78猫: 私の説明が不十分だったかも知れませんが、一つだけ誤解がありますので訂正してください。私が回心または悟りと呼んだ状態は、心の裏側にある扉が開いて、心の内側と外側が一つにつながった状態のことを指しています。これが、キリスト教的に言えば「人間と神が一つにつながった状態」をあらわしています。
 扉が閉じている間は、人間は自分の意識の中だけに閉じこもっており、いわば「迷い」のなかに存在していることになります。


 さて、S型とI型の違いについて続けます。
 アリスさんの質問は、S型でも外界がバーチャルだということになれば同じではないか、ということのようですので、まずこのご質問にお答えします。
 量子力学は物質がバーチャルであることを示していると私は考えていますが、量子力学を待たなくても、宗教や哲学の分野では早くから「物質世界はバーチャルである」という思想がありました。仏教もそうですし、先日お話したフィヒテ、シェリン ただこれらの人々は、外界がすべての人にとって唯一共通のものであると考えたために、「外界が意識の産物であるとしたら、誰の意識の産物なのか」ということが問題になります。その結果、彼らは「外界は神の意識の産物である」と考えざるを得ませんでした。対話46のフィヒテやシェリングの発言がそのことを示しています。
 バークレー僧正は、外界だけでなく、私たち自身もすべて神の心の中にある、と考えたようですが、その点については私もバークレー僧正と同意見です。すべての存在は神の中にあります。非キリスト教的な表現で言えば、最も根源的な意識という存在があり、その他のすべてのものはその意識の思考の産物であるといういうことになり
 ただ、この「意識の産物」には階層構造があります。神が創ったのは体験劇場の仕掛けであり、そこで上映される映画は、人間ひとりひとりが作っているのです。したがって、そこで上映される映画は一人一人違うものです。そして、このことを知っていたのは、私の知る限り、お釈迦様だけでした。仏教が「世界は意識が生み出す迷妄」であるというとき、この「意識」は神や仏の意識ではなく、私たち個人個人の意識です。したがって「外界」というのは、一見すべての人に共通であるかのように錯覚していますが、一人一人違うものなのです。
 
 次にI型モデルの第三の特徴に移ります。
 I型モデルでは、一人一人の心の中にその人だけの世界があります。したがってそこに何を見るかということについて、一人一人が100%の自由をもっており、その結果100%の責任を負うことになるということです。外界が唯一共通のものである限り、それは私たち一人一人にとっては手の届かないものになります。仮にそれが、人類だけの集合意識によって作られるものだとしても、60億の人間の集合意識が作るものに対して、一人の人間がいくらじたばたしてもどうすることもできません。
 けれども、I型モデルでは、一人一人は「自分の世界」を見ているだけです。その中に描き出される世界について、自分以外のものは誰も手が出せないのです。そこには、「神によって保証された」自由があります。その結果「責任も100%」です。
自分の世界を誰かが作りかえるのを待っていても、誰も作り変えてはくれません。神でさえも手が出せないのです。

 この続きには、人間がどうやって「自分の世界」を作っているかを説明する必要があると思います。それはこの次にします。

79 アリス:天上天下唯我独尊ですね。「自分の世界」を作る必要がどうしてあったのでしょうか?

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アリスとチェシャ猫との対話(20)