アリスとチェシャ猫との対話(43)

136 猫: アリスさんの条件反射はいつも私の予想を超えるので、おかげで、対話がたいへんおもしろくなります。

 まず論理性について説明します。論理性というのは「命題の真理値の保存を保証すること」という風に定義できると思います。

 真理値というのは命題の真偽のことです。私は「真偽値」というほうが妥当ではないかと思っていますが、確か学校で論理代数などを習ったときに「真理値」と言っていたと思うので、それを使うことにします。

 正しい論理的推論とは、「真なる命題から偽なる命題を導き出すことがない」ということが保証されているような推論方法のことです。つまり「真なる命題」から出発して、正しい論理的推論のみを行なえば、その結論が正しいことは自動的に保証されている、というのが論理的推論の存在価値です。その代表例が三段論法などです。

 ここで、「真なる命題から」というところに注目してください。最初の出発点が真であるときにのみ、論理的推論によって導かれる結論が真であることが保証されるのです。したがって、出発点の命題の真偽がはっきりしていないときには、論理的推論を使う意味がありません。「統計的帰納法」の存在価値はこのような場合に発揮されるのです。

 次に「推論」と「直観」の違いについて説明します。

 実際に、私自身に起こった「直観」を例に取るのがわかりやすいかと思います。私が現役で部長をしていた頃、部下がバーチャル・リアリティの研究をしていたことは以前にお話ししました(対話2)。私は部下の研究計画がバーチャル・リアリティと名乗りながら、視覚の研究、つまりバーチャル・ヴィジョンの研究しかしていないことに不満をもち、「もし、人間のすべての感覚にバーチャル信号を入れることができたらどうなるだろうか」と考えました。そして、「人間は本当のリアリティとバーチャルなリアリティを区別することができないに違いない」という結論に到達しました。ここまでは「推論」です。

 けれども、このとき、私の心の中で一つの飛躍が起こり、「今現在の人間自身がそうなんだ」という考えが浮かんだのです。いま現在、人間が持っている肉体の感覚自体がバーチャル信号であって、物質世界そのものがバーチャルなのだ、という信念が生まれたのです。これは「直観」だと思います。

 どこが違うかというと、「推論」のほうは、あくまで出発点の命題が属していた話題の範囲で結論を引き出してきます。「人間のすべての感覚にバーチャル信号を入れたらどうなるか」というのは、あくまで仮定の話であり、コンピュータで作成するバーチャル・リアリティのことを問題にしていたのです。

 これに対し、「いま現在の肉体感覚が実際にバーチャル信号なのだ」というのは、仮定の話ではありません。それが真実であるという信念なのです。それは何かの命題から引き出される結論ではなく、むしろ思考の出発点なのです。

 「推論」は思考の終点であり、「直観」は思考の出発点である、と言えるかも知れません。

 

137アリス: 猫さんのお話をお聞きして、私は三叉路か四叉路に立っている感じです。直観のプロセスへと話を進めていただくには、48猫あたりに戻らねばなりませんし、直観に挙げられた例示はこれまでの対話全体をレヴューしてからでないとちょっと前に進むのが難しいほどのテーマです。いずれそのような作業をするにして、次のような疑問に対して、猫さんはどう答えられますか?

「推論にしろ、直観にしろ、出てきた観念(命題、仮説)は、近代の科学的方法といわれる方法によると、実験、観察など検定というプロセスを経て、真理であるか否かを確認しますが、このようなプロセスを経ない(経ることのできない)真理というものもあるのでしょうか?」

多くの人は科学的方法こそ唯一正しい道だと思い、その方法を延長していけば、いずれ、すべてのことは分ると思っておりますが・・・

 

138 猫: 何も限定せずにただ「すべての真理」とおっしゃるのであれば、私は、すべての真理を科学的方法によって知ることができるとは思っていません。

 以前に、アルベルト・シュヴァイツァーの「一切の仮定を設けない合理的思考は神秘主義に到達する」という言葉を紹介しましたが(対話16)、覚えていらっしゃるでしょうか。この言葉は、逆にいえば、「神秘主義でない合理的思考は常に仮定の上にたっている」ということを示しています。

 科学的方法は、物質世界の法則性を見出すには、おおむね適した方法だと思いますが、それさえもいくつかの仮定の上に立って成り立っています。その一つの仮定は「宇宙のすべての場所すべての時間で同一の物理法則が成り立っている」というものです。科学者たちは、これが仮定であることを知っています。けれども、この仮定をはずしてしまうと前に進めなくなるので、とりあえず仮定を置いて研究を進めるのです。

そうやって出てきた理論は、地球の上や、太陽系の近くの空間で起こる現象ならば、実験や観測で追認できますが、決して実験できないようなものもあります。たとえば、現在の量子物理学の最先端である「大統一理論」や「超弦理論」、これは宇宙の始まりのときには電磁気力も重力も同じ力であったとか、すべての素粒子は小さな弦でできているという理論で、あらゆる物理学の根底の理論になると期待されていますが、これを実験で確かめることはできません。電磁気力と重力が二つの別の性質を持った力として分離するのは、温度にして何兆度というような高いエネルギーレベルの領域です。そのような状況は地球の上はもちろん、太陽のような恒星の中でさえも作り出すことはできません。そうかといって、宇宙の始まりに戻って観測するということもできません。このような検証不可能な理論を研究することには、物理学者の間にさえ無意味であると考える人があるほどです。

 ただこのような理論は、実験可能な低エネルギーレベルの現象に対して、その理論がどのような予言をするかということによって間接的に検証されることで、何とか容認されているという状態です。

 このように、最も厳密で正確な真理であると思われやすい物理学の法則でさえも、実際は、「それ自身の内部に矛盾をもっていない」「観測や実験が可能なところで現実と一致する」という消極的検証によってささえられ、あとは「宇宙は至るところで等方かつ一様である」という仮定や「もっとも広い範囲の対象をカバーできる理論がよい理論である」といった科学者の美的感覚によって導かれて、つくられているのです。

 科学的方法で真理を知る、というのには、もっと根本的な限界もあります。たとえば「一回限りの出来事」は検証のしようがありません。聖書にはキリストが行なった数々の奇跡が書かれていますが、これらの「奇跡」は、仮にそれが事実であったとしても、繰り返すことができなければ実験も観測もできないわけで、科学的に検証することはできません。科学者たちは、奇跡などというものはなかったといいますが、それも証明の方法はないのです。

 また、科学的方法はものごとを対象として観察することによって成立していますから、対象化できないものがあったとしたら、それも科学的方法で研究することはできません。意識の研究が困難なのはそのためです。意識というのは完全に自己の内面の問題ですから、他人の意識を観察することはできません。自分の意識でさえも、内省によって観察するなら、それは既に観察されていない意識とは異なっているのです。

 このように、科学的方法という特定された手法には、さまざまな限界があります。けれども、世の中には「科学的方法で確認されたものだけが真理である」という立場を取る人もあります。私が最初に「なにも限定しないで」と注釈をつけたのは、そのためです。

結局、「科学的方法で知りえない真理があるか」という問題は、「それを真理と認めるか否か」という問題になるのではないでしょうか。

 

139 アリス: 少し間があいてしまいました。実はこれまでのところを読み返しておりました。猫さんのお考えも分り始めてまいりました。いくつか引き返りたいことがありますが、取敢えず、対話を続けさせていただきます。「結局、「科学的方法で知りえない真理があるか」という問題は、「それを真理と認めるか否か」という問題になる」ということは「知」の問題ではなく主体的に選び取る「信」または「信仰」ということになると思いますが、そのような理解でいいでしょうか?それとも「直観」というものは自ずと働くのでしょうか?

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