アリスとチェシャ猫の対話(59)

210 猫: 「この世の営み」が「霊性に帰ること」に対してどのように関わるか、ということについてお話します。

私は、「この世の営み」として何をしようとも、「霊性に帰る」ことに関してはプラスにもマイナスにもならないと考えています。「霊性に帰る」ことについて関係があるのは、その営みを「どのようにしたか」ということです。「何をするか」ではなく「どのようにするか」なのです。

霊的存在が肉体をこの世に持って一つの人生を歩もうとするときには、ある目標があります。その人生を通して実現するべき個人的目標をもって人生を始めるのです。けれども人生を終ってみると、始めに計画した目標を達成した場合もあれば、達成できなかった場合もあります。霊的存在は、目標を達成した場合には、更により高い目標に向かって次の人生を計画します。目標を達成できなかった場合には、もう一度同じ目標に再挑戦するための人生を計画します。

これはあくまで一般論ですが、霊的存在は、このようにして人生というゲームを続けるのです。なぜ、目標を達成できなかった人生があるのでしょうか。それは人間が学習や遊びにおいて、自分で目標を立ててチャレンジするのと同じです。私たちも模擬テストをやってみてあまり成績がよくなければ、同じ課題に再挑戦します。岩登りをする人は、命綱に体を結びつけて、転落の経験を何度も積みながら技術を磨いていきます。

輪廻転生に結びついてカルマということが言われます。前世で悪いことをすると、その償いを今世でしなければならない、ということですが、それはむしろ因果応報の法則というより、ここに述べたように、霊的存在としての魂が、自分の表現したい生命の姿の完璧な表現を求めて再挑戦するのだと、私は考えています。

したがって、この世の営みにおいてどのように生きるのがよいかというと、自分の魂の目標を知り、それを実現させるような人生を歩むことです。いわば「自分の魂に協力する」ことが効率的な人生であるといえます。そうすれば、魂は、次々に高い目標の人生に取組むことができるからです。自分の魂に対して非協力的であると、計画した目標がなかなか達成できないために、同じ目標に何度も挑戦しなければなりません。いわば、魂は足踏みを余儀なくされるわけです。

けれども、誤解しないでいただきたいのですが、非効率的な人生がよくないというわけではありません。アリスさんの旅と同じように、人生ゲームの旅も、ゆっくりと丁寧にやっていく方が実りが多い場合もあります。旅を終ってみれば、どんな旅も素晴らしい思い出になることでしょう。

「自分の魂に協力する」というような言い方にとまどわれるかも知れません。次回にはそれと関連して、魂の人生ゲームと霊性への帰還とがどう関係するのかをお話します。

211 アリス: 話の続きをお聞かせください。

212 猫: 私は、人間は霊的な存在であると繰り返しています。それは、人間は物質ではなく、純粋の意識であるという意味です。以前にお話ししたと思いますが、純粋の意識とは、思考したり想像したり感じたりする心的能力だけが、それ自体で存在しているということです。物質世界のような「形ある世界」は、すべてそのような純粋の意識が自らの心の中に体験している心象風景です。私たちはそれを外界に投影して、外界が客観的に存在すると考えていますが、真実は心象風景のみが存在しているということです。

さて、この霊的な存在が、或る特殊な体験をするために、純粋の意識である自分の中に部分的な意識を作り出しました。それを「エゴ」と呼ぶことにします。以前にお話したエゴと全く同じであるかどうかは多少あいまいですが、主要部分がエゴであることは確実ですから、このように呼ぶことにします。これに対し、本来の意識の部分を「魂」と呼ぶことにします。人間の純粋意識全体は、エゴと魂でできていることになります。これは非常に単純化した描写ですが、とりあえずの役には立つと思います。

エゴは、本来の純粋意識の一部でありながら、魂の部分から情報的に切り離された特殊な意識です。そのエゴに「物質世界」を形成する一群の情報が与えられ、エゴは自分を物質世界の肉体であると考えるようになります。そのような心象風景がエゴの中に形成されるということです。こうして、エゴは、人間の本来の性質である霊性を失い、純粋の物質の塊であるという体験をすることになるのです。エゴが体験することはすべて意識のほかの部分即ち魂にも伝えられるので、エゴの体験は人間の純粋意識全体で体験することになります。けれども、その体験に対する反応はエゴの内部でのみ行なわれるので、エゴは物質世界の中で孤軍奮闘することになります。

純粋意識である人間は、このような仕組みによって、自らの霊性を忘れた物質性のみの存在が体験するさまざまな体験を味わうのです。エゴは物質世界の中の人生の体験を繰り返しながら、その「心的能力」を高め、やがて「霊性」というものを理解するようになります。そしてついには、魂の部分との再結合を果たし、エゴという特殊な領域は全体の中にもう一度組み込まれることになります。そのような「成長の過程」を作り出し体験するのが、このような仕組みを心の中につくりあげた霊的存在の目的です。

それは学習能力を持ったロボットをつくりあげた人間の技術者が、そのロボットに学習をさせ、そのロボットがどこまで賢くなっていくかを実験するのに似ています。人間という名の純粋意識は、自らの心の中で、物質から霊性へと成長していく過程を実験しているのです。

私たちは、いま、エゴだけが自分であると考えています。エゴは肉体が自分であると考えています。そのために私たちは「肉体の死」という体験を非常に恐れるのです。けれども、この成長の過程の最後のステップは、「自分」が肉体ではないことを理解し、「自分」が霊的な存在の一部であることを理解し、そして実際に魂との情報的つながりをつくりあげることです。「自分の魂と協力する」というのは、このような最終段階の始まりを意味しているのです。

やがて、魂とのつながりを完全に回復したときには、「自分」は肉体ではなく、霊的な存在の「一部」でもなく、霊的な存在そのものになります。「自分」が魂とつながるのではなく、「自分」は魂そのものであることになります。そのときはじめて、エゴは、物質世界が架空の世界であり、自分が永遠の存在であることを、実際に体験として知ることでしょう。

213アリス: 210、212のお話はよく分かりました。

それでは「自分の魂と協力する」ことにより「霊性に帰る」には具体的に何をすればよいのでしょうか?「成長の過程」がビルトインされているのなら特に何もする必要はないように思えますが・・・
「エゴは物質世界の中の人生の体験を繰り返しながら、その「心的能力」を高め、やがて「霊性」というものを理解するようになります。」ということでしょうか?

214 猫: 「霊性に帰る」ために、瞑想をしたり座禅をしたりすることは以前にお話しましたので、ここでは少し違った角度からお話しましょう。

 「霊性に帰る」ためには、アリスさんが「本当にしたいと思われること」をしてください。心の底からしたいと思うこと、それをすることに生きがいを感じ、心の奥底から喜びを感じるようなこと、それをすると自分が生き生きしてきて、世界が美しく見えるようなことをしてください。

 「霊性に帰る」ためにしなければならないことは、一人一人みんな違います。同じ人でも、時によって違います。今しなければならないことと、明日しなければならないことは違います。一瞬一瞬を、心の底からしたいと思うことに集中して生きること、それがエゴの成長の過程として理想的な生き方です。

エゴには、確かに、自動的に成長するための仕掛けが組み込まれています。けれども、それはエゴの人生が、あらかじめ仕組まれたプログラムに従って自動的に進んで行くようなものではありません。もしエゴの体験する人生がそのようなプロセスであるなら、エゴは自動人形になってしまい、おもしろくも何ともない存在になってしまいます。

エゴが進化するプロセスには、三つの仕掛けが仕組まれている、と私は考えています。

第一の仕掛けは「あこがれ」です。エゴは、本能的に何処までも向上しようとする意欲を持っています。これが方向を間違えると、いくらお金をため込んでもまだ足りないという強欲の塊のような様相を呈することにもなりますが、強欲も本質的には向上心の表れです。向上心が不安や怖れと結びついて、満足を知らぬ状況になるのです。

第二の仕掛けは、世界の中に時折霊的な教師が現れることです。これによってエゴに「物質的な価値以外の価値がある」という情報が与えられます。心理学者のマズロウでしたか、人間は生理的な欲望が満たされると、もっと精神的な内容の欲望をもつようになると主張して、それを自己実現の欲望と名づけました。そのような欲望の方向付けの参照データを与えるのが霊的な教師の役割です。

第三の仕掛けは、チェックシステムです。エゴが、その人生について魂が望んでいる方向から外れた行動を取った場合に、人生の不具合や身体の不調が発生し、道を外れているというシグナルを送るようになっています。したがって、人生において何か不如意なことがあるときは、その人の心のあり方、エゴの進もうとする方向が、すこし曲がっているよ、という魂からのシグナルなのです。

エゴが人生を体験するのは、私たちがゴルフをするようなものです。私たちが「何とかして100を切りたい」と思うように、エゴも人生の達人になりたいという強い憧れを持っています。その目標は、はじめのうちは物質的な富や、肉体の安全かもしれません。けれども、私たちのゴルフの目標が「100を切りたい」から「90を切りたい」とか「シングルになりたい」と進化していくように、エゴの目標も、何度も人生を繰り返しているうちに、物質的なものから、心理的、精神的、霊的なものに変化していきます。

ゴルフは、フェアウェイをキープしつづけることができれば楽ですが、腕が悪いとラフに入ったり、OBになってやり直したりして苦労をします。エゴの人生も、進むべき方向を間違えると、人生がラフに入り苦労することになります。ラフの中を進んでも、それが間違っているとか、ルール違反だというわけではありません。場合によっては、わざとラフの中だけを選んで歩くような「腕試しの人生」もあるのです。ただ、楽な人生を生きたかったら、ボールをフェアウェイに戻したほうがいいというだけです。

いろいろなコースでラウンドを繰り返すことによって、私たちのゴルフの腕前は上がっていきます。エゴも、何度も人生を繰り返すことによって、次第に心的能力を発達させ、自然に霊性に近づいて行きます。そのように導いていくのが魂の役目なのです。

<「成長の過程」がビルトインされているのなら特に何もする必要はないように思えますが・・・>ということですが、アリスさんは既に「必要なこと」に取組んでいます。アリスさんが「霊性に帰る」ことに関心を持っていること自体が、アリスさんがしなければならないことを着実に行なっているしるしです。

215アリス:霊性に帰る方法として、<一瞬一瞬を、心の底からしたいと思うことに集中して生きること、それがエゴの成長の過程として理想的な生き方です。>という教えはユニークですね!理屈ぬきで実践してみないと結果でないのでしょうが、本当にエゴが欲していることに従っていいのでしょうか?

第三の仕掛け<エゴが、その人生について魂が望んでいる方向から外れた行動を取った場合に、人生の不具合や身体の不調が発生し、道を外れているというシグナルを送るようになっています。>に関して、そのシグナルを効いた時、つまり不如意な状態になった時に底から抜け出す方法は何か一般化できる原則というものがあるのでしょうか?それともゴルフでラフやバンカーに入ったときのように、それそれの状況によってしかいえないのでしょうか?

私のエゴは先ず自分や家族の健康、衣食住の安心、社会的地位、評価、更に、それをより安定させるための隣人の幸せ、社会の平和を求めています。ここから限りない不如意な状況が出てまいります。世の中の営みの99%はこの次元のことだと思います。

 



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