アリスとチェシャ根の対話(56)

196 猫: さすがはアリスさん、目のつけどころが違いますね。これはキリスト教の中の難問中の難問だと思います。けれども、始めに主の祈りの問題から順に片付けていきましょう。

 主の祈りは今でもキリスト教の祈りの中で最も重要であり、また最もよく知られた祈りです。ご参考までに、以下に現在プロテスタントの教会で使われている主の祈りの全文を書いておきます。

天にまします我らの父よ、
 ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。
 み国を来たらせたまえ。
 みこころの天になるごとく、
 地にもなさせたまえ。
 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、
 我らの罪をもゆるしたまえ。
 我らをこころみにあわせず、
 悪より救い出したまえ。
 国とちからと栄えとは
 限りなくなんじのものなればなり。
 アーメン                 (1880年訳)

 これは明治時代の訳ですが、いまでもたいていの教会はこれを使っていると思います。ほかに新しい訳を試みたものもありますので、それも書いておきます。

天の父よ
み名があがめられますように、
み国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように、地上でも行なわれますように。
わたしたちに今日も この日のかてをお与え下さい。
わたしたちに罪を犯した者を ゆるしましたから、
わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい。
わたしたちを誘惑から導き出して 悪からお救い下さい。
み国も力も栄光も とこしえにあなたのものだからです。
アーメン                 (日本キリスト教協議会統一訳)

 この中で「試み」が誘惑 temptationの意味であることがはっきりすると思います。なお、この「試み」は、神が人間を試みるのではなく、人間がさまざまな誘惑に陥らないように守ってください、という意味です。

 さて十字架上のイエスの言葉の問題に入りますが、アリスさんもお気づきのようにイエスの最後の言葉は、四つの福音書でちがっており、どれが本当のイエスの言葉なのか、あるいはどれも違うのか、よくわかりません。第一、イエスが息を引き取ったとき、そばにいたのはローマの兵士達やイエスに敵対したユダヤ人たちであって、それをイエスの母のマリアをはじめとするイエスに従った女達が遠くから見守っていて、男の弟子たちはみんな逃げ去ってそばにいなかったということになっていますから、正確な記録が取れたはずはありません。むしろ謎は、イエスの弱さを示すとも見えるこの言葉が、どうして聖書の中に生き残っていたのか、ということのほうにあるように思います。

 これについて、註解書が何と言っているか、一つの例を次に記しておきます。

 「46節のイエスの絶望的な叫びは、詩編22篇2節の言葉。この詩編は最後に神への賛美となるので、彼はこの詩編全体を朗誦しようとして最初の説だけで力尽きたとする説がある。しかしその考え方は、絶望は救い主イエスの最期にふさわしくないという考えを前提にしており、42節の見物人の考え方にちかいのではないだろうか。むしろ事態はもっと深刻であり、記者が記すとおりにイエスは絶望の只中で神への最期の疑問を投げかけたと解すべきであろう。・・・中略・・・また一方、イエスのこれほどの弱さを伝承に語り継ぐことのできた初期教会の強さも指摘できよう」(山内真監修『新共同訳新約聖書略解』日本基督教団出版局:マタイによる福音書)。

 「第九時にイエスは大声で呼ぶ。暗闇として臨在し、かつ暗闇としてしか臨在しない神に対する呼びかけといえる。・・・中略・・・<わが神>の呼びかけに、神とのパーソナルな関係を表わしつつ、その神が自分を捨てた目的を問う悲痛さがある」(同:マルコによる福音書)。

 プロテスタントには、カトリックのような、ある見解を公式に承認したり否認したりする制度はありませんので、このような問題に対する見解も、神学者により牧師によりさまざまです。註解書もいろいろあって、この言葉に対する解釈も一様ではありません。

そのようなことを承知の上で、以下の私の解釈をお読みください。

 私は、この言葉は、イエスの復活の物語とセットになってはじめて意味のある言葉だと考えています。「神に見捨てられた」と、人も思い、自分も思う、そういう人が復活するところに意味があるのです。これは、イエスだけが特別な人だということを示しているのではありません(そう解釈するのが一般的ですが)。すべての人においてこのことが真実であるということを象徴するものとして、イエスの十字架という事件があるのです。

 旧約聖書の終わりのほうにホセア書という書物があります。それによれば、ホセアという預言者は、神から「淫行の女をめとれ、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(ホセア書1章2節および3章1節)という命令を受けます。それは、神から愛されていながら神を忘れ偶像礼拝に走るイスラエルの民を、神がなお愛しつづけておられることの象徴なのです。このように、預言者は言葉によって語るだけでなく、ときには自分の人生そのもので象徴的に語るのです。

 私はイエスほどの預言者が、人生の最後において、ホセアと同じ事をしなかったということはあり得ないと考えています。イエスの十字架上の死は、ホセアの生涯と同じように、イエスが人生そのものをかけて語った象徴的物語なのです。

イエスは、ゲッセマネの園でユダヤ人たちに捕らえられたとき、剣をとって戦おうとした弟子を押しとどめて、こう言いました。

 「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイによる福音書26章53−54節)。

 イエスの言動がすべて旧約聖書の古い予言の実現であるという考えは、イエスの後に残された弟子たちがユダヤ教に対抗してキリスト教を権威付けるために行なった後付けの理論であると言われますが、イエスが何らかの意味で、自分の命をかけて神からのメッセージを伝えようとしたということは、十分考えられると思います。

 十字架の上で起こる事は、肉体の死です。マタイによる福音書の27章40節に見物人たちが「神の子ならば自分を救え」という場面がありますが、このときの「救い」は肉体の救いを指しています。イエスの「お見捨てになったのですか」という言葉も、肉体の破滅のことを言っています。これらはすべて、肉体に密着した意識、つまりエゴの意識のレベルでの言葉です。エゴの意識のレベルでは、肉体の死はすべての終わりです。神に呼びかけても答えはなく、「神も仏もあるものか」というこの世の知恵が勝利するかのように見えます。

けれども、霊性のレベルにおいては、最初から闘いは存在しません。なぜなら、霊性にとって肉体は幻想に過ぎないからです。ヨハネによる福音書には、イエスが弟子達に別れの説教をするところがあります。イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と語ります(16章38節)。「世に勝っている」とは、私はすでにこの世のものではないということです。

実は弟子たちも、すべての人も、この世のものではないのですが、それは人間が物質世界にとらわれた意識を解放しない限り、現実の体験とはなりません。十字架とは、人間の意識を物質世界から解放することなのです。それが十字架という極刑によって象徴されているのは、物質世界を手放すということが人間の(エゴのレベルの)意識にとって非常に困難なことであるからに他なりません。その困難を乗り越えて、物質世界へのとらわれを振り切ることのできた魂だけが、霊性の世界に目覚めることができるのです。

イエスの十字架の死から復活にいたる一連の出来事は、そのことを象徴的に語る物語であると思います。

アリスさんの直観の確かさに敬服します。アリスさんは、主の祈りの「試み」という言葉と、ヨブ記と、このイエスの十字架上の言葉とがセットになって一大疑問になっていたといわれましたが、こう見てくると、まさにこれらの三つがつながっていることがわかります。

「我らを試みにあわせず」の「試み」とは、物質世界の誘惑のことです。物質世界の中の一部に誘惑があるのではなく、物質世界そのものが甘い幻想の誘惑なのです。その幻想を見抜いたとき、私たちの魂は幻想でない真実を見出すために、激しい絶望と虚無の闇の中で、物質世界の価値観を払い落とすための闘いをしなければなりません。それがヨブ記です。そして、イエスの十字架の言葉は、物質世界の幻想を手放すことがエゴの意識にとって如何に困難であるかということと、物質世界を手放した後にはじめて復活すなわち「真実の世界への目覚」めがあることを示しているのです。

197 アリス:猫さんのお話に唸ってしまいました。年来の3つの一連の疑問が見事に解かれ、深い感動を覚えました。これまでの対話のお陰で、猫さんのお話が分かる自分をうれしく思います。

神―試練―罰・報償 といった家父長的な人格神のイメージが私の心に深く根付いていたことにも気づきました。これはフロイトの世界ですね。

富、名誉、快楽・・・人に心地よいものが誘惑temptationであるのは分かるのですが、病気,貧困、不和、戦争、天災・・・の理不尽とも思える苦痛を伴うもろもろのものは試練trialと受け止めるのが私には自然でした。理不尽であるがゆえに、それは神様が私たちの理解を超えてた理由で私たちに与えたものと思っておりました。しかし物質界の快楽も苦痛もプラス、マイナスの差はあっても、エゴの意識のかもし出すもので、幻想に過ぎないと分かれば、それらは霧散いたします。 

しかし、世界は苦に満ちているというのが多くの宗教のスタート点です。その解決に新興宗教を含む多くの思想が生まれてきました。お釈迦様もここからスタートしておられます。

具体的な現在の苦に対し、具体的な対応策が示されなければなりません。苦が物質世界の幻想のひとつだとして、結局、エゴがある限り幻想も消えないと思うのですが、これが十字架の意味でしょう。

それではエゴとは一体何なのでしょう?

エゴ発生のプロセスはどのようなものなのでしょうか?

198 猫: 多くの宗教が「この世界は苦に満ちている」というところから出発しているのは事実です。けれども、この世界が苦ばかりで満たされているわけではありません。同じくらい、喜びや美しさや感動に満ち溢れているのです。そうでなかったら、アリスさんも絵などは描かなかったのではないでしょうか。

それなのに、宗教が苦ばかりを問題にするのはなぜでしょうか。それは、この世がうまくいっているときには、だれも「なぜうまくいくのか」というような疑問は抱かないからです。うまくいかないことがたくさん積み重なってどうにも仕方がなくなったときに、人間は「いったいどうして世界はこんなになっているんだ。もっとよい世界があってもいいじゃないか」と考え始めるのです。

この意味で、苦しみは「真実の世界に目を覚ましなさい」というメッセージなのです。だからといって、幻想の世界で遊んでいるのが「悪い」というわけではありません。睡眠中に、どんなによい夢を見ようと、どんなに悪い夢を見ようと、誰からもとがめられることはありません。ただ「悪い夢がいやなら目を覚ましなさい」というだけです。

 そこで、その「夢を見る」張本人のエゴがなぜ存在するのかということですが、私は次のように考えています。

人間が神によって生み出された霊的存在であり、霊的存在の存在目的は、自分の意識の中にさまざまな世界や人生を描いてそれを実際に体験することであるということを以前にお話しました(対話110)。霊的存在はすべて自己意識体験型の芸術家なのです。エゴはその芸術家が使う絵筆のようなものです。エゴは心の中のスクリーンに架空の世界を描き、それを実在の世界だと思い込む仕組みなのです。映写機のようなものです。

先日、唯識に関する初歩的な本を読んでみましたが、それに阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)という言葉が出てきました。阿頼耶識というのがここでいうスクリーンであり、未那識というのがそれを観察するエゴに相当するように思われます。

エゴのこのような仕組みは、霊的存在のすべてに共通な普遍的な仕組みであると、私は考えています。なぜなら、霊的存在は自分の意識の中に架空の世界(霊的存在にとっては)を体験するのがその使命だからです。

霊的存在は本来形を持たない存在です。従って、霊的存在が何らかの形を持った世界を体験するとすれば、それはすべて架空の世界です。幻想です。従って、エゴが幻想を体験すること自体が悪いわけではありません。エゴが不具合な存在であると考えられるようになったのは、物質世界の幻想の持っている特殊な性質のためです。物質世界の幻想、少なくともその中の地球世界の幻想は、ただの幻想ではありません。それは、自分自身が物質であると思い込む幻想であり、自分の本質を忘れ、自分が本来永遠不滅の霊的存在であることも忘れてしまう幻想です。

自分の本質を忘れて、自分は物質だと思い込むとなぜ不具合が生じるかというと、物質の肉体は病気になったり傷ついたり死んだりします。人間は、永遠ではなく、論理学の最もよく知られたサンプルになるほどの「死すべきもの」になるのです。その結果、意識の根底に恐怖が生まれます。私たちのエゴの意識の根底にはいつも恐怖があります。それがあらゆる判断や思考を狂わせるのです。恐怖に取り付かれたエゴの意識は、恐怖に満ちた世界を再生産します。それが釈迦のいうカルマです。人間は輪廻転生を繰り返し、カルマの輪の中から逃れることができません。カルマの輪から抜け出す方法が悟りということですが、それはカルマの世界が本来存在しない架空の世界であることを見抜き、自分の本来の霊性を取戻すことです。それが釈迦の悟りであり、仏教の教えであると思います.

199 アリス:人間として生れた限り、構造的にエゴがあり、スクリーンにさまざまな幻想を映し出しているのですね。これはこの対話の最初からのテーマでもあるわけですが、更に、自分を物質的な存在と思うことから、死の恐怖に取り付かれ、恐怖に満ちた世界を描き出していくと言うことですか!

その再生産がカルマという話はまた後で触れることにして、(そのことを、跨いでお話を進めることが出来るのなら)、苦というものを掘り下げたいと思います。

『苦しみは「真実の世界に目を覚ましなさい」というメッセージなのです。』とのことですが、苦と言うのは実にさまざまな形を取りますね。思いもかけない災難、例えば、ここしばらく話題を拉致、テロ事件、身近には、難病にかかって苦しんでいる方、先のヨブの話もそうですが、このような苦しみのただ中にある人に、「それはエゴが見ている幻想だ」と言って果たして通ずるかどうか。何か良い手立てはないものでしょうか?

それほど大きなものでなくとも、ちょっとした怪我や病気を避ける方法があるのでしょうか?


198 猫: 多くの宗教が「この世界は苦に満ちている」というところから出発しているのは事実です。けれども、この世界が苦ばかりで満たされているわけではありません。同じくらい、喜びや美しさや感動に満ち溢れているのです。そうでなかったら、アリスさんも絵などは描かなかったのではないでしょうか。

それなのに、宗教が苦ばかりを問題にするのはなぜでしょうか。それは、この世がうまくいっているときには、だれも「なぜうまくいくのか」というような疑問は抱かないからです。うまくいかないことがたくさん積み重なってどうにも仕方がなくなったときに、人間は「いったいどうして世界はこんなになっているんだ。もっとよい世界があってもいいじゃないか」と考え始めるのです。

この意味で、苦しみは「真実の世界に目を覚ましなさい」というメッセージなのです。だからといって、幻想の世界で遊んでいるのが「悪い」というわけではありません。睡眠中に、どんなによい夢を見ようと、どんなに悪い夢を見ようと、誰からもとがめられることはありません。ただ「悪い夢がいやなら目を覚ましなさい」というだけです。

 

 そこで、その「夢を見る」張本人のエゴがなぜ存在するのかということですが、私は次のように考えています。

人間が神によって生み出された霊的存在であり、霊的存在の存在目的は、自分の意識の中にさまざまな世界や人生を描いてそれを実際に体験することであるということを以前にお話しました(対話110)。霊的存在はすべて自己意識体験型の芸術家なのです。エゴはその芸術家が使う絵筆のようなものです。エゴは心の中のスクリーンに架空の世界を描き、それを実在の世界だと思い込む仕組みなのです。映写機のようなものです。

先日、唯識に関する初歩的な本を読んでみましたが、それに阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)という言葉が出てきました。阿頼耶識というのがここでいうスクリーンであり、未那識というのがそれを観察するエゴに相当するように思われます。

エゴのこのような仕組みは、霊的存在のすべてに共通な普遍的な仕組みであると、私は考えています。なぜなら、霊的存在は自分の意識の中に架空の世界(霊的存在にとっては)を体験するのがその使命だからです。

霊的存在は本来形を持たない存在です。従って、霊的存在が何らかの形を持った世界を体験するとすれば、それはすべて架空の世界です。幻想です。従って、エゴが幻想を体験すること自体が悪いわけではありません。エゴが不具合な存在であると考えられるようになったのは、物質世界の幻想の持っている特殊な性質のためです。物質世界の幻想、少なくともその中の地球世界の幻想は、ただの幻想ではありません。それは、自分自身が物質であると思い込む幻想であり、自分の本質を忘れ、自分が本来永遠不滅の霊的存在であることも忘れてしまう幻想です。

自分の本質を忘れて、自分は物質だと思い込むとなぜ不具合が生じるかというと、物質の肉体は病気になったり傷ついたり死んだりします。人間は、永遠ではなく、論理学の最もよく知られたサンプルになるほどの「死すべきもの」になるのです。その結果、意識の根底に恐怖が生まれます。私たちのエゴの意識の根底にはいつも恐怖があります。それがあらゆる判断や思考を狂わせるのです。恐怖に取り付かれたエゴの意識は、恐怖に満ちた世界を再生産します。それが釈迦のいうカルマです。人間は輪廻転生を繰り返し、カルマの輪の中から逃れることができません。カルマの輪から抜け出す方法が悟りということですが、それはカルマの世界が本来存在しない架空の世界であることを見抜き、自分の本来の霊性を取戻すことです。それが釈迦の悟りであり、仏教の教えであると思います。

199 アリス:人間として生れた限り、構造的にエゴがあり、スクリーンにさまざまな幻想を映し出しているのですね。これはこの対話の最初からのテーマでもあるわけですが、更に、自分を物質的な存在と思うことから、死の恐怖に取り付かれ、恐怖に満ちた世界を描き出していくと言うことですか!

その再生産がカルマという話はまた後で触れることにして、(そのことを、跨いでお話を進めることが出来るのなら)、苦というものを掘り下げたいと思います。

『苦しみは「真実の世界に目を覚ましなさい」というメッセージなのです。』とのことですが、苦と言うのは実にさまざまな形を取りますね。思いもかけない災難、例えば、ここしばらく話題を拉致、テロ事件、身近には、難病にかかって苦しんでいる方、先のヨブの話もそうですが、このような苦しみのただ中にある人に、「それはエゴが見ている幻想だ」と言って果たして通ずるかどうか。何か良い手立てはないものでしょうか?

それほど大きなものでなくとも、ちょっとした怪我や病気を避ける方法があるのでしょうか?


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