アリスとチェシャ猫の対話(62)

226 猫: 「百億以上の霊的存在も仮想世界ではないか」というのはたいへん鋭い指摘です。確かにそう言うこともできます。けれども、このことの真の意味を理解するためには、存在の階層という概念を思い出す必要があります。

 究極的には、真実に存在するものは神のみであって、それ以外の存在はすべて仮想の存在です。したがって「百億以上の霊的存在」も仮想の存在です。けれども、すべてが仮想の存在であるのは、神に対しての話であって、神以外の仮想の存在から見れば、仮想の存在が現実の存在に見えるのです。

 これも以前お話したことがありますが、神の本質は、あらゆる物事を表現し認識するプロセスです。「あらゆる物事」は無限に存在します。したがって神の認識のプロセスは、無限のバラエティをもって無限に続きます。この神の認識のプロセスの要素的プロセスが霊的存在であるということも申し上げました。つまり、無限個の要素プロセスの集合体が神なのです。この意味で、私は、霊的存在たちは神の意識の細胞であるという言い方をします。

 要素的認識プロセスである霊的存在は、その認識するものを自らの意識の中に描き出し、自らの体験として認識します。このようにして霊的存在の意識の中に描き出された世界が物質世界なのです。

 ここで、神、霊的存在、物質世界という三つの「存在の階層」があることに注意してください。神は霊的存在を生み出し、霊的存在は物質世界を生み出します。いわば、親、子、孫という世代の違いがあるわけです。これは最低限度の表現なので、真実はもっとたくさんの階層があると考えていますが、ここでは三つの階層だけを考えることにします。

 神にとっては、神以外のものはすべて自分が生み出したものですから、すべてが仮想の存在です。けれども、霊的存在から見れば、自分と同じ階層にある他の霊的存在たちは「現実の存在」に見えます。物質世界は、霊的存在が生み出したものですから、霊的存在にとっては仮想の存在ですが、私たちの肉体は物質的世界に属していますから、肉体の感覚を通じてみれば、物質世界が現実に見えます。物質世界が仮想の世界であるという言葉は、私たち人間が本当は肉体ではなく、一つ上の階層の霊的存在であるという認識とセットになって初めて意味があるものなのです。

 したがって、「百億の霊的存在も仮想世界である」という表現は、「さらにもう一つ上のレベルから見て」ということになります。三つの階層しか考えないのは、非常に単純化した見方ですから、霊的存在の上のレベルがすぐ神になってしまうというわけではありません。たとえば、「地球世界」という統合的な霊的存在があり、その意識の中に、地球の霊や、動植物の霊、人間の霊が生み出され、これらの霊たちが共同で、自らの意識の中に地球世界という物質世界を作り出していると言えば、もう少し真実に近いかも知れません。

 いずれにしても、あるものが「仮想の存在」であるという表現は、常に「その上のレベルから見て」という意味を含んでいます。このことを忘れなければ、神以外のすべての存在は仮想の存在である、と言って間違いありません。私が、物質世界が仮想の存在であることを強調して、霊的存在も仮想の存在であるとあまり言わないのは、現在の私たちにとっては、自らが霊的存在であって、物質世界に属するものではないということを、しっかり心に植え付けることが重要だと思うからです。

 

227アリス: 山登りに譬えると、1つの峠を越えようとしているのかもしれません。私なりに、自分の足で一歩一歩進んでいきたいと思いますので、先の疑問、<百億以上の霊的存在とは人間に対応する存在なのでしょうか? 色々な動物、植物、鉱物はゲームの背景的存在でキャラクターではないのでしょうか? また霊たちは共同して遊んでいるのでしょうか?>にお答えいただけないでしょうか? 共同幻想のテーマをいま少し掘り下げたいと思いますので・・・

228 猫: このご質問は、いくつかの質問を含んでいますので、一つ一つについて順番にお答えして行きます。

 <百億以上の霊的存在とは人間に対応する存在なのでしょうか。> その通りです。私が百億という数字を出したのは、その意味です。

 <色々な動物、植物、鉱物はゲームの背景的存在でキャラクターではないのでしょうか>。このことは以前にも話題になりましたが、もう一度アリスさんが納得のいくまでお話したいと思います。何度でも質問してください。

アリスさんが、「背景的存在」と「キャラクター」という言葉でどのような区別を意味しようとされたのかよくわかりませんが、物質世界の存在はすべて物質世界を作ることに参加している霊的存在たちが作り出したものであるという意味では、すべてが「キャラクター」です。植物や鉱物というような大きなまとまりだけでなく、一つ一つの分子や原子にいたるまで、すべてがキャラクターである、と言えます。

 物質世界の存在の背後には、かならずそれを生み出した霊的存在がいます。このことを指して、ある人は「分子や原子にも意識がある」という言い方をします。私は「担当者意識」という言葉を使いました。担当者意識というのは、物質世界のある存在物を担当している霊的存在という意味です。

 このような意味で、物質世界のあらゆる存在はキャラクターであるといってもいいのですが、私は、それぞれが担っている役割と性質に違いがあると思っています。人間が物質世界で果たすべき役割とそのために持っている意識の性質は、2000年を生きる植物が持っている役割とその意識の性質、数十億年を「生きる」山や岩石が持っている意識の性質とは異なっていると思っています。それはどちらがすぐれているとか、重要であるといった意味ではなくて、ただそこに表わそうとしているものが異なるのです。

 私たちにとって必要なのは、人間の真の姿と真の役割とを理解することだと、私は考えています。そのために、多くの場合、人間の霊性に限定して話を進めて行きます。人間が自分の霊性を本当に取戻したなら、他の存在物の霊性については、自然に理解できるようになるというのが私の考えです。

 <また霊たちは共同して遊んでいるのでしょうか>というご質問の主旨はよくわかりません。225では、この質問はむしろあとの<百億以上の霊的存在も仮想の存在ではないか>と結びついて、「霊的存在がたくさんいるの?本当はひとりではないの?」という質問のように感じられたのですが、如何でしょうか。もう少し質問の主旨を解説してください。

 

229 アリス: 以前うかがった担当者意識=霊的存在というのが猫さんのお考えであると思っておりました所、百億以上と数字が出てきたので、霊的存在を人間に限定されたのかと思いました。山や岩も霊的存在に変わりないのですね。ご説明有難うございます。

その性質やレベルの議論はあらためてお聞きすることになると思いますが、話はは223の<<パーキンソン病に罹っておられる方が、物を掴もうとして手が震えます。<そもそも私たちの肉体そのものが幻覚なのです。その肉体の上に起こるあらゆる現象もすべて幻覚です。>ということですが、これは周りの者だれもが認識できます。みな共同で幻想を見ているのでしょうか?>>から発展したものです。この場合は「共同幻想」を見ているのは人間という霊的存在に限定するのでしょうか?それでも一向に構いませんが、そもそも幻想であるAの手の震えをBもCも・・・と他の人間も認識するわけですから、なんだか、霊たちは共通のルールで遊んでいるように見えるのです。

<「霊的存在がたくさんいるの?本当はひとりではないの?」という質問のように感じられたのですが、如何でしょうか。>
その通りです。

 

230 猫: Aの幻想である手の震えをBやCが見るのはなぜか、というご質問については、もう一度ウルティマ・オンラインの話を思い出してください。ウルティマ・オンラインというのは、インターネットの上につくられた仮想の世界です。その中にたくさんのキャラクターが送り込まれ、仮想の生活をしています。その中のキャラクターのひとりが病気にかかって、物を掴もうとすると手が震えるようになったとします。すると、そのことは、その仮想世界に送り込まれたすべてのキャラクターが認識します。キャラクターが認識することは、そのキャラクターを送り込んだプレヤーも認識します。けれども、どれだけ多くのキャラクターやプレヤーが認識しようとも、ウルティマ・オンラインの世界の中で起こっていることは、すべて仮想の出来事です。

 物質世界で起こることは、これと全く同じです。キャラクターを人間(肉体)に、プレヤーをその肉体を担当している霊的存在に置き換えてください。どれだけ多くの人間が認識しようと、どれだけ多くの霊的存在が認識しようと、物質世界の中で起こることは、すべて幻想です。ウルティマ・オンラインの世界全体が仮想世界であるように、物質世界全体が仮想世界なのです。

 ただし、ウルティマ・オンラインの世界が仮想世界であるのは、人間から見たときの話であって、その中に送り込まれたキャラクターの立場から見れば、ウルティマ・オンラインの世界こそが現実なのです。おなじように、物質世界は、霊的存在にとっての仮想世界であって、肉体人間にとっては現実です。このことをよく考えてください。これが理解できないと、共同幻想は理解できません。

ついでに申し添えると、ある人間が病気にかかっているのを見るのは、他の人間だけではありません。犬や猫もご主人が病気になったのを見ます。植物や鉱物も、もし目があるならば、同じように見るでしょう。目がなくても、テレパシーで見ているかもしれません。これらの存在が同じ幻想を見るのは、これらの存在が人間と同じ霊的存在だからではありません。地球世界という仮想世界にかかわっているからです。霊的存在であっても、地球にかかわっていないものたちは、地球の幻想は見ないでしょう。

 <霊的存在はただひとりではないのか>というご質問については、前回お話した通りです。究極のひとりの霊というのは神です。けれども、そこへ行く前にもう少し、細分化された階層を考えたほうがよいと思います。肉体の一つ上のレベルは、私が担当者意識と呼ぶ個別化した霊で、そこからもう一つ上のレベルにあがれば、それらの霊は一つになります。私は、たぶん「地球世界」というグループで一つになるのだと思っています。そのレベルでは、地球の霊(それは山や川や海や空や風の霊を含みます)とその上に住むすべての生物の個別の霊、それから姿は見えないけれども地球にかかわっている妖精や天使のような存在たちが一つになります。そこでは、あなたは私であり、私はあなたであり、殺すものと殺されるものが同じであるという世界になります。けれども、いまは、いきなりそのレベルまで話を持っていかないほうがよいのではないか、と私は考えています。

 

231 アリス: <いまは、いきなりそのレベルまで話を持っていかないほうがよいのではないか、と私は考えています。>ということに反するのかもしれませんが、猫さんの霊的存在のレベルのお話をお伺いする前に、私としてはクリアーにしておきたいことがあります。

私はこのように考えたのです。「共同幻想が成り立つためには霊達が共通ルールを持ち、瞬時に交信できるか、または、霊は唯一つでなければならない。」私は今は後者の考えです。

68あたりから始まった素粒子の話、ベルの定理にしろ後者であれば理解できます。

97の式で表すと意識担当者(霊的存在)N1、N2,・・・があるとして、

N1=N2=N3=・・・・=ΣN=0=∞=神=私

のような世界ではないかと。どこを切っても唯一者であり、I AM WHO I AM.ではないかと。それから先のことはまだ考えておりません。山川草木悉有仏性ではなくて山川草木悉仏と言うことになるでしょうか?

 

232 猫: 「アリスさんのお考え」や「アリスさんの言葉」による表現に反対するつもりはありません。霊の世界に関して人間の言葉で厳密に表現することはできませんから、誰でも自分が最も納得できる表現を採用すればよいのです。<山川草木悉有仏性ではなくて山川草木悉仏である>とおっしゃるのも、その通りだと思います。

ただし、いろいろな人がつむぎ出すさまざまな表現のどれかが正しくて、他の表現は間違いだとお考えになるなら、それは霊の世界を理解するのに人間の肉体の理性に頼っておられると思います。どれが正しいかではなく、どれが「いまの自分」にぴったり来るかという基準で、表現を選んでください。あるときは一つの表現、別の時には別の表現、でもいいのです。

 私の感覚から言えば、「霊たちが共通ルールを持ち、瞬時に交信できる」か「霊は一つである」かのどちらかであるというのは、排反事象の二者択一問題ではなく、一つのもの(?)の二つの面であり、同時に成り立っているのが霊的世界である、と思います。

キリスト教の「三位一体」というのをご存知だと思います。父(神)、子(キリスト)、聖霊が三つの異なるものであってしかも一つである、という神学理論ですが、日本人はこのような表現を何の抵抗もなしに受け入れることができると私は考えています。けれども、西洋人たちは、なぜ異なる三つのものが一つであり得るのか、という議論を長々とやるのです。

霊が多数であるか、一つであるかというのは、そのような議論と同じだと私は考えています。霊は一つであると同時に多数であり、空間は一点であると同時に無限であり、時間は永遠であると同時に一瞬でもあります。けれども、あるときある角度から論じようとする場合には、どちらかに限定しないと言葉が成り立たないので、表現を制限します。これが、私が「いまはそのレベルまで話を持っていかないほうがよいと思う」と言った意味です。

問題は、どちらの表現が正しいかということではなく、どこまで意識を広げることができるかということです。「霊は一つである」という表現を採用することは、私はあなたであり、あなたは私である、という世界に足を踏み入れることです。殺すものと殺されるものが同じであり、愛するものと愛されるものが同じであり、自分以外には何者も存在しないという世界を受け入れることができる、とおっしゃるのであれば、私は、「霊はただ一つである」と考えたいというアリスさんのお気持ちを尊重します。「霊はただ一つである」というのも間違いなく真実だからです。

もしアリスさんが望まれるなら、今後は、そのような角度から見た話を続けたいと思いますが、如何でしょうか。

233      アリス:やっと1つの峠(峰)に来たとという自覚があり、一点において、猫さんと共通の地点を踏んだという悦びがあります。この「霊は唯一つ」という地点から、不如意=苦の問題へと戻りたいと思います。224の共同幻想からここへ来たのですが、その時で、積み残した「患者が気がつけば震え(不如意)はとまるか」の問題に帰りたいと思います。どんな経路を取るか分りませんが、ふたたび、「存在の階層」や担当者意識が現れてもかまいません。先導をお願いいたします。

(独白:不思議の国のでは誰もアリスの希望を聞いてくれるものはいませんでした。この現実の世界もそうですし、私のハンドルネームをアリスとしたのもそのためです。猫さんとのこの対話も不思議の国の対話といえなくもありませんでした。ですから、正直言って、<もしアリスさんが望まれるなら、今後は、そのような角度から見た話を続けたいと思いますが、如何でしょうか。>といわれますと、ちょっと別の国に入ったような戸惑いを感じます。)

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