118 猫: ご質問には、二つのポイントがあると思われます。一つは「委託」という言葉であり、もう一つは「呼び戻す」という言葉です。「呼び戻す」のほうは、「現在、人間は何を体験しているか」ということに関係しますので、もう少しあとで取り上げることにします。「委託」のほうを先に始末してしまいましょう。もっとも、始末が始末にならず、ここから新しい話題の進展があることも期待しているのですが。

 はじめに、以前にもお話ししたかと思いますが、神に関する話はすべて「たとえ話」であるということを思い出してください。神について「正しい定義」「正しい用語」「正しい説明」「正しい記述」「正しい概念」はありません。神については「正しい・・・」はすべて不可能です。ただたくさんのたとえ話をすることで、言葉にすることができない真実をつかんでいただきたい、というのが私の願いです。

 すべてはたとえ話ですから、「委託」という言葉が不適切であると思われたら、それは捨てて下さって結構です。私は言葉にはいっさいこだわりません。けれども、捨てるにしても、私が「委託」という言葉でどんな関係をイメージしていたかがわからないと、捨てていいものかどうかもわからない、ということになると思いますので、また新しいたとえ話をお話しすることになります。

 アリスさんも私も、かつてある大企業の社員として働いていました。その当時のことを思い起こしてください。私は、神というのは会社のようなものだ考えています。人間は社員です。ここで、間違わないようにしていただきたいのは、社長が神ではない、ということです。会社が神なのです。社員が会社の一部であるように、人間は神の一部です。けれども、社員の誰一人をとっても、社長でさえも、会社そのものである人はいないように、人間の誰一人をとっても、神そのものである人間はありません。会社と社員は「次元」あるいは「カテゴリー」の異なる存在です。それと同じように、神と人間は次元の異なる存在です。

 私がM社の社員であったとき、私はM社として仕事をしました。私が米国に出かけてある会社を訪問すると、その会社では快く会ってくれて必要な話をすることができました。それは私がその仕事についてM社を代表しているからです。そのとき、訪問先の会社にとっては、私のすることはM社がすることであり、私の言葉はM社の言葉であり、私の考えはM社の考えだったのです。もし私が個人の資格でその会社を訪問したとしたら、ていよくあしらわれて門前払いを食わされるのが落ちでしょう。

会社というのは社員の集まりですから、私は、確かにM社の一部でした。けれども、私はM社ではないし、M社は私ではありません。私の仕事は、M社にとってしなければならないことですから、私がしなければ他の誰かにやらせたでしょう。その意味で、私はM社から、その仕事を「委託」されているということができるのではないでしょうか。「委託」という言葉が不適切ならば、「権限の委譲」といってもかまいません。私は、その仕事をする権限と責任を委譲されていたのです。

会社は、社員の集まりですが、ただ社員が集まっただけでは会社にはなりません。会社は、それ自体の意志と思考をもち、情報や物資を取り入れたり吐き出したりする一つの生命体です。けれども、それは目に見えない、非物質的な生命体です。目に見えるのは、その構成要素の一部である、社員や、建物や、書類や機械だけです。社長が会社ではなく、社員が会社ではありません。その証拠に、社長が死んでも、社員がやめても、会社は生きつづけます。30年か40年たてば、社長も社員も一人残らず入れ替わります。社長も社員も会社ではありませんが、それにもかかわらず「会社として」仕事をします。そのような関係を私は「委託」という言葉で表現しました。

神と人間の関係もそのようなものだと考えることができます。人間は神によって生み出され、神の一部ですが、それでも神そのものではありません。それは社員の誰一人とっても、会社そのものである人がいないのと同じです。社員は会社ではありませんが、社員がした仕事は「会社がした仕事」です。人間も神そのものではありませんが、人間がしたことはすべて神がしたことです。社員がした仕事以外に会社がした仕事があるわけではありません。神も「人間」が体験する以外のことを体験するわけではありません。(ここで「人間」といっているのは、地球の上に住んでいる人間だけでなく、神の意識の中の体験エージェントすべてを指しています。)

このような関係を「委託」という言葉で表現したつもりですが、いかがでしょうか。もっと適切な言葉があれば教えてください。すぐに変更します。

119アリス:
 私は猫さんの「体験エージェント」「新聞記者」「俳優」「M社社員」という言葉遣いの中に、人間は特定の使命、missionを帯びた存在であるとお考えのようですが、その点をもう少しお伺いしたほうが良いのかもしれません。

私は前にも述べましたが、「意識をもたらす存在がある。N1意識を生み出す存在を1意識担当者と呼ぶ。川や山はそのうちの一つであろう。N1、N2、・・・Nx・・・・意識担当者があり、有限か無限かわからないが、全部あわせるとΣN0 または ∞ =神=私  である。[97アリス]」という考えで、それを猫さんはΣN=0 = ∞ = 神 = 私 [98猫]となおされましたが、私はさらにΣN=0 = ∞ = 神 = 私 =Niと考えたいと思っています。部分が全体を含むUbiquitousの考えです。最近ではコンピュータの世界の言葉になっていますが。どこを切っても金太郎飴のように神の姿がある。こうなりますと、「委託」と言う言葉が私にはぴったり来ないのです。

この前の猫さんの「「私が   を体験する」というのが神の御業なのであって、空白の部分に何を入れるかは、私たち人間の一人一人に任された部分なのです。したがって「私が   を体験する」ということは変えることができません。人間は、神の意識の中の体験エージェントです。このことは人間の本質であって、決して変えることはできません。[112]」で「私」は神のことなのでしょう?「私たち人間」がブランクのところを埋めるようなミッションを与えられているのだと2重構造になっているあたりがよく分かりません。

120 猫: 「人間は特定の使命を帯びた存在である」と考えるかどうか、というご質問に対しては、私は「そのとおりである」とお答えします。ただし「特定の」というところには、注釈が必要だと思います。どの程度使命が細かく指示されているか、ということに関係するからです。これについてはあとで取り上げます。

 以前に「人間は神の意識の細胞である」という言い方をしたと思います。私たちの肉体が無数の細胞によって構成されているように、神の意識も無数の要素機能によって構成されています。人間の細胞に無駄な細胞がないように、神の意識の細胞にも不必要なものはありません。どんなに小さな、ごみのような要素であっても、それは必要であるからこそ存在するのです。神がこの細胞は不必要であると思ったなら、その細胞はたちどころに消滅するでしょう。

 この意識の細胞の「必要性」を私はその細胞の「使命」と呼びます。

 では、その意識細胞の使命とは何かというと、それはさまざまな概念の内容を具体的に描き出すことです。概念という言葉は、あまりにも人間的な言葉なので使いたくありませんが、ほかに適当な言葉が思いつきません。

 たとえば、人間の場合に、「愛」という概念をもっているということは、「愛」という言葉の意味を自分なりのやりかたで理解しているということであり、「愛」という言葉があらわす内容について何らかのイメージをもっているということです。哲学者は「愛」を別の言葉で定義しようとするかもしれませんが、それは必ずしも別の言葉で定義したり、説明したりできるようなものではないかもしれません。そこで、作家は「愛」の具体的なバリエーションを架空の物語を語ることによって描き出します。音楽家は音楽を通じて、画家は色彩によって「愛」を表現しようとします。

 神の意識の中で起こっていることもこれと同じです。神の意識の中で、一つ一つの意識細胞は、たとえば「愛」というものをテーマにして、その姿を具体的に詳細に描き出します。人間の作家は言葉という一つの手段を使います。音楽家は音という手段を使います。これに対し、神の意識細胞は「人生」そのものを使います。私たち人間は、自分の人生を使って「愛」の一つのバリエーションを自らの「体験」という形で描き出すのです。

 さて「特定の使命」というとき、どの程度使命の範囲が指定されているかというと、実はまったく指定されていません。何をテーマにするかということも含めて、何も限定されていません。したがって、上で「愛」というテーマを取り上げたのは、単なる例にすぎません。特定の使命というのは、「画家の使命は絵を描くことである」という程度の使命なのです。何を、どのように描くか、全く自由です。私は、人間が神の意識の細胞であるというとき、このようなものを思い浮かべています。

 アリスさんは、神のどこを切っても金太郎飴のように神の姿がある、とおっしゃいました。そのたとえを拝借すると、私のイメージは次のようになります。

神を金太郎飴とし、人間は神の切り口であるとしましょう。まず、金太郎飴の切り口は金太郎飴ではありません。なぜなら、切り口というのは二次元であり、金太郎飴は三次元だからです。人間と神の間には、少なくともこれくらいの次元の違いがあります。

次に、金太郎飴の切り口に現れる模様は、切る前に決まっています。けれども、神の切り口である人間には自由意志があります。神の切り口にどんな模様が現われるかは、切り口に任されているのです。この「任されている」というところが、私が「委託」という言葉を使う理由です。

それから、「私が   体験する」の「私」は、人間と神の両方を意味しています。それは、ちょうどM社の社員として「私がしたこと」は「M社がしたこと」であるというのと同じです。私は、神と人間の関係はそのような二重構造であると考えています。

 

121アリス:M社の社員の場合、何をしても言い訳ではなく、M社のミッションに従うことが求められますが、神の国の社員はもっと自由で、何をしてもよく、神の国をscanしたり、simulateすることだけが求められているのでしょうか?

私が119で言った世界はbeの世界ですが、猫さんの世界は、must, can, mayの世界ですね。他の機能を持つ神の意識細胞との対比でお話いただけると、分かるかもしれません。

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アリスとチェシャ猫との対話(38)