アリスとチェシャ猫との対話(44)

140 猫: 「『信』または『信仰』ということになると思いますが、そのような理解でいいでしょうか?」という点は、まったくその通りだと思います。たとえば、「仏教の有名な『色即是空』という言葉は、真理でしょうか。もし真理と思うなら、それは科学的方法で得られたものでしょうか」ということを考えてみれば、明らかではないでしょうか。

 私は、科学も信仰の一種だと考えています。そのように考える人は私だけではなく、哲学者や科学者の中にも、そのように考える人があります。

つまり、人間の思考や信念を離れて存在する絶対的な真理というものは、仮にそれが存在するとしても人間には知る方法がありません。実際には、人間の認識と理解の程度に応じて真理が開示されてくるのであって、それをどの程度受け入れるかということも、人間の一人一人に任されています。

直観の問題も同様です。直観は自動的に働きますが、それを無視することも信じることも、人間の意志に任されています。直観が人間を強制的に支配することはありません。多くの場合、私たちは直観に対して非常に鈍感であり、それに気づくことさえなく通り過ぎてしまいます。そして後になって、そういえばあの時そんな気がしたんだが・・・と振り返ることがよくあります。

科学的方法では捕らえられないような真理に近づこうとすれば、直観に対してもっと敏感になる必要があります。けれども、直観がすべて正しいとはいえない、ということは以前にもお話ししました。そこで、直観の是非を判断するということも必要なのです。

 

141アリス: 直観にしろ、信仰(信念)にしろ、抱くのは人間ですが、正しくないものがあるのは厄介ですね。科学的方法も役立たないし、どうすればいいのでしょうか?

これらを抱く主体は物質世界のものでしょうか?霊的世界のものなのでしょうか?

 

142 猫: <正しくないものがあるのは厄介ですね。>

まったくその通りですが、別の見方をすれば、正しくないものでもかまわないのです。正しくない信念を持つことによって、人間は正しくないことを身をもって体験します。以前に人間は神の認識機構であるという話をしたと思います。神が何かを知っているというのは、人間がそれを仮想世界の中で体験しているということです。人間が正しくないことを経験する以外に、神が正しくないことを知る方法はないのです。

 <科学的方法も役立たないし、どうすればいいのでしょうか。>

 直観にせよ、信念にせよ、「これは正しい」という鑑定書つきのものはありません。もし鑑定書がついていたら、「選ぶ」という人間の側の主体性が働く余地がありません。正しくないものを経験する機会もなくなってしまいます。いま人間が体験している仮想世界は、正しいものと正しくないものが混在する世界です。光と闇が共存する世界です。だからこそ、闇を光に変えていく、あるいは闇を捨てて光を選ぶというゲームが成立するのです。

 けれども、光と闇を見分ける方法がないのは困りますね。それについては、先日アリスさんの推薦で見に行った映画「ビューティフルマインド」に、素晴らしいヒントが埋め込まれていました。

 精神が錯乱して幻覚と現実の区別がつかない数学者のジョン・ナッシュに、アリシアという名前だったと思いますが、素敵な奥さんがいいますね。「幻覚と現実を見分けるのは、頭ではなくて、ハートかもしれないわよ」と。

 <これらを抱く主体は、物質世界のものでしょうか、霊的世界のものでしょうか>

 「これらを抱く主体」ということについて、私は、直観と信念を分けて考えます。すべては比喩的な表現であることを断わった上で、次のように言いたいと思います。「直観というのは、私たちの意識(顕在意識)に外から入ってくるものであり、信念というのは、顕在意識または潜在意識の中にある固定化された部分意識である」と。

 非常に単純化していうと、直観には二つの種類があります。一つは神(霊的世界)から来るものであり、もう一つはエゴから来るものです。霊的世界は心の外です。エゴは心(潜在意識)の中です。けれども顕在意識にとっては、両方とも、自分の心の奥のほうから沸いてくるように見えるので、一見して区別がつきません。そこで直観が来たときに、それが神から来たものか、エゴから来たものかを見分ける必要があります。そうしないと、神の声を聞いたといって「とんでもないこと」をする人になってしまいます。この二つを識別するのが「ハート」です。

 もちろん、このように言っても、実際の判定には迷いと失敗がつきまといます。けれども、迷いと失敗を体験することによって、人間は「愛」の達人になっていくのです。それが霊性回復の道です。

 最後に「物質世界のものか、霊的世界のものか」という問いにお答えしましょう。「両方です」というのが、その答えです。

 夢の中の登場人物は、夢の中で、自分の考えを語ります。けれども、それは夢を見ている人の意識の一部分でもあるのです。作家は、自分の作品の中のいろいろな登場人物の口を借りて、自分の考えを表現します。同じように、肉体の人間が抱く考えや語る言葉は、物質世界のものであると同時に、その肉体の幻想を作り出している霊的存在の意識のさまざまな側面を表わしてもいるのです。

 ヘルマン・ヘッセの晩年に「ガラス玉演戯」という作品があります。私の大好きな文学作品の一つですが、その中で主人公ヨーゼフ・クネヒトの少年時代を指導した老人が少年にこう語ります。

 「真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない」(新潮社「ヘッセ全集」第9巻、高橋健二訳)

 この言葉は、物語の中の老人の言葉であると同時に、ヘッセ自身の言葉であるのではないでしょうか。

 

143アリス: ヘッセとは懐かしいですね。ヘッセの小説は、高校時代にほとんど読みましたが、おそらく、十分味わえていないのではないかと思っています。何時かドイツ語で読んでみたいと思いながら、まだ手づかずです。

さて、猫さんの今回のお話は、なんだか大変やさしい気分が漂っていますが、気のせいでしょうか?

すべてのことが神の国では許されているという、安堵感を与えてくれます。

それでも、猫さんは「ハート」により正しいものが分り、そちらへ呼び戻したいのですね。

話題が114あたりへ逆戻りしそうですし、それもいいのですが、その前に、錯覚のもとである「エゴ」について、それの形成される過程をお教えいただけませんか?それと前にお話に出た「自由意志」とはどう関係するのでしょうか?

猫さんのサイト「霊性の時代の夜明け」(リンクさせる)を読めば書いてあるのでしょうが、私のために要点をお話いただければありがたいです。

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