アリスとチェシャ猫の対話(58)


204 猫: 世界が幻想であるということには、重大な意味が含まれているといいましたが、それは私たちがひとりひとり別の世界に住んでいるのだ、ということです。このことは以前にも触れたことがあると思いますが、もう一度ここで取り上げたいと思います。

私たちは、客観的存在である共通の世界の中に、一つの物体として存在していると思っています。けれども実は客観的世界というものは存在しません。したがって物体として存在している私たちの肉体も存在しません。ただ「存在している」と私たちが感じているだけです。

「私たち」は、それぞれ自分の意識の中に描いている世界を見ているだけであって、それはひとりひとり違っています。私が見ているブッシュ大統領と、アリスさんが見ているブッシュ大統領は、「同じ人」ですが「別のもの」です。けれども、アリスさんと私がブッシュ大統領やイラク問題について会話をすれば、話は通じます。それは、「私たち」が地球世界について一つの情報の集合を共有しているからです。私たちはその情報の塊によって地球世界をイメージしています。

アリスさんの世代ならラジオドラマというのをご存知でしょう。まだテレビのなかった時代、声と効果音だけで構成されたドラマは独特の世界を創り出していました。その中で代表的なものといえば、もちろんあの「君の名は」というドラマです。戦火の中で一瞬触れ合った男女が、戦争が終ったあと互いに相手を探して訪ね歩くという「すれ違いのドラマ」ですが、戦争と戦後の混乱した世界を体験した世代には他人事でない切実さが感じられ、驚異的な人気を博したドラマでした。けれども、あのドラマの人気の秘密は、あれがラジオドラマであったというところにもよっている、と私は思っています。ラジオドラマには映像がありません。ヒロインの氏家真知子の容姿も、相手の後宮春樹の姿も、聴く人が自分勝手に想像しながらドラマを聴いていたのです。このドラマを聴いていた人がそれぞれの心の中に描いていたヒロインの姿をもし取り出して映像化することができたら、それはみんな違ったものになったことでしょう。けれども、これらのすべての映像には一つの共通点があります。それは、すべての映像が、それを思い描いた人にとっての最高の美女である、ということです。どんなに美しい女優さんをヒロインに据えて映画化したとしても、ひとりの女優がすべての人の理想の美女であるということはあり得ないことです。ラジオドラマは具体的な映像をあえて見せないことによって、逆にすべての人が自らの理想の美女と出会うことを可能にしたのでした。

私たちが体験している地球世界も、実はラジオドラマのようなものです。それは、霊的存在たちの世界に放送されている、超特大のラジオドラマです。「私たち」は地球に住んでいるのではなく、地球世界の情報を持っているのです。その情報をもとに、私たちは思い思いに自分の地球を描いて見ています。そして、「私たち」は多くの霊的存在たちと一つの情報の塊を共有することによって、みんなで共通の一つの世界に「住む」ということを擬似的に体験するのです。

地球に「住んで」いるさまざまな存在たちは、このような情報の共有によってグループをつくります。地球世界について別の情報を共有しているグループもあります。「私たち」は、同じ地球に「住んで」いても、同じ情報を共有しないグループとは、まったく別の地球世界を体験することになります。情報を共有しないグループの存在に気づくことすらありません。なぜなら、「私たち」が体験するのは自分が持っている情報であって、その中にないものを体験することはできないからです。

このあたりで、ご質問があればどうぞ。

205アリス: ラジオドラマの場合、シナリオを書いたり、演じたりする人があるがためにそれを聞く者は情報を共有し、共同の幻想を抱くのですが、情報を提供しているのは誰か?

その情報を共有する「多くの霊的存在たち」とは?この対話の始めの方から繰り返し出てくる意識なのでしょうか?そして多数いる。

203の私の疑問には直接お答えになっておられませんので、ラジオドラマの例をとり繰り返しますと、このラジオドラマの筋書きは、我々の力で何とかハーピィーエンドに変えうるものなのか?それともどうしようもないもので、解決はスイッチを切ること(幻想であることに目覚めること)しかないのでしょうか?

(ここしばらく、私の疑問の中心は、この世で行われているあらゆる努力は何か意味を持つのかということにあります。科学上の追求、社会福祉の追求、家族、自分の幸せの追求、これらがゲームであり、ラジオドラマであるとすると、これらの努力は何がしかの意味があるのだろうかということを考えます。 

206 猫: 括弧書きにより、アリスさんの疑問の焦点がよくわかりました。そちらのほうから順にさかのぼってお答えしましょう。

アリスさんは「ゲームや遊び」には価値がないとお考えでしょうか。アリスさんが「意味がある」と考えるものは、どのようなものでしょうか。

 私もはじめは「遊び」という言葉から何か価値が希薄な感じを受けました。けれども、よくよく考えると、遊びに価値がないという考えこそ、この物質世界という遊びから生み出された一つの固定観念であることがわかります。

そのことは、私たちの価値体系の中で「遊び」に対置されるものは何か、ということを考えてみるとよくわかると思います。それは「仕事」でしょうか。「勉強」でしょうか。それとも「社会正義の実現」といったものでしょうか。「遊び」に対置されるこれらの概念が何であれ、そこには一つの共通の要素が含まれています。それは、これらの概念がすべて「何らかの不足を解消するための働きを指している」ということです。「仕事」は、仕事をする個人にとっては生活費や遊興費の不足を補うためであり、仕事の社会的な成果という面では、社会の中の物資やサービスの不足を埋めるためのものです。「勉強」は知識の不足を解消するためであり、「社会正義の実現」は社会における正義の不足を埋めるためのものです。このように私たちは、個人、家族あるいは社会の中の何らかの不足を解消するための努力に価値があると考え、そうでない活動を一括して「遊び」と呼んでいます。そのために、「遊び」という言葉にはいつも何か後ろめたい語感が付きまとうのです。

けれども、もしそうであるなら、あらゆる点で充足した永遠の存在である霊的存在にとっては、遊び以外に何もすることはありません。霊的存在にとっては、存在すること自体が遊びなのです。「遊びやせむとて生まれけむ」とは良寛和尚の言葉だったかと思いますが、私は最近になって、この言葉がものすごいことを言っていたのだという思いを深くしています。

また、アリスさんは、架空の世界の体験には意味がなく、真実の世界の体験に意味があると考えておられるのでしょうか。もしそうなら、形のあるもので、架空世界以外に存在ものは何もない、ということを思い出してください。なぜなら、霊的存在が体験するものはすべて自分自身の意識だからです。

言葉の使い方で、いま「霊的存在」と言っているものは、以前「意識」と呼んでいたものと同じであると考えてください。簡単に言えば、神は根源の意識であり、神が直接生み出した神の意識のかけらが「霊的存在」たちであり、霊的存在たちの一部が自分のこころの中に生み出した体験的仮想世界が物質世界です。

 そこで、アリスさんのもう一つの質問に戻ります。

 <このラジオドラマの筋書きは、我々の力で何とかハーピィーエンドに変えうるものなのか?それともどうしようもないもので、解決はスイッチを切ること(幻想であることに目覚めること)しかないのでしょうか?>

 このご質問に答えるために、私は204で「私たちが一人一人別の世界に住んでいる」ことを強調したのです。私たちが見ているドラマの筋書きを書いているのは自分自身です。したがって、そのドラマをハッピーエンドにするのもしないのも、自分次第というわけです。アリスさんは「我々の力で」と言われましたが、本当は、アリスさんの世界はアリスさんひとりの力で、私の世界は私ひとりの力で変えることができるのです。これが「一人一人別の世界に住んでいる」ということの意味です。

 このことは、大勢で情報を共有して同じ世界を体験しているという話と矛盾するではないかと思われるかも知れませんが、どの程度情報を共有するかを決めるのは自分なのです。誰も、他人が体験する世界を指示することはできません。私たちは、入ってきた情報のすべてを、心の中のスクリ−ンにディスプレイする必要はないのです。私たちがインターネットでどのサイトのどのページを見るかを選択する自由があるように、私たちは共有する情報を選択する自由をもっています。ただし、私たちの大部分は、肝心のその選択をする能力を忘れているといってもいいのかもしれませんが。

207 アリス: 私の質問がうまくなされていないために、猫さんのお答えが、200あたり

ら、私には隔靴掻痒の感があります。

ここしばらく続けている、この世の色々な営み(科学者のそれは一例で、テロリストの営みでも、一市民の父親の営みでもよい。物質世界の様々な営み)は、それを仕事と呼ぼうが遊びと呼ぼうが、いずれでもいいのですが、猫さんの言われる「霊性へ帰る」ことには、関係があるのか無いのか? この世の営みとは一体何なのか?が分からない。

世俗と一応縁を切った良寛さんは、このような営みは、意味がないとされた人ではないかと思うのです。猫さんのお考えは良寛さんに近いですか?

色々とご説明を戴きながら、7歳のアリスには分からないのです。

「私たち多くの霊的存在たち」と沢山の霊的存在が出てくると話が分からなくなるようです。どこか、本質を理解していないのかも知れません。

208 猫: 私がしゃべりすぎるので、アリスさんの疑問の核心に迫れないのかもしれません。簡単明瞭なお答えを差し上げましょう。

 この世の営みとは、霊的存在たちがする遊びである、というのが私の考えです。霊的存在のする遊びとは何かというと、それは生命のあらゆる存在の形態を表現しつくし、味わいつくすことです。そういう意味では遊びというより芸術家の創作活動であるというほうが近いかもしれません。

 アリスさんの疑問の中には「この世の営みは何の役に立つのか」という意味合いが含まれているように思います。もしそうでしたら、私はアリスさんに質問をしたいと思います。アリスさんが裸婦を描いたとしましょう。アリスさんの絵の中の女性は何のために裸になっているのでしょうか。彼女が裸でいることは何の役に立つのでしょうか。

科学者の営みは何の意味があるのか、というご質問は、私から見れば、このような質問と同じです。アリスさんが絵筆をとってカンバスに絵を描かれるように、霊的存在は、肉体という絵筆で、物質世界というカンバスに、愛と生命の芸術を創作するのです。それが霊的世界から見た「この世の営み」の意味だと、私は考えています。。

 「霊性に帰る」事と関係があるかという質問と、「多くの霊的存在たち」については、別に取り上げることにしましょう。先ず、以上の答えで、「この世の営み」とは何か、というご質問の回答になったかどうかを確認して、先に進みたいと思います。

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