アリスとチェシャ猫との対話(39)
122 猫: ミッションというものが、「誰かが誰かに命じる」というようなものであるなら、そのようなものは存在しません。神が人間に何かをするように命じるわけではありません。むしろ私は、それは人間の本性であると考えています。そして、人間が神の一部、あるいは、神の分身であるというような意味で、それは神の本性でもあります。「自分の意識を体験する」というのは、神の本性であり、人間はその本性を受けついでいるのだと、私は考えています。
アリスさんは、beと must やcan を対比されましたが、アリスさんの感じ方が私にはうまく受け取れません。私はむしろ次のように考えます。「猫は好奇心で身を滅ぼす」といいますが、もし好奇心が猫の本性であるなら、好奇心を持たない猫というのはありえないわけです。そのような意味で、好奇心というのは猫にとっては must be であるわけです。同じような意味で、本性というのは be = must be = can be = may be = will be = shall be であるようなもの、と言えるのではないでしょうか。
本性というのは、「人間は人間である」というようなもので、もし人間が人間であることをやめたら、そこに何が残ろうと「人間はいない」わけです。「体験者」が体験することをやめたら「体験者」ではない、という意味で、私は「人間は神の意識の中の体験者である」と考えています。
それから、神の国を scan あるいは simulate するということですが、私は人間が「神の国を simulate するのではなく、体験している人間そのものが神の国である」と言いたいと思います。つまり、人間と神とは切り離せないものであって、人間が体験したことはすべて神が体験したことであり、神が体験するということは、神の体験エージェントである「広い意味での人間」の誰かが体験するということです。ちなみに「狭い意味の人間」は、この地球という世界を体験している私たちを指しています。
さて、話題が一つのところに stick しているようですので、すこし話題を変えたいと思いますが、いかがでしょうか。
このように神と人間の関係が問題になるのは、人間に「自由意志」があるからではないかと思いますが、いかがでしょうか。人間が体験することの決定権は、神にあるのか、人間にあるのか、という問題ではないでしょうか。
もし同意いただけるなら、自由意志の問題、そして私たち「狭い意味の人間たち」は、「いま何を体験することを選んでこの地球にいるのか」というテーマに入っていきたいと思いますが、ご意見をお聞かせください。
123アリス: be =
must be = can be = may be = will be = shall beであることは了解いたしました。これを一括BEということにして、神BE人間、即ち神=人間と考えますが、そうすると「広い意味での人間」とか「狭い意味の人間」という概念が発生しませんし、「自由意志」が、神のものか、人のものかという問題も生じないのですが、どこか、猫さんと議論のすれ違いがあるようです。猫さんのやりやすい形で、お話を進めていただけませんか?私は、少し前の意識の階層当たりから、付いていけていないのではないかと思います。
124 猫: アリスさんは自由意志についてはあまり問題を感じておられないようなので、もう一つだけ、私が抱いている神のイメージを別のたとえでお話ししてから、先に進ませていただきたいと思います。このたとえは、「狭い意味の人間」と「広い意味の人間」というのが何を意味するかも説明するはずです。
神をマルチプロセッサーの大型コンピュータであると考えてください。何百兆個ものプロセッサーを備えた超並列コンピュータが神です。その何百兆個もあるプロセッサーの一つ一つが「広い意味の人間」です。人間は一個のプロセッサーであり、神はすべてのプロセッサーの集合であるというところに注目してください。これが、人間と神との階層の差と私が呼ぶものです。これと 神=人間 という表現とのあいだに矛盾が感じられますが、それは、このプロセッサーの一つ一つが神(すなわちコンピューター全体)と同じ能力を持っていると解してください。このことは、部分が全体を含むということを理解されているアリスさんには難しくないと思いますが、ものとして同じなのではなく、能力として同じなのです。部分が全体を含むということは、単純に部分が全体と同一ということではなく、部分は部分であり、全体は全体であり、その上でなお 部分=全体 という等式が成り立つという不可思議な関係であることも理解しておく必要があるのではないでしょうか。
たとえば、部分と全体が同一という例としてよく使われるのに、自然数の集合と偶数の集合があります。自然数の集合というのは{1,2,3,4,5,・・・}であり、偶数の集合というのは{2,4,6,・・・・}ですから、明らかに偶数の集合は自然数の集合の部分です。それにも関わらず、偶数の個数と自然数の個数は等しいというのがこの例の示す意味です。自然数の個数と偶数の個数が等しいことは、自然数の一つ一つに一つずつの偶数が対応付けられることからわかります(どの自然数にも、それを2倍した数が対応する)。このような対応を数学の用語で一対一対応といいます。このように部分と全体が一対一に対応するというのは無限集合でしか起こらないことですが、この例は、自然数の集合と偶数の集合が同じものだといっているのではありません。ただ集合の要素(メンバー)の数が同じだといっているのです。
これと同じように 神=人間 という表現は、神と人間が同じだといっているのではなく、神と人間が同じ「質」のものだといっているのです。それを上のたとえでは、プロセッサーの能力という形で表現しました。
さて、一つ一つのプロセッサーが「広い意味の人間」だといいましたが、では「狭い意味の人間」とは何かというと、その何百兆個のプロセッサーの中で「特別な仕事をしている一部分」が狭い意味の人間なのです。それは現在地球という世界を体験しているものたちだけを指しています。神のコンピュータの中にあるすべてのプロセッサーがいま地球にいるわけではありません。地球にいるのは、ほんの一部なのです。
そして、この「狭い意味の人間」は現在特別な仕事(あるいは遊び)に携わっています。別に報酬をもらうわけでも、強制されているわけでもないので、遊びというほうが妥当かも知れません。それは「神を忘れる」という遊びです。自分が神の一部であり、神と同質の本性(=霊性)を持っていることも忘れて、自分は孤立した物質的存在であると思い込み、それから今度は一転して、神を思い出し、自分の本質を思い出すというのがこの遊びです。
これは、以前にお話したことがあると思いますが、巨大迷路と同じ種類の遊びです。人間は迷路にわざわざ入っていって迷います。それは、迷路から脱出するところにスリルと喜びを感じるからです。私たち地球人が体験している「神の遊び」も同じです。神を忘れたところから、再び神を思い出す、というところにたとえようのないスリルと喜びがあるのです。
これで、話を次に進める糸口ができました。ちょっとコンピュータのたとえが長くなりましたので、ここでひとやすみしましょう。
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