アリスとチェシャ猫の対話(60)

216 猫: 切実なご質問ですね。二つのご質問に順にお答えします。
<本当にエゴが欲していることに従っていいのでしょうか?>というご質問には、多少コメントが必要です。「心の底からしたいと思うこと」という言葉に注意してください。それはただの「したいこと」ではありません。「本当にしたいこと」なのです。

日本の最大の哲学者といわれる西田幾多郎が大学で同じような意味のことを講義したとき、ひとりの学生が立ち上がってこういう質問をしたそうです。
「もし心の底から人を殺したいと思ったら、殺していいんですか」
西田教授はしばらく黙ってその学生をじっとみつめました。そして、静かな声でゆっくりとこういいました。
「もし君がほんとうに魂の奥底からそうしたいと思うのであれば、そのとおりだ」
人間が「本当にしたいと思うこと」というのは、魂の欲望であってエゴの欲望ではありません。けれども、はじめのうちは、エゴにはそのことがわからないので、自分の皮相的な欲望にしたがって生きようとします。その結果、人生のラフにはまり込むことになるのです。

エゴは、本当にしたいことがわからないので、その代わりに間に合わせの欲望を持ち出して来るのです。それは、何か心が満たされていない淋しい人が、むやみに間食をして太ってしまったりするのに似ています。いくら間食をしても心の淋しさは解消されません。それと同じように、エゴの欲望は本当の欲望ではないので、いくらその欲望にしたがっても満足するということがありません。一つの欲望を満たせば、すぐにそれ以上の欲望にとりつかれ、絶えず欲望に追いかけられているような人生を送ることになります。

 このような人生を送る人は、ゴルフの譬えで言えば、ちゃんとしたレッスンを受けずに我流で頑張っている人のようなものです。上達は遅く、ラフばかり渡り歩くことになります。けれども、そのような人も、何度もそのような人生を送るうちに、誰かから「あんた、一度ちゃんとしたレッスンを受けた方がいいよ」というようなことを言われて、はじめて魂の声に耳を傾けるようになります。自分が「本当にしたいこと」を知るというのは、「魂がしたいこと」を知るということなのです。
ここまで来ると第二の質問に対する答えも同じことになります。
<不如意な状態になった時にそこから抜け出す方法は、何か一般化できる原則というものがあるのでしょうか?>
あります。それが「魂の声にしたがう」ということです。
 20世紀の前半、アメリカにエドガー・ケイシーという人がいました。この人は透視によって人の病気を見抜き、その治療法を教えることができるという特別な能力を持っていて、多くの人を助けたといわれる人です。
 このケイシーが、あるときひとりの男性に物質的な処方と精神的な処方の両方を与えました。この男性は物質的な処方すなわち薬を飲んだり運動をしたりというほうは真面目に従いましたが、「もっと他人に対する思いやりを持つようにしなさい」という精神的な処方のほうは無視しました。
 数週間して、症状が思ったほど改善されないこの男性は、ふたたびケイシーを訪ねて診断を求めました。すると、ケイシーはその男性を透視して、すぐにこういったそうです。
 「あなたは、何のために病気を治したいのか。もっとエゴイスティックになるためか。もしそうなら、病気は治らない方がいいのだ」
 これが魂の声です。エゴは肉体が快適になり、お金が手に入り、地位と名声が得られるようにと、目に見える成果ばかり追い求めます。けれども、魂は、エゴがどのように成長するかということに目を向けています。
 アリスさんがゴルフの教師であると考えてください。生徒の打ったボールがラフに入ったとき、教師であるアリスさんは何を考えるでしょうか。生徒はスコアのことばかり気にしています。けれども、アリスさんは、ラフに入ったときの対処の仕方を教える絶好のチャンスだと考えるのではないでしょうか。

人生のゴルフも同じです。魂は、エゴがどんな人生を歩んでいても、それによってエゴを責めたり、罰を与えたり、見捨てたりすることはありません。あらゆるチャンスをとらえて、エゴが霊性に目覚めるように、支援と導きを与えるのです.

 一般的な原則は、このように、ひとことで表現することができます。けれども、具体的にどうするかということは、一人一人の状況に応じて異なります。それはゴルフのレッスンを考えてみれば、おわかりになると思います。同じようなラフに飛んでいったとしても、生徒の腕前に応じて教え方はちがってくるでしょう。生徒が比較的初心者なら、安全にフェアウェイに出すように指導するかも知れませんし、もし相当な腕前なら、わざとスライスボールを打って、前方の立ち木をよけながらグリーンを狙うようなトライをしてみるように指導するかもしれません。

 したがって、このような場合にはこうしなさいと具体的な行動を他人に教えることは誰にもできません。ただ「自分の心の内面に入っていって魂の声に耳を傾けなさい」というほかはありません。

 けれども「魂の声に耳を傾ける」ということ自体のイメージが湧かないという人もあるかもしれません。そこで、次回はもう少しこの問題を続けたいと思います。

217 アリス: 次第にクリアーになってまいりました。ゴルフの譬えも、少しゴルフをやった経験でよく分かります。(何でもやっておくべきですね)

「魂の声に耳を傾ける」ことについてのお話をお願いいたします

218 猫: 魂の声を聴くためのよく知られた方法は、瞑想や座禅です。けれども、魂の声を聴くための方法は無数にあります。この方法しかないとこだわってしまうと、その観念に縛られることになります。魂はもっと自由です。

ここでは、少し違う方法についてお話しましょう。

 216でもお話しましたが、魂の声に気付くということは、自分の「本当にしたいこと」に気付くことと同じです。私たちはふつう自分の「本当にしたいこと」に気付いていません。そのために、エゴは常識的な「しなければならないこと」に縛られるのです。私たちの考える「しなければならないこと」は、たいてい何らかの不足や欠乏の観念から作り出されます。

 たとえば、私たちは「いまお金が足りない」とか「将来お金がなくて困るかも知れない」という不安や恐れから、何か仕事をしなければならないと考えます。たまたま手に入った仕事が自分の好きな仕事であれば幸いですが、そうでなくても、私たちは「家族を路頭に迷わすわけにはいかない」と考えて嫌な仕事にもしがみつきます。

 不安や怖れにもとづいてする行動は、「魂のしたいこと」ではありません。けれども、私たちは、不安や怖れから自由になることが難しいので、なかなか魂のしたいことに気付くことができないのです。

 仮にいまあなたに何の不安もないとしたら、あなたは何をしたいでしょうか。将来の生活が保障され、経済社会にも政治の社会にも恐ろしいことの起こる怖れの全くない、楽園のような世界に住んでいるとしたら、あなたは何をしたいでしょうか。絵を描きたいでしょうか。音楽を聴きたいでしょうか。それとも、旅行をして、自然の美しさを心ゆくまで味わって見たいでしょうか。

 それがあなたの魂がしたいことです。

 自分が何に感動するかに注意してください。自然の美しさでしょうか。それとも人がつくった芸術でしょうか。人の心の温かさでしょうか。それとも、逆境に負けず闘っている人の強さでしょうか。

 自然に感動するとしたら、どんな自然でしょうか。若葉や花の美しさでしょうか。夕焼けの空でしょうか。満天の星でしょうか。それとも深山の夜の闇の深さでしょうか。

 自分が感動するものにできるだけ多く触れる機会をつくってください。感動の瞬間を深く味わってください。そのとき、自分の心の奥深くで起こっていることに注意を向けてください。身体の細胞の震えを感じてください。

 現代人は、世界を頭で理解することにエネルギーを集中しています。けれども、人間は頭だけで生きているわけではありません。身体と心のすべてを使い、あらゆる感覚を使い、世界を味わってください。身体から何キロメートルもある長い触角が出ていると想像して、その触覚で世界に触ってみてください。

 魂の声というものが、身近に感じられるようになるでしょう。

 この他にも、いろいろな方法があります。それらについては、また折に触れてお話することにしましょう。要は、自分が如何に観念に縛られ、如何に先入観に歪められた世界の姿を見ているか、ということに気付くことです。そして、自分の心の奥底に存在する真実の感覚、観念や信念の幻像をみるのではない新鮮な感覚に注意を向けることです。

 魚は水の中を泳いでいます。魚は、自分の周りにある水に気付いているでしょうか。私たちが魂の声に気付くというのは、水の中にいる魚が水を感じるようになるようなものです。それは最も自然な現象なのです。

119 アリス:私は小学校の頃から、『自分の「本当にしたいこと」』は何かということに関心がありました。一つのピークは中学3年のとき、絵を描きたくて本気に絵描きになりたいと思ったときです。普通の高校ではなく、絵を時間の多い工芸高校へ行きたいと思ったのですが、親の反対を受けました。そのとき私は体が丈夫でなかったこともあって、赤貧の中で画家を遣り通す自信が無く、意志を貫徹できませんでしたが、その時は自分を深く見つめたように思います。それから後は、お金、職業、家族等の配慮もあって、本当にしたいことを十分やっていないまま時が流れたように思います。

その所為もあって、「自分の本当にしたいことはなにか?」「つまるところ自分は何になりたいのか?」をいつも自問していました。こんなこともしました。自分のしたいこと、欲しいことをカードに書き出して、得られたものを消してゆくこと。又、自分の読んだ本、持っている本を全部洗い出して、自分が何を求めているのか考えたことがあります。もう2,30年前のことですが・・・

しかし、これには確信ある答えが得られません。好きなことが色々あります。見ること、聞くこと、話すこと、考えること、描くこと、食べること、飲むこと等々、深い喜びを味わうことも出来ます。花や鳥にも心が動きます。逆の嫌悪や悲しみの感情を抱くこともあります。したいことは山ほどあって、かなりの時間をそれに割いているのですが、死ぬまでにその何分の一が達成されるのかなあ!と時々思います。

「仮にいまあなたに何の不安もないとしたら、あなたは何をしたいでしょうか。」という前提条件についてですが、大抵の人はまず「何の不安も無い」状態を実現できたらどんなにか素晴らしかとまず思うでしょうね。私もそうです。この壁をどう乗り越えるかが課題です。

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