アリスとチェシャ猫との対話(13)
62 猫: さすがシェイクスピアを原書で読むアリスさんのご指摘は鋭いですね。ヘブライ語にまで手を出すつもりはなかったのですが、こうなったら「毒皿」です。付き合いましょう。
ご推察の通り、 I amに相当する原文は1語です。ヘブライ語の文字は書けませんのでカタカナで書きますが、 "I am
who I am"の言語は エヘィェー アシェル エヘィェー(たぶんこんな発音だと思います) といいます。真中のアシェルが whoに相当する関係代名詞で、エヘィェーはハーヤという動詞の「一人称単数未来形」となっています。未来形というところに注目してください。私がこれまで調べた英語の聖書(20冊ほどあります)は、未来形で訳しているものは一つもありませんでした。さらに、ハーヤという動詞は、単に「存在する」という意味よりは、むしろ「〜になる」という意味に使われる方が普通のようです。英語でいえば to becomeとか to come to beという意味だそうです。(なお、ヘブライ語には、コプラとしてのbe動詞はないそうです。 "I am a
boy."というところは単に "I boy"といいます。)
そうすると、これを訳せば、「私はなるものになる。」「私はなりたいものになる。」というようなニュアンスになるのではないでしょうか。英語で言えば "I willbecome what I will become."あるいは "I wll be what I will be."でしょうか。
何かに似てますね。ドリス・デイか誰かの歌にありました。"Whatever will be will be."
英語の聖書には未来形に訳したものは見当たりませんでしたが、マルチン・ルターが訳したといわれるドイツ語の聖書では、はっきり未来形に訳しています。
Gott sprach zu Mose: Ich werde sein, der ich sein werde. Und sprach: Sosollst
du zu den Israeliten sagen:<Ich werde sein>, der hat mich zu euchgesandt.
たぶん、これがいちばん原語の意味に近いのではないかと思います。アリスさんのおかげで、英語の聖書だけ見ていたのではわからないことを勉強しました。
さて、だいぶ寄り道をしましたので、ご質問に戻ります。「観念があるので『自分』という個性が生まれる。」という私の言い方も、すこし粗雑だったかと思います。そこで、もう少し詳しく此処のところを説明します。
ここでは「自分」というのは myselfのことだと固定しましょう。「自分」というのは、どんな観念を持とうとも決して変わりません。アリスが大きくなっても小さくなっても、アリスの myselfは大きくも小さくもならないのと同じです。
次に、まったく観念をもっていない「自分」を想像してください。それは何の役割も与えられていない将棋の駒みたいなものです。それは歩でもなく、香車でもなく、金でも、銀でも、王将でもない駒です。たぶん、天童市の将棋の駒を作る工場に行けば、そんなものが見られるかも知れません。まだ名前の書き込まれていない白の駒です。
白紙の駒ではゲームはできません。観念をもっていない myselfは、おそらく何ものも経験することができないと思います。太陽の光は、スペクトルに分解するまでは、無色透明です。赤い色を体験するということは、他の色を捨てることです。 観念というのは、あらゆるものが存在する「完全」の中から一部を抜き出すためのフィルターの役をするのです。それによって、私たちの
myselfは、何かを具体的に体験することができるのです。
このようにして myselfは、具体的体験をはじめます。そして「外界」という映画の中で自分の代理人である Iを通して生活し、そこで出会うさまざまな経験の中からさらに多くの観念を形成して、ますますフィルターを複雑にして行きます。それによってますます複雑な体験が可能になるからです。
体験に「よい体験」とか「わるい体験」とかいうのはありません。太陽の光の中に「好きな色」や「嫌いな色」はあっても、「よい色」とか「わるい色」はないように、myselfはどんな体験で選ぶことができます。ただし、選ばなければよかったと思うような体験も数多く体験しているかもしれません。
いかがですか。こんな説明で少しはクリアになったでしょうか。
63 アリス:私の頭の中はでは、それなりに筋道がすっきりとしてまいりました。ありがとうございます。
これから奥への質問は、アリスが青虫に”why?”切り替えされて困ったような経験をするのではないかと思いますがあえて、続けることにします。
どうしてI AMで十全なはずなのに、将棋の駒のように役割をもって、ゲームをしなくてはならないのでしょか?
どんな体験も選ぶことが出来るのに、悲しいことや、つらいことが一杯詰まったゲームを選ぶのでしょうか?
〔言葉の問題〕 ほんの少し、ギリシャ語をかじった経験で、ヘブライ語も1語ではないかと思っただけですが、思わぬ発展があり、嬉しく思います。改めて手元の英語の聖書(旧約の入っているのでは1冊しか持っておりません。昔、飲み屋の女将から貰った1890年ロンドンで発行されたTheParallel Bible。オックスフォード大、ケンブリッジ大の共同出版)を見てみますと、1885年the Revised Versionの欄外註に次のように書かれていました。ヘブライ語も出てきます。ご参考までに。I AM THAT I AMの所で、Or,I AM BECAUSE I AM Or,I AM WHO I
AM Or,I WILL BE THAT I WILL BE..I AM hath sent me unto youの所で、Or,I WILL
BE Heb. Ehyerその4行下のThe Lord, the God
of your fathers, の所で、Heb. Jehovah, from he same root as Ehyer.とありました。
ドイツ語聖書ですが、<Ich werde
sein>のwerdenは生成、発展的意味合いがよく出ていますが、語感として意志的な要素はありませんね。(英語のwillと違って。)Alles, was geworden ist,muss wieder vergehen.
些細なことですが、<・・・>の括弧は原文がそうなっているのでしょうか?
ドリス・デイか誰かの歌の"Whatever
will be will be."のwillにも意志的要素はないようですね。
ケセラセラでしたね。映画の中で歌われた?