アリスとチェシャ猫との対話(42)

134 猫: 「巨大スクリーンは何か」という問いはとりあえず横において、人間の知性の働き方についてしばらく道草を食うことにしましょう。旅の途中での「道の駅」というところでしょうか。

 私が以前人工知能の研究にたずさわっていたことはご存知の通りですが、その頃私は人間の脳の持っている推論メカニズムについて、ある仮説を持っていました。その仮説は結局実験にまで持ち込むことができず仮説のままになっていますが、それについてお話ししますので、しばらく付き合ってください。

 はじめに私自身が経験した一つのエピソードをお話します。

 私が始めて米国に出張したときのことです。先方の会社の運転手が、私を車に乗せて、ニューヨークから2時間ほどハドソン川をさかのぼったところにある工場まで連れて行ってくれました。運転手は来年は定年だという白人のおじいさんで、とても感じのいい人でした。ところが、ちょうど1時間ほど走ったとき、運悪くネズミ捕りにつかまってしまったのです。運転手のおじいさんは降りていって黒人の警官としばらくやり取りしてから戻ってきました。そして車をスタートさせたあと、こういったのです。「あいつは、黒人だから俺を捕まえた。白人の警官だったら、これくらいのスピードでは捕まえなかったはずだ」と。

 私は、これを聞いたとき、「ああ、これが人種差別の根本なんだ」と感じたのです。それは、何もイデオロギー的なことではありません。ここに現われているのは、実は、人間の知的推論能力の正体そのものなのです。そして、それがやがては人種差別や、性差別や、その他のさまざまな社会問題にまで発展する危険をはらんでいるのです。

 原始時代、野原や森林で野獣と共に暮らしていた人間を思い浮かべてください。人間が種として生きのびていくためには、最小限三つの必要を満たさなければなりません。それは、身の安全を守ること、食事を確保すること、そして同じ種族の異性を見つけて生殖をすることです。このどれをとっても、周りの環境の状況を判断して適切な行動を取らなければなりません。そのためには、できるだけ早く、次に起こることを予測しなければなりません。たとえば、森の中で遠くの木陰にちらりと動く黄色いものが見えたとします。もしそれがトラならば、すばやく逃げなければなりません。トラの口にくわえられてから、「トラだった」と気づいても遅いのです。

 まだ物理学も動物学もない時代です。どのようにして、身の回りに起こる雑然とした出来事の集積の中から、予測の手がかりを見つけ出したらいいのでしょうか。そのために自然が人間に与えたのが非常に単純で巧妙な方法です。それを私は「二度あることは三度ある」の法則と呼びます。難しく言えば、統計的帰納法とでも呼びましょうか。

 何かの異常(異常A)があったとき、人間は本能的に「なぜその異常が起こったか」と追求します。これは異常の原因を知ることによって、その異常の発生を予測できるようになるためです。このとき、もしその現象に関して何も知識がなかったら、私たちはとりあえずその近辺の「普通でないもの」(異常B)をさがして、「それが怪しいのではないか」と見当をつけます。「いつも起こらないようなことが起こったのなら、その原因もいつもはそのあたりにないようなものに違いない」というわけです。

 実は、この結びつけは「あてずっぽう」でいいのです。何も根拠がなくていいのです。それは、この後にチェックのプロセスがあるからです。その次にまた異常Aが起こったとき、やはりそばに異常Bがあったら、おそらく異常Bが異常Aの原因であることは確実でしょう(どちらが原因でどちらが結果かということは時間の前後関係で推測されます)。三度同じことが起こったら、もう絶対に確実といってもいいでしょう。

 もし二度目に異常Bがないのに異常Aが起こったら、異常Bは異常Aの原因ではないとして捨てられます。

 これが「二度あることは三度ある」の法則です。

 この方法は非常に強力です。物理学も生物学もいりません。原始時代の人類は、このような方法で知識を整理し、経験を蓄積していったと、私は考えています。実は現代の精密な科学実験も、原理的にはこの方法を使っているのです。科学実験で、ある現象に対するひとつの因子の影響を調べようとすれば、それ以外の因子の変化をどれだけ抑えられるかということと、同じ実験を繰り返して同じ結果が生じるかということが重要です。これはまさに上に述べた「二度あることは三度ある」の法則を使っているのです。

 さて、はじめにあげた運転手のおじいさんの例に戻ります。このおじいさんは、スピード違反でつかまったのが悔しいので、その原因をどこかに結びつけなければ腹の虫がおさまりません。ちょうどいいことに警官が黒人だったので、「あいつは黒人だからだ」ということにして納得したのです。もし、このとき警官が白人だったとしたら、おじいさんは「あいつはきっと出勤前に奥さんと喧嘩したにちがいない」などという別の理由を考え出したかもしれません。

もちろん、このような心の中の操作は全部無意識の中で行なわれていますから、おじいさんは自分のしていることが不合理なことであるとは思っていません。「二度あることは三度ある」の法則は、一つの現象に対して繰り返して適用して確認しなければ意味がないのです。このような無意識で行なわれる「原因探し」、心理学ではこれを「合理化」と呼んでいますが、これについて無自覚でいると、いわれのない人種差別や性差別の原因になっていくことがある、と私は考えています。

自然が人間に与えたもう一つの強力な推論方法が類推、つまりアナロジーです。これについてはよく知られているのであらためて説明はしませんが、この二つとも、決して精密な論理性に基づいたものではない、というところに注目してください。三段論法のような論理的推論は、ある程度知識が整理された後にはじめて使えるようになるものであって、日常の生活環境のなかの複雑怪奇で未整理の観測データの中から法則性を見つけていくのは、何にでも適用できる粗雑でタフな推論方法が必要なのです。

 

135 アリス:パブロフの条件反射を思い出しました。

「二度あることは三度ある」の法則もアナロジーも精密な論理性に基づいたものではないということは分かりますが、「論理性」というものを少し説明いただけませんか?これと「真理」とは関係があるのでしょうか?

それから「推論」について、一種の条件反射的に導かれるものと、「直観」に基づくものがあると思いますが、猫さんの「推論」と「直観」の関連はどうなっているのでしょうか?これは前にも触れましたが、(73,74)「不思議の国」の赤の女王の裁判では、判決が先で、証拠調べが後になります。お話の中の「原因探し」、「合理化」とも関連がありそうですね。

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