アリスとチェシャ猫の対話(54)

188 猫: お花畑に行く方法はこれで終わりです。結局のところ、お花畑も地獄谷も、自分の意識を体験しているだけですから、自分の意識を変えることができればそれでいいわけです。別に私の説明した方法だけが、唯一の方法ということではありません。

 では、垂直移動というのは何かというと、一言で言えば、夢から覚めるということです。お花畑や地獄谷は夢の中の出来事です。物質世界というのは、夢であり、体験ブックスという仮想現実の世界です。そのことは、既におわかりいただいていると思いますので、問題は、それから抜け出すための方法が、仮想現実の中にいるいまの私たちから見るとどういうものに見えるかということです。

 私は何でも三つのポイントに整理するのが好きなようですが、これも、三つのポイントをお話しします。

第一は、自分の心の内面に注意を向ける、ということです。潜在意識の中身を見るのも心の内面でしたが、霊性に注意を向けるのは、もっと奥のほうです。内面というより、裏側に抜けてしまったところと言ったほうが適当かも知れません。

静かにリラックスした状態で、心の内側に注意を向けてください。自分が深い森の中に入って行くところを想像してください。森は潜在意識の象徴です。夕日が木々の間から斜めに射しています。森に入るにつれて、あたりは薄暗くなってきます。進むにつれて、道が下に降りて行くように感じられるかもしれません。自然の成り行きにまかせてください。一度に奥まで行こうとせずに、行けるところまでにとどめてください。何度も繰り返しているうちに、次第に奥のほうまで入っていけるようになります。そして、森の一番奥まで来たと感じるようになったとき、木々の間から、はるかかなたに、青白い夜明けの空のような光を感じることができるかもしれません。それが、潜在意識を突き抜けた向こう側なのです。

ここには、簡単に書きましたが、もし自分でトライされるとしたら、決して無理をしないで、結果をあせらず、何日もかけて、ゆっくりと進めるようにしてください。途中で起こるできごとを注意深く観察しながら進めてください。このようなことについての指導書もあります。もしご興味があれば、本を紹介します。

第二は、意識を現在に集中する、ということです。「理性は未来にばかり注意を向け、感情は過去にばかりとらわれている」と言った人があります。つまり私たちは、いつも「現在」以外のところに注意を向けていて、現在の瞬間を絶えず無視しているのです。けれども、実は私たちが体験できるのは、現在の瞬間だけです。したがって、現在の瞬間に意識が向いていないということは、それだけで、体験に対するコントロールを放棄しているということになります。

アリスさんがご存知の禅の世界にも、こんな話があるように聞いています。ある高僧の弟子が、師に向かって「禅の奥義を教えてください」といいました。師は、朝ご飯を食べなさい、庭を掃除しなさい、などと言って、少しも教えてくれません。弟子が不満を漏らすと、師はこういいました。「私は、ご飯を食べる時にはご飯を食べている、庭を掃除するときには庭を掃除している、座禅をするときには座禅をしている。しかし、お前たちは、ご飯を食べているときには庭の掃除のことを考え、庭を掃除しているときに座禅のことを考え、座禅をするときにはご飯のことを考えている」といったそうです。意識を「いま、ここ」に向けていなかったら、純粋意識である人間は、ほんとうの意味で「存在する」ことすらできないのです。

第三のポイントは、感覚を広げる、ということです。私たちは、物質世界以外のところから来る情報を無意識のうちにカットしてしまうように、意識の中に障壁を設けています。そうしないと、物質世界の幻想性がすぐに明らかになってしまうからです。本来霊的存在であった人間は、そのようにして、意識を物質世界に集中し、物質人間としての体験を味わってきたのです。したがって、霊性を回復するとは、物質世界以外から入ってくる情報に対してオープンになるということです。これは、物質世界からの情報をカットするということではありません。両方からの情報を平等に受け取るということです。そうすれば、物質世界の位置付けが相対的に変化し、霊的世界の中で見ている映画であるということが自然にわかるようになってきます。

私たちが物質世界に対しても情報の選別を行なっていることは、ご存知の通りです。耳の中にさまざまな音が入ってきても、私たちは、自分に必要なものだけを瞬時に選び出して、他の音は聞き流してしまいます。聞いたという記憶さえほとんど残りません。感覚を広げるためには、そのようにして無意識のうちにフィルターをかけているすべての情報に対して、注意を向け、気づきを高めてください。そして、その拡大された感覚を、物質世界以外のものに対しても広げるというつもりになってください。実際には何も聞こえなくても、霊的世界からの情報が聞こえていると想像してください。これも何度も何度も繰り返し、練習してください。そのうちに内面から来るインスピレーションや、予知あるいは洞察といった感覚に対して敏感になってきます。

重要なポイントは、そのような直感的な情報に対して、証拠を求めないことです。それが正しい情報か、役に立つ情報か、それとも無駄な雑音かということを、証拠によらず、その情報に対する自分の「共感」によって判断してください。これも、慣れないうちは、難しいと思います。私たちは、その情報が何処から来たかとか、誰が言ったかとか、裏づけがあるかないかとか、そういう当の情報以外の「鑑定書」によって判断することに慣れきっているからです。それは、宝石を見る目のない人が、鑑定書だけを頼りに宝石を買うようなものです。けれども、霊性という宝石を買うためには、鑑定書によらずに、自分で宝石を見分ける力をつけなければならないのです。

189 アリス: 不思議なことに「お花畑に行く」よりこちらの方がやさしそうに思えますが、気のせいでしょうか?まず、第一のポイントから試みてみましょう。指導書をご紹介ください。

190 猫: 次の本を紹介します。

  日本語訳  『ラザリス 聖なる旅』、山川紘矢・山川亜希子訳、新人物往来社
  原著  “LAZARIS: The Sacred Journey: You and Your Heigher Self”
        NPN Publishing, Inc.

 他にもいろいろな本がありますが、森を通り抜ける瞑想はこの本から取りました。

ただ、注意していただきたいのは、瞑想というのは、すべて心の中で起こることですから、誰一人まったく同じことを経験する人はいない、ということです。指導書が語ることはあくまで一般的な手引きに過ぎません。それを参考にしながら、自分自身で注意深く進めていくことが重要です。結果を急いで求めないことが大事です。結果を予想しないことも重要です。結果を予想すると、簡単にエゴによってだまされます。自分の心の中で、何が起こり、何を見たかをじっくり観察し、それに対して自分の心と体がどのように反応しているかに注意してください。

前回、「現在に意識を集中する」というところで、「理性は未来に関心を持ち、感情は過去に捕らえられる」という話をしました。このことを言った人は「体は現在に反応する」と言っています。肉体の細胞の一つ一つがどのように反応するかに注意してください。理性や感情は、自分が期待するものをもっているので、だまされ易いのです。けれども、肉体は期待をしないのでだまされません。現在の瞬間瞬間に正直に反応します。

瞑想の中で、そして、瞑想が終った後で感じる「体の感覚」に注意してください。静けさ、やすらぎ、深い喜び、爽やかさ、透明感などに注意してください。このようなものを感じていることができれば、瞑想が正しい方向を向いていると言えます。これが、宝石を見分ける鑑識眼です。瞑想の中で出会った存在が「私は神だ」と名乗ったからといって、すぐに鵜呑みにするような態度は、「鑑定書」に頼っていることになります。霊性への道は、徹底して自己責任の道であることを覚えていてください。


191アリス :175から190とお花畑へ行く方法から霊性への道に至る、懇切なガイド有難うございました。後はこれを自分のものとして、どう馴染んでいくかだと思います。何ヶ月、何年かかるか分かりません。

ここで、対話を終えるのもいいのですが、私はお聞きしたいことが残っておりまので、質問を続けながら、理解を深めて生きたいと思います。

例えば、臨死体験に現れる慈愛に満ちた光に包まれるとか、愛した人たちに再会するとかといった体験は、猫さんから見るとどうなるのでしょうか?

 

話は飛びますが、今、キングスレイの「水の子」を読んでおります。「不思議の国のアリス」より3年前の1862年に出版されたものですが、ご存知の煙突掃除のトムが水の子になるという話です。その中にこんな詩か目につきましたので、間奏曲として入れておきます。

   誕生とは睡眠だ 忘却だ

   われとともに目覚める魂は命の星

   かってどこかで育まれ

   はるかなところから訪れてくるのだ

   まったくの忘却でもない

   まったくの空虚でもない

   たなびき輝く雲のように

   ふるさとの神のみもとからきたのだ

                      阿部知二訳

Our birth is but a sleep and a forgetting;

The soul that rises with us, our life's star,

Hath elsewhere had its setting,

And cometh from afar:

Not in entire forgetfulness, And not in utter nakedness,

 But trailing clouds of glory, do we come from God, who is our home.

 

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