アリスとチェシャ猫の対話(55)

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92 猫: 私は「水の子」という作品は知りませんが、この詩は意味深い詩ですね。特に最初の「誕生は睡眠であり、忘却である」というのは、霊的世界のほうから人間を見たときの状況をよく表わしていると思います。

 さて、ご質問は<臨死体験に現れる慈愛に満ちた光に包まれるとか、愛した人たちに再会するとかといった体験は、猫さんから見るとどうなるのでしょうか?>ということですが、私はこの問題を『魂のインターネット』(私の著書)に、次のように書きました。

 私たち人間というのは、霊的世界においてインターネットで遊んでいる子供のようなもので、物質世界はインターネットにつくられた仮想の世界である。私たちが肉体を持って生きている間は、意識をその仮想世界に集中させているので、物質世界から来る情報しか読まないようにしているが、肉体が死ぬとその制約がなくなるので、他の情報も読めるようになる。インターネットには、物質世界で生きている人も既に死んだ人もみんなつながっているので、読んではならないという制約をはずせば、誰の情報でも読むことができる。これが、人が死んだときに、過去に死んだ愛する人や、霊的指導者である光の存在に出会う理由である。

私は「光の存在」こそが、「霊的存在」のほんとうの姿だと考えています。実は私たち自身も、そのような光の存在なのです。けれども私たちは、自分の周りに物質世界の観念でぶあつい繭をつくりあげ、その中で眠り込んでいるのです。まさに「肉体の人間として生まれることは霊的世界における睡眠」なのです。

 肉体が死ぬときには、私たちはその眠りから覚めます。いわば、観念の繭を食い破って穴をあけ、蝶となって飛び出します。ギリシャ語で魂のことをプシュケーと言いますが、この言葉はもともとは蝶を意味するそうです。

 私たちは、このようにして眠りから覚めたとき、いわば「同僚」の霊的存在に出会うのです。同僚といっても、こちらは眠り病にかかっていた病人のようなものですから、そういう霊的存在が光輝いて見えます。それが「光の存在」として感じられるのです。ちょうど病み上がりの人にとって、健康な友達が輝いて見えるのと同じです。

 キリスト教を信じている人たちは、この存在をキリストだと感じ、仏教を信じている人は阿弥陀仏が迎えてにきてくれたと思うそうです。ほんとうは誰なのか、ということを論じるのは無意味です。キリストだといっても阿弥陀仏だといっても、あるいは自分のハイアーセルフだといってもかまいません。霊的世界は自他合一の世界です。「違うは同じ、同じは違う」です。なんだか、いつか教えていただいたマクベスにありそうですね。

193 アリス: マクベスの魔女の言葉“Fair is foul, and foul is fair”は「きれいは汚い、汚いはきれい」「良いは悪い、悪いは良い」など何十もの訳がありますが、大別すると美/醜、善/悪、 明/暗 に大別されます。残念ながら「違うは同じ、同じは違う」というのはありませんが、いずれにしろ事柄を対立した二つのものに分け、両方が同じであると言う所は同じですね。もともと0であるものを+と−に分ける所に問題がありそうですが、逆にそのことによって世界はダイナミックなものになっているように思います。

さて、これから、ちょっと脈略のない話題を出して、猫さんのお考えをお聞きしたいと思います。私の古い疑問の1つですが、私はキリスト教の幼稚園へ行きまして、その後もしばらく日曜学校へ行きました。主の祈りの中に「試みにあわせず、悪より救い給え」というくだりで、神様が人間を試みにあわせておられることがよく分りませんでした。少し前、「ヨブ記」を読みましたが、なぜこのようなことが起きたのかよく分りませんでした。今でも何のことやらよく分りません。どう考えたらいいのでしょうか?

194 猫: 聖書には、確かに、神が怒ったり、人間を罰したり、試みたりするという記事が出てきます。残念なことですが、現代の教会の中にも、そのような神観念を引き継いでいる人たちがいます。

けれども、私は、これらはすべて、聖書が書かれた当時の人たちがそのように考えたということを示しているに過ぎないと考えています。ヨブ記の冒頭に、神がサタンに対して、ヨブを試みる許可を与える場面が出てきますが、それも同じだと思います。そもそも、サタンという存在も人間がそのようなものがあると考えたというに過ぎません。
では、真相はどういうことなのでしょうか。

 私は、大きく分けて二つの原因があると思っています。一つは、人間が神の愛を受け取りきれないというところにあります。もう一つは、人間が自分自身を知らないというところにあります。以下にそれぞれを説明します。

 20世紀の初頭に、スェーデンボルグという人がいました。スウェーデンボルグはスウェーデン出身の哲学者ですが、また普通のひとにはない能力を発揮した人で、近世最大の神秘家といわれています。最も有名なエピソードは、あるときパリの社交クラブで人と話していたときに、突然話を止めて「いま、ストックホルムで大火災が発生しており、火は自分の家に迫っているが、自分の家は大丈夫だ」と言ったという話です。数日して、ストックホルムから伝令が来て知らせた状況が、スウェーデンボルグの言ったこととまったく同じだったそうです。

 このスウェーデンボルグは霊界の話をたくさん書き残していますが、その中に次のような話があります。霊界の下の方の世界、いわゆる地獄には、たくさんの人間(の魂)が行っているわけですが、そこへ時々天使が降りてくるそうです。それは、天国に行く用意のできた人々を引き上げるためなのですが、地獄の住人の多くは天使の光に耐えられずに物陰に隠れて「早く立ち去ってくれ」と天使に頼むそうです。地獄を卒業する用意のできている人は、逆に天使の光を慕って近くに来るので、天使はそういう魂だけを連れて天国に帰っていくのだそうです。

真冬に身体の冷え切った人が風呂に入ると、いつも入っている温度のお湯でも熱く感じるように、地獄にいる心の冷え切った人には、天使の愛の光が熱くてたまらないのです。仏教にも、不動明王のように、仏の怒りの姿を表わすものがありますが、私は、仏が怒るとは考えていません。仏はつねに慈愛のエネルギーを送って下さるのですが、それを受け取る人間が、熱すぎて耐えられないと感じ、仏の怒りの炎と感じるのです。

二つ目の「人間が自分を知らない」というのは、潜在意識のことです。私たちは、自分の意識の中にあるものを外界の出来事として体験する世界に生きています。ところが、自分の意識の大部分が潜在意識になっていれば、それによって生じる出来事は自分が引き起こしたとは思えません。現代の人間はこのような出来事をすべて「偶然」にしてしまいますが、昔の人はこれを「神の仕業」と思いました。そのために、神が人間を試したり、罰したり、怒ったりするという考えが生まれたのです。サタンという、人間に対して悪をなす存在も、自分の潜在意識の影だといえます。

では、品行方正で「神の前に欠けるところがない」といわれたヨブに、なぜ試練が訪れたのでしょうか。ユダヤには律法という厳しい掟があり、神の前に正しいといわれる人は、この掟を守る人のことです。ヨブはこのような掟をしっかりと守った人でした。ところがそのような生活をするためには、自分で自分を見張っていなければなりません。掟を犯すことのないように、絶えず自分を監視しつづけなければなりません。このために、ヨブの潜在意識の中には不安と恐れが積もっていきます。何か自分の知らぬところで犯した過ちがあるのではないか、それによって神から罰せられるのではないか、という恐れが心の底にたまっていきます。私は、ヨブに訪れた試練とは、この不安と恐れが現実化したものであると考えています。

試練の中で、ヨブは神と対談します。そして、ヨブは神に全面降伏して、自分の力で神の前に正しい生活を送ることはできないということを認めます。これは、自分で自分を監視することをやめることです。そして、その代わりに、ヨブは全面的に「神の声に従う」という生き方を始めます。これは心の内面から来る神のエネルギーの流れに身を任せて生きるということです。善悪を自分で判断することをやめ、無心に神のエネルギーの流れに沿って生きる、というときに、神の恵みのすべてが現実化するようになるのです。

これが、私の「ヨブ記」の解釈です。多分ヨブというのは実在の人物ではないと思いますが、この物語は、人間の生き方に対する深い洞察を伝えていると思います。

 ヨブ記については、私はもう一つ別の解釈を持っています。

ヨブ記の構造を見ると、序文(1−2章)、ヨブの歎き(3)、三人の友人との対話×3回(4−27)、神の知恵の賛美(28)、ヨブの歎き(29―31)、エリフの言葉(32−37)、神の言葉(38−41)、結び(42)となっています。私はこのうち序文と結びを除いた3章から41章までのすべてを、ヨブの心の内面における自問自答であると考えます。これはヨブが心の内面において神との出会いを体験するまでの、精神の闘いを示しているのです。

現実に霊性への道を歩みはじめる人は、その初期に非常な苦しみの期間を過ごすことがあります。それは「魂の闇」というような名で呼ばれていますが、ひとによって大病をしたり、事業に失敗したり、人間関係で苦しんだりします。そして、そのような苦しみの中で、ある日突然、今まで見えなかったものが見えるようになるのです。ヨブ記は、ヨブという人物の物語を借りて、この魂の闇を描いているのだと思います。

 「魂の闇」とは、一言で言えば、私たちの心にくもの巣のようにからみついている物質世界の価値観を払い落とすための闘いなのです。霊性の道を歩み始めた人は、現実の出来事としては悲惨なことは何も起こらなくても、この世の物事に価値を見出すことができず、生きる目的も、自分の存在意義も見失って、絶望と虚無の中に落ち込んでしまいます。ヨブはたくさんあった財産や親族をすべて失ってしまいますが、これは現実には持ち続けていたとしても、もはや頼りにも喜びにもならない無意味な宝である、ということを象徴していると思います。

 ヨブの三人の友人との繰り返し行なわれる対話は、ヨブの心の中で、因果応報的な価値観が行き詰まっている状況を表わしています。因果応報とは、よいことをすれば、よい結果が得られるという、いわばギブ・アンド・テイクの価値観です。この価値観を持っている人がよいことをするのは、愛によるのではなく、よい結果を得たいという欲によるのです。このことが、1章9節の「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」というサタンの言葉に要約されています。友人との論争の中で、ヨブは執拗に「自分は正しいのに、神は正当な扱いをしてくれない」と繰り返します。これが因果応報的価値観です。これは、物質世界の価値観です。

 三人との論争のあと、それを総括するようなエリフの言葉が出てきますが、ヨブの主張とエリフを含めた四人の友人の主張を眺めると、結局、「神は間違いを犯すことはない。神は正しい者に恵みを与え、不正な者を滅ぼす。ヨブに災難が降りかかっているからには、ヨブは罪を犯したに違いない。私は絶対に不正を犯してはいない。世の中にも、不正な者が繁栄し、正しいものが苦難の中で死んでいく例がたくさんあるではないか。神は何をしておられるのか。いや神が間違いを犯すことはない」という一連の論争をぐるぐると果てしなく繰り返していることがわかります。実はこの堂堂巡りをぎりぎりまで突き詰めることが、この世の価値観から抜け出すために必要なプロセスなのです。

そして、突如、神が現われて語ります。神は、ヨブが正しいかどうか、4人の友人が正しいかどうか、ということは何も語りません。ただ、神の世界がヨブが見ていた世界を如何に高く超えているかということだけを語ります。ヨブは、この言葉を聞くとき、神が自分の中に、魂の奥の奥に、おられると感じていただろうと思います。ヨブは、神といっしょになって、神が支配される世界を、神の目を通して見ていたのです。私が、自分の腹の中に宇宙があると感じたときのように、ヨブは、神が支配される途方もなく大きな世界が自分と別のものではないということを感じたはずです。

このときヨブの意識は、時間空間を超えた無限に触れ、この世の因果応報的価値観から解放されたのです。そして、ヨブは「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(42章3節)という言葉で、自分の行為を含めて、すべての出来事を自分で価値判断するのをやめるのです。自分の持っているこの世の価値観を放棄してしまうのです。ヨブにとって、もはや「自分が正しいかどうか」ということは意味を持たなくなってしまったのです。

これが、本当の意味で、霊性への道の最初の一歩だと思います。

アリスさんはおそらく、禅の接心のことを思い浮かべていただけば、ヨブ記の意味を理解されるのではないでしょうか。 

195アリス:ヨブ記についてのお話大変面白く、また、かなり理解が深まってきました。為すすべがなくなり、自分の計らいが尽きたところに神が立ち現れると言うことですね。

最初の「天にましますわれらの父よ。御名をあがめさせたまえ。・・・」で始まる「主の祈り」は今でも教会で唱えられているのでしょうか?キリスト教のお祈り中で大変重要なお祈りと思っておりましたが、その認識でいいのでしょうか?

試みにあわせるの「試み」はtemptationとtrialの2つの意味があるようですが、この問題に関連する私の古い疑問の今ひとつは、十字架の上でのキリストの次の言葉です。

「第九時に,イエスは大声で叫んで,「エロイ,エロイ,ラマ,サバクタニ」と言った。これは,訳せば,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコ15:34」

And at the ninth hour Jesus cried with a loud voice, saying, Eloi, Eloi, lama sabachthani? which is, being interpreted, My God, my God, why hast thou forsaken me?  King James version

私の中では、主の祈りとヨブ記とこの箇所が繋がっていて、分らない所でした。つまり、神の試みというものが分らなかったのです。

十字架のこの箇所はマタイ、ルカ、ヨハネと記述が異なっており、その解釈はキリスト教の中で大変重要な所だと思いますが、猫さんのお考えをお聞かせくださいませんか?

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