アリスとチェシャ猫との対話(40)

125 アリス: 神と人間の関係をコンピューターに譬えての猫さんのお話は一応分かりました。神の部分である「狭い意味での人間」が地球に来て、「神を忘れる」という特殊なこと(仕事、遊び)をしているのですね。なぜ、そうなのかは問うてはいけないのでしたね。アリスもなぜ兎の穴に落ち込んだのかわからない。スリルに満ちた物語をお聞きしましょう。

126 猫: 「なぜ」という質問を決してしてはならない、などと言うつもりはありません。ただ私は、「なぜ」という質問は、多くの場合非常にあいまいな質問だと感じています。そのために、「なぜ」という質問は出てきた答えに対してまた「なぜ」という問いかけを発することになります。いつまでたっても終らないのです。

 いまの場合、私は「神の意識の分身である人間は、地球に来て、『神を忘れる』という遊びをしている」と言いました。これに対して「なぜ」と訊くのは、何を訊こうとしているのでしょうか。

たとえば、いま二組の男女のペアが、コントラクト・ブリッジのゲームに興じているとします。その姿を見て「この人たちはなぜコントラクト・ブリッジをしているのだろうか」という疑問が起こってくるでしょうか。

もし、起こってくるとすると、どんな場合でしょうか。

(1) コントラクト・ブリッジというゲームの何がおもしろいのだろうか。

(自分はこんなゲームはしたくない)

(自分はこのゲームを知らない)

(2) 他のゲームはしないのだろうか。

    (マージャンのほうがおもしろいのに)

(3) こんな真面目な人たちが「遊ぶ」なんて信じられない

(何か普通でない事情があるにちがいない)。

 まだこの他にも、いろいろな「なぜ」があると思いますが、それはそのときの事情や遊んでいる人や見ている人の違いによって、いくらでも変種があり得ます。

 さて、アリスさんの「なぜ」はどのあたりにあるのでしょうか。上の例にならってならべれば、次のようなことでしょうか。

(1) 「神を忘れる」という遊びの何がおもしろいのだろうか。

(2) 他の遊びはしないのだろうか。

(3) 神の分身である人間が「遊ぶ」なんて信じられない。

 もし、これ以外の「なぜ」があったら教えてください。それによって、また話の進展があると思います。

 対話112と同じように、答えは逆の順序に進めていきます。

 まず、「神の分身である人間が遊ぶなんて信じられない」という問題ですが、私は「神には遊ぶ以外にすることはない」と考えています。したがって「神の意識の細胞である人間も遊ぶ以外にすることはない」のです。古代インドには「すべては神の遊びである」という思想があったと聞いています。人間が「何かしなければならないことがある」と考えるのは、「何かが欠乏している」と考えるからです。

「遊んでいないで、勉強しなさい」という言葉の裏には、「時間が足りない」「智慧が足りない」「知識が足りない」「能力が足りない」という欠乏感が潜んでいます。もし、時間が無限にあって、智慧も知識も能力も有り余っているとしたら、私たちは何をしたらいいのでしょうか。

「遊んでないで、仕事をしなければ」という言葉の裏には、「時間が足りない」「金が足りない」という思いが潜んでいます。もしお金が無限にあるとしたら、私たちは何をしたらいいのでしょうか。

「自分だけ遊んでいないで、貧しい人たちのために奉仕をしなければ」という考えの裏には、「地球の上には貧しい人たちがたくさんいる」という認識があります。けれども、もし地球の上に貧しい人が一人もいなかったら、私たちは何をしたらいいのでしょうか。

神には、何も不足しているものはありません。時間も、智慧も、能力も、富も、愛も、感動も・・・ありとあらゆるものが充足しています。神には「遊び」以外にすることはないのです。

第二に「ほかの遊びはしないのか」という問に対しては、「ほかの遊びもたくさんあるし、現にほかの遊びもしている」とお答えします。これには二つの意味があります。

一つの意味は、「広い意味の人間たち」がする遊びのことです。神の意識の中でさまざまなテーマを追いかけ、そのバリエーションを具体的に描き出し、それを自ら体験するという形で、「広い意味の人間」たちはさまざまな遊びをしています。いわば、「広い意味の人間たち」というのは、神の演劇クラブのメンバーのようなものです。自作自演のドラマに戯れるのです。メンバーのすることはすべて神の遊びです。「神を忘れる」というのは、そのような遊びの中の非常に特殊な一つの種類にすぎません。

第二の意味は、私たち「狭い意味の人間たち」がしている遊びです。私たちは、「神を忘れる」という、神の遊びの中でも非常に特殊な遊びをしています。けれども、それだけしかしていないわけではありません。一人の少年がパソコンを何台ももっていて、同時に複数のゲームをすることができるように、私たちは心の中に複数のスクリーンを持っていて、いくつものゲームを同時に楽しんでいます。

ただ、私たちはそのようなほかのゲームをしているときの意識を、地球の人間として生きているときの意識と混ぜ合わせないようにしているのです。もし混ぜ合わせたら、「神を忘れる」ということができないからです。神を忘れるというゲームは、そのゲーム以外からくる知識や情報を決して入れてはならないというゲームなのです。

 最後に、「神を忘れる」というゲームの何がおもしろいのかという問題に進みましょう。

 「神を忘れる」ということは同時に「自分の本質」を忘れるということです。人間は、本来、生まれることも死ぬこともない永遠の存在ですが、それを忘れて「肉体のはかない命」が自分の命だと信じています。それによって、私たちは、永遠の生命である霊的存在としては決して味わうことのできないさまざまな感情を味わうことができたのです。それは、恐怖、不安、悲しみ、絶望、怒り、憎しみ、ねたみ、欲望などであり、そしてこれらのマイナスの感情を克服することの喜びです。これらは、すべて自らを有限の壊れ易い肉体の中に閉じ込めることによってのみ味わうことができた感情です。

 いわば「神を忘れる」というのは、神の世界における「ホラー映画」のようなものです。私たちは「ホラー映画」を上映している映画館の中で、恐怖の悲鳴をあげている女の子のようなものです。

 「なぜ」、私たちはそんなものを見たがるのでしょうか。それは、それが「楽しい」からではないでしょうか。

 そして、「神を忘れる」というゲームの最高の楽しみは、ふたたび神を思い出すというところにあります。神を思い出し、自分が永遠不滅の霊的存在であることを思い出すところに、言い知れぬ喜びがあるのです。それは、長い夜を過ごした人が夜明けを迎えるときの喜びを何万倍にも拡大したような喜びです。夜明けの美しさを見るためには、夜を過ごさなければならない、これが人間が「神を忘れる」というゲームにはまった理由です。

127 アリス:「なぜ」の問題を取り上げていただいて、嬉しいです。

私が「なぜ」というのは2つあります。「なぜ、そうななのか?どういう必然性または必要性があってそうなるのか」と「なぜ、それがわかるのか?」ということです。
ゲームの種類を別にして、「遊ぶことの必然性または必要性はなにか?」その答えが出たとして「なぜ、それがわかるのか?」
後者の方は厄介だと思いますので、前者の疑問をさらに説明しますと、これは、リンゴはなぜ木から落ちるか?と同じ質の疑問です。ニュートンは万有引力の法則でその疑問にこたえました。なぜ引力があるのか?と次の疑問が出て、おそらく、猫さんの仰るように際限が無いのでしょう。しかし、この「なぜ」は「神を忘れる」というゲームへの入口の鍵でもあり、ひょっとしたら出口の鍵のように思えるのでのですが、いかがでしょうか?
あるいは「なぜ」という鍵を使っては脱出できないゲームなのでしょうか?
猫さんの「神には、何も不足しているものはありません。時間も、智慧も、能力も、富も、愛も、感動も・・・ありとあらゆるものが充足しています。神には「遊び」以外にすることはないのです。」というのも立派なお答えで、そのうち、「神を忘れる」というゲームは面白いからしている、というこというのもこれも立派なお答えだと思います。
「不思議の国」でアリスが出会う事柄には何の理由も説明されていないのに比べるとなんとわかりやすい世界でしょう。このレベルの「なぜ」はこの段階でとりあえず止めることにして、なぜ、そのようなことが猫さんにわかるのかお教えいただけると嬉しいです。

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