覚から目覚める方法」というのは、自分の意識をコントロールすることです。幻覚が自分の意識の反映であることを知り、自分の意識を自分にとって快適な幻覚を生み出すような意識に変えることができれば、不如意は消えてなくなります。そしてさらに、エゴが、自分の意識に固着せずに神の意識に同調することを学べば、幻覚は消えてなくなります。このとき、エゴは魂と融合し、霊性への帰還の旅路を完成することになります。そのときが来るのを、魂はじっと待ち続けているのです。

パーキンソン病の方にとって、病気が幻覚であるなどということはとんでもない話だと思われるでしょう。けれども、そもそも私たちの肉体そのものが幻覚なのです。その肉体の上に起こるあらゆる現象もすべて幻覚です。この真実に目覚めることこそが、魂がエゴに「してもらいたい」と思っていることなのです。223 アリス: 不如意=苦からの脱却は、私たちほとんどの人にとって、最も基本的な課題で、その救済が宗教の目的となっています。少しくどく感じられるかも知れませんが、(また、逆戻りの恐れがありますが)お付き合いください。

パーキンソン病に罹っておられる方が、物を掴もうとして手が震えます。<そもそも私たちの肉体そのものが幻覚なのです。その肉体の上に起こるあらゆる現象もすべて幻覚です。>ということですが、これは周りの者だれもが認識できます。みな共同で幻想を見ているのでしょうか?

そして、患者がそのこと(幻影であること)に気づくと震えはなくなるのでしょうか?

224猫: ご質問の個所は、おそらく多くの人にとって最も理解しがたいところであろうと考えます。この点を丁寧に論じて行くことは、重要なことだと思いますので、私も何とか理解していただけるような説明をするように努力したいと思います。

 ご質問は二つあると思います。一つは私たちの見ている(体験している)世界が「共同幻想」なのかという質問であり、もう一つは「患者が気付けば震えはなくなるのか」という質問です。私もできるだけ答えが拡散しないようにしますので、必要なら納得が行くまで何度でも質問しなおしてください。

 第一の質問ですが、或る意味で「共同幻想」であるといってもよいと思います。ただし、「幻想」という言葉で、私たちの肉体の脳が幻想を見ていると思わないで下さい。

アリスさんはウルティマ・オンラインというインターネットのゲームをご存知でしょうか。インターネットの中に仮想の世界がつくられていて、その中に世界中から参加者が自分のキャラクターを送り込み、その中で生活をさせます。送り込まれたキャラクターは仮想世界の中で、さまざまな社会的活動や経済的活動をします。ウルティマ・オンラインは世界中から20万人が参加して共同でつくりあげている仮想世界です。

 地球という世界(あるいは物質宇宙全体)も、実はこのような「仮想世界」であり、私たちのような「肉体」は、その中に送り込まれたキャラクターである、というのが私の言う「共同幻想」なのです。私たちの地球世界は、霊的世界から百億以上の霊的存在が参加してつくりあげている仮想世界なのです。

何が幻想であり、幻想でないものは何なのかということをじっくり考えてから、改めてご質問ください。ここは最も重要なキイポイントですから。

 第二のご質問は、「患者が気がつけば震えはとまるのか」ということですが、いま申し上げたように、肉体の脳が幻想を見ているわけではないので、肉体の脳のレベルで気がついても何も変わりません。肉体の脳の背後にあって、仮想世界のキャラクターである肉体を動かしている「エゴの意識」が変わらなければならないのです。そして、このエゴの意識のレベルで変化があれば、何の病気であろうとたちどころに治ります。死んだ者が生き返ることも起こります。それはそのエゴの意識が、どれほど過激な変化を許容するか、という問題なのです。エゴの意識が、自分のキャラクター(肉体)は物質の法則にしたがうべきだ(あるいは物質の法則に支配されている)と考えている間は、奇跡のようなことは起こらないでしょう。過激な変化を許容するという意味はそのようなことです。

225   アリス:2つの質問を一度にすると対話がややこしくなりますね。「共同幻想」の方

に話を絞りましょう。インターネット・ゲームの譬えは分ります。人は私を含め、このゲームの中で何とか不如意をクリアしたいので、攻略本を求めているのです。ゲームから降りることではありません。

さて、そのゲーム、即ち<私たちの地球世界は、霊的世界から百億以上の霊的存在が参加してつくりあげている仮想世界なのです。>と言うことですが、百億以上の霊的存在とは人間に対応する存在なのでしょうか?色々な動物、植物、鉱物はゲームの背景的存在でキャラクターではないのでしょうか?また霊たちは共同して遊んでいるのでしょうか?なんだか「百億以上の霊的存在」も仮想世界ではという気がするのですが・・・またしても、問題を複雑にしてしまったかもしれません。

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