11 アリス:「物質を離れた意識の存在、あるいは物質を離れた存在の意識、ということに至らないと、本当の世界像は描けない」ということですが、物質そのものがバーチャルであるという最初のお話と矛盾しませんか?
12 猫: 物質がバーチャルであるとすれば、それを見ている意識は何者か、という問題です。意識が物質以前に存在するからこそ、物質というバーチャルなものを描き出す事ができるのです。 意識が物質である脳から生みだされると考えている限り、物質がバーチャルであるという事を受け入れることは出来ないだろう、という意味です。
13 アリス:そもそもバーチャルな物質以前に意識が存在するのでしょうか?もしあるとして、なぜ、バーチャルな物質を描くのでしょうか?
14 猫: もし物質以前に意識が存在しないとしたら、物質がバーチャルであるということはあり得ません。そして、現代の科学者達はそういう立場を取っています。これは信じるか信じないかの問題ですが、もう少し緩やかに仮説として考えておけばよいと思います。
なぜ、「意識」が物質世界を描き出したか、ということについては、「意識」に聞かなければわからないことです。あなたの質問はあなたの「真の意識」に聞いてください。
けれども、もう少し一般的な答えをすることは出来ます。作家が小説を書く事を思い浮かべてください。作家はバーチャルな世界を描き出し、そこにバーチャルな人間を登場させ、バーチャルな会話をさせ、バーチャルな恋や失恋や裏切りや殺人を起こさせます。
作家は、なぜ、そのようなことをするのでしょうか。
数年前、渡辺淳一という人の「失楽園」という小説が話題になり、映画にもなりましたが、それについて作者は「性愛の極限を描きたかった」と言っています。作家がバーチャル世界を作り出すのは、そのようなドラマを通じて生命の営みの「ある特殊な姿」を詳細に描き出したいからです。
意識が物質世界を作り出すのも同じ理由だと思います。意識は、生命の無限の表現の中のある特殊な形態を「体験」しようとして、物質世界を作り出し、その中に自ら入り込むのです。もちろん、物質世界でない舞台が必要な種類の体験をしたい意識達は、私たちが想像も出来ないような別の世界を作って、その中に入り込んでいる事でしょう。
15 アリス:意識が脳で生み出されないとしたら、意識とは何なのでしょう?
16 猫: 「意識とは何か」をあなたはどのような言葉で説明されたら、理解できるでしょうか。言葉で説明するためには用語が必要です。残念ながら、人間の言葉には、物質以前の意識を説明するための道具が揃って いないと思います。
「原始林の聖者」として有名なアルベルト・シュヴァイツァーは、本職は哲学者でしたが、こういう事を言っています。「一切の仮説を設けない合理的思考は神秘主義に到達する。」
合理的思考の極限的形態はユークリッドの幾何学原論に見られますが、そこでは定義と公理から全ての定理が証明されて行きます。けれども、最初の出発点になった公理というのは証明されないのです。合理的思考というのは、出発点がなければ始まらないし、出発点そのものは証明する事が出来ません。もし、出発点を証明しようとしたら、単にそれ以前に別の出発点を必要とすることになるだけです。この出発点を、仮説として捉えるのが科学の立場です。これを仮説ではなく、天下りに「真である」と考えるならばそれは神秘主義です。
仮説から出発すれば全てが仮説に終ります。したがって、もしあなたが真理を求めるならば、どこかで、これが真であると「感じる」ものが なければならないのです。真理は全て神秘的なものです。
17 アリス: デカルトの「われ思う故に、われあり」のようなものでしょうか?
18 猫: デカルトは「自分が考えているということは確かだから、自分は存在している。」と考え、自分が考えていることを自分の存在の証明にしたのです。なぜなら、 存在しないものが考えることはできない、とデカルトは考えたからです。
けれども私は、私の存在の証明をしようとしているわけではありません。私の言っていることをデカルトの言葉に沿って表現するなら、「『真実の我』が存在し、それ が思考したが故に、『バーチャルな我』が生じた。」となります。問題は、私たち人間が「バーチャルなわれ」を本当の自分だと思っているところにあります。
19 アリス:「デカルトの我」について余り知らずに発言して、すみません。『「真実の我」が存在し、それが思考したが故に、人間という「バーチャルなわれ」が生じたのです。』ということですが、そのバーチャルな我がさらに物質というバーチャルな世界を生みだしているのでしょうか?二重構造になっているのでしょうか質問ばかりしてなんだか申し訳ありません。
20 猫: 質問が悪いという事はありません。質問がなければ答えもありません。質問と答えは紙の裏表のようなものです。表ばかりの紙というのがないように、質問と答えで一つのものなのです。
物質世界を生み出すのは「バーチャルな我」ではありません。「真実の我」がバーチャルな世界を作り、その中に「バーチャルな我」を置いたのです。それから「真実の我」は「自分はバーチャルな我である」と思う事にしました。そうでないと、「バーチャルな我」が経験する事を本当に自分の経験として感じることが出来ないからです。
けれども、これは大変危険な遊びです。いったん「自分はバーチャルな我」だと思い込むと、「真実の我」に戻るのが大変難しくなるからです。
私が神戸にいた頃、近くのジェームス山というところに巨大迷路ができました。毎日大勢の若者達が遊びに行きました。中には6時間も迷路の中で迷って、泣きべそをかきながら係員に救助された女の子もいたと新聞に報じられていました。
人間は何故高い金を払ってまで、わざわざ迷いに行くのでしょうか。それが実は「真実の我」の好奇心と同じなのです。「真実の我」も好奇心にあふれていて、いろいろなことを経験したいと思ったのです。
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