アリスとチェシャ猫の対話(53)

184 猫: 180で「意識的に考えていること」といったのは、「お花畑に行こう」という目的意識を指していますから、願いと同じだといってもかまわないと思います。

もう少し整理してお話すれば、私たちの心の中には、大きく分けて思考と感情と意志の三つの働きがあると思います。一口に「心」と言いますが、心がすべて頭にあるわけではありません。思考は頭に、感情は心臓に、意志は腹にあると言えば、少しニュアンスをわかっていただけるかも知れません。

 信念というのは、固定化した思考と言えるでしょう。あるいは、固定した思考回路が脳の中に出来上がっている、ということかも知れません。願いというのは、思考と感情の合体したものだと思います。何かが「不足しているので、これを充足させることが必要である」という思考と、「これが充足されたらうれしいなあ」という予測的感情が合体したものです。その他のさまざまなニュアンスを持った心の働きも、この三つの要素である程度理解できるのではないでしょうか。

 さて、話を進めます。次は「心の中を知る」という段階です。心の中を知るためには、実際に心の中を自分でスキャンしてみることが必要です。これについても、三つのポイントをお話しします。

 第一は、直接自分で自分の意識の中に潜んでいる考えを探って見ることです。私たちはふつう、潜在意識の中身は自分ではわからないと思っています。実際、わからないものも多いのですが、よく注意して、静かに冷静に探ってみれば、自分で気づくことのできるものもたくさんあります。ふだん、そういうことに注意を向けていないので気づかないだけなのです。

 たとえて言えば、心の中はさまざまな思考や感情の倉庫のようなものですが、その中の品物は、開け方もわからないような箱の中に固く隠されたものもあれば、裸で棚の上にならべられたものもあるということです。注意を向けなければ、むき出しで目の前の棚に置かれていても見えないことがあるのです。

 第二は、外の世界に起こる出来事を見ることです。これまでにもお話ししてきましたが、外の世界は私たちの内面の意識を映し出しています。したがって、外の世界で起こることをよく見ていれば、自分の心の中に何があるか、ということを知る手がかりになります。

 たとえば、一人の女性の人生に、ある特定のタイプの嫌な人が繰り返し現れるとします。たとえばそれは、はじめは子供の小学校の担任でした。その担任は学年が変ると別の先生に代わったのでほっとしていたところ、数年して、お隣に同じタイプの人が引っ越してきて付き合うのに苦労します。このときは、夫の転勤でこちらが引っ越すことになり、離れることができました。ところが、その後、いままであまり付き合いのなかった兄嫁と付き合うことになり、その人が同じタイプの人であることがわかりました。今度は親戚ですから逃げるわけにいきません・・・というようなことがあったとします。この女性は、この特定のタイプの人に対する何かを心の中に持っているのです。それは、過去の事件によるトラウマかも知れないし、自分の価値観にもとづく嫌悪や非難の感情かも知れないし、なにか他の原因かもしれません。とにかくこの女性は、その自分の心にある何かを解消しない限り、何度でも同じ問題に悩まされることになります。このような場合には、きちんと対応しないでやりすごすと、問題が更に大きくなって帰ってくるのが特徴です。

 第三には、外の世界の出来事に対する自分の反応を見ることです。上の例のように、ある特定のタイプの人が気になる、というのも反応のひとつです。正義感が強くて、世の中の出来事にいつも腹を立てているというのも反応の一つです。ふつうは腹を立てたところで終わりですが、もし心の中を見たいのであれば、腹を立てることの背後に隠れている信念や感情を探ってみることが必要です。そのときに「心構え」の第三に述べた、信念のつながりのパターンが役に立ちます。

 たとえば、自分に特に実害があるわけでもないのに世の中に対して腹を立てるというのは、自分を世間一般より偉いと思いたいエゴの策略なのです。エゴは絶えず自分対世の中という構図を作り出し、自分を世の中一般から切り離そうとします。そしてエゴは、世の中が悪いと叫ぶことによって、自分は世の中一般とは違うんだという満足感を得ると共に、世の中を実在だと思わせ、「世の中」というものが実は自分の内面を映し出しているのだということを隠してしまうのです。また、怒りの裏には恐怖が隠れていることがあります。恐怖は無力感から生まれます。無力感は孤独感から生まれます。エゴは、世の中を実在化し、そこから自分を切り離すことによって、自己の尊大さを満足させると同時に、孤独と無力感にとらわれることになるのです。

 このように、善悪の判断をせずに心の中の信念をたどっていくと、かなりのものを発見することができます。もし、自分の反応に何か特定の傾向があると気づいたのに、その原因がよくわからない、というようなときには、カウンセラーなどにかかるのも一つの方法です。けれども、ある霊的な指導書は、精神分析は「宝探しゲーム」だと言います。隠したのも探すのも自分だと言うのです。その本は、潜在意識の中であっても、基本的に自分で探ることができると言います。なぜなら、それは「自分の」意識だからです。その障害になっているのは「潜在意識の中は見えない」という信念なのです。真っ先にこの信念を破棄する必要がありそうですね。

185 アリス: 3つのポイントはいずれも奥が深そうで、一つ一つ実験していてはどれだけ時間がかかるか分かりません。潜在意識も見えるという信念を持って、これから見てゆきますが、もし、差し支えなければ、次の段階のお話もしていただけませんか?

186 猫: 次の段階は「信念を変える」という段階です。心の中に何があるか知ったとしても、それを変えなければ世界は変わりません。

これについても、三つのポイントをお話します。

 第一は「事実」と「事実だと思う信念」を区別して認識することです。そして「これは事実である」という信念をすべて「これは事実であると思っている私の信念なのだ」という考えに置き換えてください。

 実は「事実」というものは、何一つ存在しないのです。人間の本質は純粋の意識です。そして、真に存在するものは「意識だけ」なのです。意識以外に存在すると思われるものは、すべてこの意識が「存在すると思い描いた」ので、存在すると見えているのです。

 人間は、レンズの前にふたをかぶせたカメラのようなものです。カメラはレンズから入ってきた光によって外の世界の映像をフィルムの上に写し取るようにできています。したがって、私たちはフィルムに映った映像を見て、自分の知らない土地でも「ああ、こんなところか」と行ったことがあるような気持ちになることができます。

私たちの心もカメラに似ています。私たちは、心のフィルムに映った映像を見て、外の世界はこんな風だなと思います。けれども実は、人間の心のカメラにはふたがかぶさっているのです。フィルムに映った映像はあり、カメラは「これはカメラだぞ、外の世界を写したんだぞ」というふりをしますが、それは外の世界を写し取ったものではありません。外の世界というものは存在しないのです。それは、カメラが自分でフィルムの上に作り出した映像なのです。

 心の中で「これは事実だ」と考えるのも「これは事実だと私が思っている」と考えるのも受動的に認識するだけなら同じことです。けれども、これは「事実」ではなく、「私が事実だと思っていることなのだ」ということになれば、変えることができます。それは自分の信念だからです。

 第二に、変えたい信念に対して、はっきりと代わりの信念を確立することです。捨てたい信念を否定するだけでは、信念を捨てることはできません。

たとえば、私が「人間は物質ではない」と言います。それを聞いてアリスさんが「人間は物質である」という信念を捨てようとしたとします。けれども「人間は物質ではない」という信念を持ってくるだけでは、「人間は物質である」という信念を捨てたことにはなりません。それは、たとえて言えば、古い家が建っていた土地を、家を取り壊して更地にしたようなものです。空き地のまま放っておけば、雑草が生えたり、ごみを不法投棄されたりします。家を取り壊したならば、きちんと整地して、新しい家を建てなければならないのです。否定的表現ではなく、肯定的表現による代わりの信念を確立してください。たとえば、「人間は純粋の意識である」とか「私は霊的存在である」といった、肯定的表現を用いてください。

第三に、これがいちばん難しいことですが、「現実」に左右されずに、新しい信念を保ちつづけることです。地球の世界では、信念が現実化するのに時間がかかります。このため、古い信念の実現である「現実」と、新しい信念の間にギャップを生じます。多くの人は、その間新しい信念を持続させることができないのです。

昔読んだ米国の小話にこんな話がありました。牧師から「信じて祈れば山でも動く」と聞かされた老婦人が、一晩中「窓から見えている山が動きますように」と祈りました。ところが、朝起きてみると、山はいつものとおりでした。そこで老婦人は、牧師に「祈ったけど、山は動きませんでした」と言いました。すると牧師は、老婦人をじっと見て、「あなたはそのことを信じていましたか」と聞いたそうです。老婦人はしばらく考えたあと、笑いながら「いいえ、信じていませんでした」と答えたそうです。

私たちの心には、「山は動かない」という信念があります。この信念をそのままにして、いくら「山が動くように」と祈っても、山は動きません。もしこの老婦人が、「山は動かない」という信念を本当に捨ててしまったとしたら、彼女は「山が動きますように」と祈る必要を感じなかったでしょう。山が動くのは当然のことになるからです。信念を捨てるというのはそういうことです。「試してみよう」という気持ちがある間は、信念を捨ててはいないのです。

また、この老婦人は、朝起きるとすぐに窓辺に飛んでいって、山が動いたかどうか見ようとしました。「信念が現実化したかどうか確かめよう」という気持ちも、信念を捨てていないしるしです。このようなことをして、「やっぱり動いていない」という新しい信念を心の中に送り込めば、「山は動かない」という信念を強化するだけです。

このように、信念が現実化するのに時間がかかるということに対抗して信念を維持するというのには、相当強固な意志が必要です。けれども、この「時間がかかる」という性質は、私たちにとって救いになっているのです。私たちは、自分の心の中にある信念をコントロールできていません。したがって、心の中にある信念が片端から現実になったら、私たちは大混乱に陥ることでしょう。

私たちが霊性を回復するにつれて、この「時間遅れ」が短くなっていきます。それは、いかだの上に立って、湖の上を漕ぎわたるようなものです。いかだが大きいといかだの揺れはゆっくりしているので、バランスを取るのは難しくありませんが、いかだが小さくなるといかだの反応が早くなり、よほどうまくバランスを取らないとすぐにひっくり返ってしまいます。私たちが霊性を回復するためには、外界と見える現実に振り回されずに、しっかりと自分の意識を安定させる能力を身に付けなければならないのです。

187アリス:『実は「事実」というものは、何一つ存在しないのです。人間の本質は純粋の意識です。』これがキーであることは、これまでの対話で分かっているはずですが、なかなか徹しきれないですね。ものを食べておいしいと感じ、転ぶと痛いと感じ、お金がないと困ったと思う。現実の中に生きているとそれが事実であって、揺るぎないものに見えます。猫さんのお話をお聞きして、不敏と言えども何とか、実行してみようと思います。

「お花畑へ行く」ための方法はこれに尽きるのでしょうか?さらに具体的な方法をお話いただけるのでしょうか?

お花畑へは水平移動ですが、垂直移動の「霊性の回復」へもお話を進めてください。全部お話を聞いた方が見通しがよく利き、理解が早くなると思います

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