106 猫: 絵を描く人が、自分はなぜ絵を描きたいのかわからない、と言われたのではお手上げですね。

 「なぜ」という質問には、気をつけてください。これは、どこまで行っても終わりがない質問なのです。この質問についても、お話するべきことがたくさんあるように思いますが、きょうはひとつだけ、アリスさんに質問を返しておきます。人間は(アリスさんだけではありません)なぜ、「なぜ」と聞きたがるのでしょうか。

この問題はいずれまた取り上げることにしますので、それまでに考えておいてください。その前に、せっかくのお尋ねですので、人間はなぜ絵を描きたがるのか、なぜ仮想世界のドラマに入り込みたがるのか、という問題にまじめに取組むことにしましょう。

 「それは、神の本質である」というのが、私の考えです。神の本質と人間がドラマをつくるのとどういう関係があるのかとお思いでしょう。それをお話しするためには、まず神とは何か、ということからはじめなくてはなりません。相当長い話になると思います。ゆっくりやっていきましょう。

 神とは存在の根源です。このことは以前(対話98あたり)にも申しあげました。神は純粋の意識であり、存在の根源です。

この「根源」に対して、私は「神」という言葉を使いますが、別にこの言葉にこだわる必要はありません。老子の「混沌」のようなものだと考えても結構です。仏教では神を立てない、と言いますが、法(真理)という形で、あらゆるものの根源を非人格的にとらえます。人格的か、人格的でないかというのは、人間の側のとらえ方の問題であって、存在の根源自体が人格的であったり、非人格的であったりするわけではありません。「根源」は人格的なのか非人格的なのか、という問い自体が無意味なのです。仏教的な言い方をすれば、それは人格的なものではなく、人格的でないものでもなく、人格的であると同時に人格的でないものでもない、となるでしょうか。要するに言葉や概念を超えているのです。

 私たちは、「根源」について言葉で表現し、概念をあやつって何らかの説明や記述をつくろうとします。けれども、それらのすべての行為が的外れであるということの認識をもっておく必要があると思います。

 数年前、「意識の科学に向かって( Toward a science of connsciousness )」という国際学会が東京であるというので参加してみたことがあります。哲学者、言語学者、心理学者、脳の生理学者、人工知能の研究者などさまざまな分野の研究者が集まって議論するのはなかなかの見ものでしたが、たまたま知り合っていっしょに参加していた筑波大学で大脳生理学を教えているという若い女性の研究者が、昼食を取りながらの雑談のときに面白いことを言いました。みんなの議論が、ブラックホールの周りをぐるぐる回っているようだ、というのです。「言いえて妙」というのはこういうことでしょうか。たいへん適切な批評だと思いました。

 ブラックホールというのは、光さえも飲み込んでしまうという超強力な重力をもった星で、その重力の影響範囲に入ったが最後、決して戻って来れません。ブラックホールを観察するためには、周りをぐるぐる回るほかはないのです。

 科学者たちは、「意識」というえたいの知れないものに用心しながら近づいているわけで、なかなかその中に飛び込んでいくことができずにいます。意識そのものの中に飛び込んでしまったら、「科学的」でありつづけることができなくなるからです。

 「根源」に対する考察も同じです。私たちの思考や概念や表現は、その周りをぐるぐるまわるだけです。「根源」の中に飛び込んだら、もはや言葉は通用しません。けれども、飛び込んだ人にとっては言葉は必要ありません。「根源」とは、直接知の世界であり、体験であり、「それである」ことそのものだからです。それを体験することはできますが、認識することはできません。認識するためには、それから離れなければならないからです。

そのようなきわどいところで、私たちは言葉を使っていくのだ、ということをお互いに確認しておきたいと思います。

 次回は、もう少し、ブラックホールに近づいてみることにしましょう。

107 アリス:お願いします。付いてまいります。

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アリスとチェシャ猫との対話(32)