アリス、アリスに会う  267-280

267 アリス : シェイクスピアの台詞の中で有名なものの一つに、
     全世界は一つの舞台
     男も女も役者に過ぎない。
というのがあります。『お気に召すまま』の2幕7場に出てきますが、この後、「みんな出場と退場があり、一人が人生で色んな役を演じ、人の出幕には7つの時代がある。・・・」と言って、人生のステージを描いて見せます。原文も引用しておきましょう。
All the world's a stage, And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
・・・

余談ですが、この後で、いやいや学校へ行く少年の姿が描かれているので、シェイクスピアは学校嫌いだったと言われています。

さて、今、「この世」で何をしているか?この世とは何かを話し合っているのですが、259で『般若心経』のイハ(iha)=この世を取り上げたことに関連して、猫さんが調べてメールを下さったことを引用させていただきます。

「イハ、シャーリプトラ」のイハが気になるとおっしゃっていたので、少し調べてみました。実は昨年の秋に、ApteのThe student's Sanskrit English Dictionary を買いました。インドで発行されたもので、値段は安いですが、紙質と印刷が悪いので読みにくくて閉口しています。けれども、いざというときには役に立ちますね。
 
Iha については、次のような説明がありました。
  1. Here ( referring to time, place or direction) ; in this place or case.
    2. In this world ( opp. paratra or amutra ).
合成語として
  ihaamutra  in this world and the next world, here and there.
    ihalokaH    this world or life.
 
amutra の説明のなかには、" There above, in the next world, in the life to come " という言葉があります。また paratra の説明には " in another world, in a future birth " とあります。これはまさに輪廻転生の思想を背景にした言葉ですね。

輪廻転生はインド人特有のものかもしれませんが、ほとんどの宗教が、この世に対して、あの世を考えていますし、最近では、前世の記憶を持つ子供とか前世治療とか言われています。生まれて死ぬ――後は何もない、すべては物質の変化に過ぎないという、現在はびこっている考えには反するのですが、生死を越えた魂があり、それが、輪廻転生するというほうが私にはぴったりします。お釈迦さまを始め、インドの聖者たちが、この輪から抜け出すにはどうすればよいか、2500年以上まえにいろいろ考えたようで、猫さんのお考えでは、これは霊性を取り戻すと言うことになるのでしょう。
しかし、今しばらく、シェイクスピア劇の役者のように次々といろいろな役を演じ続ける私たちのレベルにとどまることにしましょう。

この世で、いい役回りをもらえない人はもちろん、いい役回りをもらっている人も、あの世ではさらに良い役が欲しいと思っています。人間に生まれてくる保障もないので、考えてみれば不安でもあります。
そもそも輪廻転生と言ったものがあるのか?これについて猫さんはどうお考えですか?

268  : 「輪廻転生があるかないか」という質問にはいろいろな答えがあります。一つだけお話しすると誤解されますので、全部をまとめてお話します。

まず、最も根本的な意味で言えば、「輪廻転生は存在しません。輪廻の世界も、現世と同じように、仮想現実であり、夢の続きに過ぎないからです。釈迦が「人間を輪廻のくびきから解放する」ための道を教えようとしたのは、このためです。釈迦は人間を夢から醒めさせようとしたのです。

けれども、「夢の中身としてあるかないか」ということであるなら、私は「ある」と思っています。ただし、これも「前世」「前々世」というように、時間の順序に並べて理解するのが唯一正しい見方かと言うと、そうではありません。そもそも時間というものが、夢の中の一つの約束事に過ぎないからです。

もう少し真実に近い見方をするなら、現世も過去世も未来世も、みんな同時に存在しています。いわば、これらはみんな「平行人生」であるといえます。私たちは同時にいくつもの人生(の夢)を体験することが出来るのです。というより、霊の世界には時間というものがありませんから、同時であるとか前後であるか言うこと自体が無意味なのです。ただ、私たちは、一つの人生の中で、その一つを「現在」だと思い、ほかの人生を「過去」や「未来」だと解釈するのです。

さらに、別のたとえをお話しすると、(霊である)私たちがいろいろな人生を体験するのは、私たちが本を読むようなものだと言えます。霊は、いわば霊語で書かれた本を読み、その中の一つの人物に感情移入して「自分はその人物そのものである」と思い込んで、その物語を深く深く体験するのです。本を読むというより、シェイクスピアの戯曲を演じる俳優のように、自分で演じるといったほうが近いかもしれません。そして、一つの本を読んでいるときに、別の本のことを思い出すと、私は「前世で○○であった」という風に感じるのです。したがって、私は、複数の人が、たとえば、「私は前世でジュリアス・シーザーであった」と言ったとしても、不思議ではないと思っています。それは、複数の人が「私はシーザーの伝記を読んだ」と言っているのと同じことなのです。

さらにもう一つ付け加えると、ひとつの霊が読んだ「本」は、ほかのすべての霊が読んだことになります。なぜならば、そもそも霊というのは一つしかないからです。霊が多数ある、と考えること自体が幻想なのです。私も、便宜的に、多数の霊がいるかのような表現を使うことがありますが、それは単に日常の私たちの意識にとって理解しやすくするための方便に過ぎません。したがって、あなたは顕在意識で思い出すことが出来なくても、宇宙のありとあらゆる存在の体験を自分の中に持っています。文字通り、あなたは、全宇宙の全存在とひとつなのです。私たちがそれをふだん思い出さないのは、単に現在読んでいる本に集中するために、その記憶を一時的に伏せているだけのことです。

269 アリス: あらゆる物語がある図書館で、私達はその一冊を読んでいるのかもしれませんし、または、無限にあるシナリオから自分が役を選び取って演じているのかもしせん。しかし、本来何を選んでも良い自由な身でありながら、哀しい本や、つらい役割を選んでしまうのは、どこか、必然性があるような気がします。これを昔の人は輪廻と呼んだのでしょう。魂のレベルの話ですが、魂の遍歴にはどこか法則性があって、まったくのランダムに選べないようになっていませんか?
輪廻といい、因果と言い、これも霊が作った遊びのルールと言ってしまえばそれまですが、そうしないと霊自身が訳がわからなくなってしまうと思うのです。

270  : <魂の遍歴にはどこか法則性があって、まったくのランダムに選べないようになっていませんか?>というアリスさんの質問は、「キャッツ劇場はなぜキャッツばかり上演するのか」という質問のようなものだと思います。

「一なる霊」の立場で言えば、すべての「本」を同時に読んでいるわけですから、何を選ぶかという法則は問題にならないと思います。けれども、その「一なる霊」の一つの側面――facet という言葉が使われます――である個別霊の立場で言えば、いわば役割分担があると考えられます。つまり、キャッツだけを上演する劇場や、ギリシャ悲劇ばかりを専門にする劇団があるというわけです。

キャッツ劇場の俳優たちは猫ばかりを演じます。ギリシャ悲劇専門の劇団の俳優たちは悲劇ばかりを演じます。なぜ、と言われても、そういう役割だから、としか言えません。もし、ある俳優が猫の芝居や悲劇ばかり演じるのは嫌だと思ったとすれば、別の劇団に鞍替えすればいいわけです。

私は、現在地球に住んでいる霊たちは、「霊性を忘れた霊」を演じるために地球に来ていると考えています。霊性を忘れた霊が如何にして霊性をとりもどすか、という長い長い物語を演じているのです。地球にいる魂たちの遍歴に一種の偏りがあるのは、そのためだと思います。

当然、途中でやめていく霊もあれば、逆に途中から参加する霊もあります。個別の俳優(霊)の出入りとは別に、物語自体の流れもあります。そして、私は、この「地球物語」にフィナーレの時期が近づいていると考えています。私のホームページも、そのフィナーレを構成するアイテムの一つなのです。
271 アリス: 268、270の猫さんのお話には大変過激なものがあるように思いますが、前の対話でも同じような話が出ております(「自分を探すアリス」の275あたりから)。 しかし、私自身あまり進歩せず、相変わらず同じ疑問を抱いていますので、改めてお伺いさせていただくことにします。

@<私は、現在地球に住んでいる霊たちは、「霊性を忘れた霊」を演じるために地球に来ていると考えています。霊性を忘れた霊が如何にして霊性をとりもどすか、という長い長い物語を演じているのです。>とありますが、随分変わった物語を演じているのですね。良寛さんがお金をわざと失くして、大騒ぎして探すというエピソードがありますが、猫さんのこれまでの事例ですと、巨大迷路やお化け屋敷に入ることが挙げられます。しかし、霊が遊ぶにはこんな遊びしかないような気もします。

A<私は、この「地球物語」にフィナーレの時期が近づいていると考えています。>これも前の対話にも出ましたが、何故そのように思われるのでしょうか?前の対話では、そのような予感がすると言われただけで、理由を言っておられません。それは今も変りがありませんか?
イエスが「天国は近づけり」と言われて2000年経ちました。
沢山の物語の中で、@Aの物語が他の物語と異なって、真実だといえるのでしょうか?

272  : <沢山の物語の中で、@Aの物語が他の物語と異なって、真実だといえるのでしょうか?>というご質問ですが、これに答えるには、まず真実とは何かということを少し掘り下げてみる必要があると思います。

アリスさんは、真実というものは、誰に対しても共通に、客観的に存在するもので、一つの物語が真実ならほかの物語はすべて嘘になると考えておられるでしょうね。それが私たちの世界の常識です。けれども、私はそうは考えていません。真実というのは、一人一人皆違うのです。

以前にもお話したと思いますが、死後の世界はないと固く信じて死んだ魂は、死後眠り込んでしまって眼が覚めない、という話があります。この人を含めて10人の人が一緒に死んだとして、ほかの9人がみんな死後の世界に目覚めたとしても、この人は目覚めないわけです。この時、この人にとっての真実とは何でしょうか。「死後の世界はある」というのが真実でしょうか。それとも「ない」というのが、この人の真実でしょうか。

私たちはすべて「自分の意識を体験する」存在です。すべての人に共通する真実というのは、これ以外にはないと私は考えています。

@Aの物語が真実かどうかという質問は、私たちが実際にそれを体験するのかどうか、という意味だと思いますが、私たちが自分の意識を体験する存在であるなら、それが真実であると信じる人は体験するし、信じない人は体験しないことになります。したがって@Aの物語は、私にとっては真実ですが、アリスさんにとって真実であるかないかは、アリスさんが決めることだと思います。

私が「地球物語のフィナーレが近い」と感じるのは、たぶん私が私の幻想の世界を終わらせようと考えているということだと思います。

次に時間の問題を取り上げます。イエスが「天国は近づいた」とか「世の終わりが近い」と語ったとき、そばにいた弟子たちは、今すぐにも「世の終わり」が来ると考えていたようです。けれども、ご承知のとおり、それから2000年が既に過ぎています。いま、私はフィナーレが近いといっていますが、それはこれからさらに1000年後のことかも知れません。

なぜそういうことになるかというと、時間そのものが幻想だからです。アリスさんが子どもだった頃、お母さんが「さあ、朝ですよ」と起こしに来たとき、お母さんが声をかけてから眼を覚ますまでのわずかな時間の間に、何年分もの物語の夢を見ていたというような経験はありませんか?

イエスが地上に降りてきたとき、あるいは釈迦が地上で教えを説いたとき、それは人類に対する「眼を覚ましなさい」という呼びかけだったのだと思います。そして、最近になって私のような考え方をする人が増えていますが、それは人類の眠りが少し浅くなって「起きようかな」という気持ちになり始めるまでに、2000年の夢を見たということだと私は考えています。地上の時間というのは、長くても短くても、幻想であり、存在しない時間です。ですから逆に、いつ何が起こっても、あるいは起こらなくても不思議ではないのです。起こるべきことをいつ起こらせるかというのも、それを真実とする人自身が決めることだと私は思います。

ところで、良寛さんのパフォーマンスのことですが、良寛さんはなぜこんな馬鹿げた騒ぎを起こしたのだと思われますか? 私は、良寛さんは、いまの私たちの姿を演じて見せたのだと思います。つまり私たち人間は、霊性――良寛さんの言葉で言えば仏性でしょうね――を隠して、それがないないと言って大騒ぎしているのだ、ということを演じて見せたのだと思います。

273 アリス:猫さんのお話よく分かると共に、境涯の差を感じました。山登りでも、登り始めの人、遭難しかけている人、頂上に近いと感じる人、頂上に立つ人、降ってくる人、登り終わってくつろいでいる人と人それぞれに思いが違いますが、その人の心の持ち方、境涯に差があるのだと思います。
もうそろそろ夜明けだと実感される猫さんには、そう思う心の状態があるのでしょうし、そうなればまた、夜明けの予兆が感じられるようになるのだと思います。
その高みにまで上がらないと分からないことですね。

私などは夢の中でさらに夢を見ているようなものですが、不思議に思うのは、喜怒哀楽、醜美に対する感覚、感情は、夢の中も、覚めた状態でも変わらないように思うのですが、猫さんの「覚めた」状態では、このような感覚、感情はどうなるのでしょうか?

274  : 私も「覚めた」状態で、感覚や感情がどのようになるのか知りません。あるいは「忘れた」と言ったほうがいいのでしょうか。人間は誰でも、この物質世界に来る前に、その世界を知っていたはずだからです。

けれども、ある程度想像することは出来ます。私は、「覚めた」状態では、感覚も感情も現在の私たちよりももっと多様で繊細で精妙なものになるだろうと思います。ときどき霊界通信などで死後の世界の情景を伝えてくるとき、「これは地上にはない色だ」というような言葉を伝えてくることがあります。地球の上でさえ、昆虫は紫外線を見ることができるので、人間とは違う景色を見ているはずだというようなことが言われます。そういわれても、紫外線が「何色」に見えるのか、想像できませんね。私は、死後の世界と「覚めた」状態とは異なると考えていますが、このような別世界に存在する色、香り、味あるいは音楽のようなものは、地上の言葉に翻訳することは不可能だろうと思います。

ただし、喜怒哀楽あるいは美醜というような分類については、少し考える余地があるように思います。それは、このような分類に善悪、快苦といった二元的価値観が付随している点です。アリスさんは絵を描かれますが、明るい色から暗い色までいろいろな絵の具があっても、それをよい色とか悪い色というような二元的価値で分類されることはないのではないでしょうか。たぶん「覚めた」世界にもさまざまな感覚や感情があると思いますが、それに向き合う私たちの姿勢のほうが「夢の中」と違うのだろうと思っています。

275 アリス:私の疑問は凄く単純で、例えば、猫さんのHPに
タイスの瞑想曲がありますね。
http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/MusicSalon01.html
これを聞いているのは、夢の中なのか覚めている私なのか?という疑問なのです。

276  : 私はアリスさんの疑問がよく理解できません。アリスさんが夢を見ているとき、その夢の中にもアリスさんがいて何かを考えたり感じたりしているとします。夢の中のアリスさんと夢を見ているアリスさんは別の存在でしょうか。

277 アリス:私がここで問題にしていますのは、二元的価値観や相対的な好悪の感情ではなく、「喜」なら「喜」、タイツの瞑想曲なら、「懐かしく、憂いを含み、また、安らぎのある」あの感じそのものを指しています。これらの感じは霊性を取り戻す旅の中でどう位置づけられるのか、覚めてしまえば消えて分からなくなるものなのか、ということです。
254で猫さんが『千と千尋の神隠し』を見られて<私が見終わって最初に感じたのは、私たちが地球世界の幻想から醒めたときには、異界から戻ってきた千尋と同じような気持ちになるだろうな、ということでした。>言っておられますが、「この世」の、哀しかったり、嬉しかったり・・・・また、美しいな!といった感情は、猫さんによると<たぶん「覚めた」世界にもさまざまな感覚や感情があると思いますが、それに向き合う私たちの姿勢のほうが「夢の中」と違うのだろうと思っています。>に対しては、そうだろうな、ほんとかな?と決まらない状態だったので、275のような疑問となったのです。
でも、今はこんな疑問はどうでも良くなりました。つまり
<夢の中のアリスさんと夢を見ているアリスさんは別の存在で>はないからです。

278  : 話が一段落したようなので、このあたりで少し話題を変えて、男性性と女性性の話をしましょう。千尋の話にまた関係してくるかもしれませんが・・・。

はじめに私の夢の話をします。40代から50代にかけて、私はよく不思議な意味ありげな夢を見ました。ただし、意味ありげと思うだけで、意味がわかった夢はそれほど多くはありません。その中で特に印象に残っているのが、次の「双子の女の夢」です。

私は美術館の廊下のようなところを歩いているのだが、壁の上のほうに四角い枠があり、そこから見知らぬ女の顔が二つ、私のほうを見下ろしていた。二人は非常によく似ていたので、私は双子だと思った。枠は天窓のようにも額縁のようにも見えた。女の顔は二人ともひどく悲しそうに見えた。私は「どうしてそんなに悲しそうにしているの。もっと、にっこり笑おうよ」と言った。一人の女が「だったら、私たちのために祈ってください」と言った。私は名前を聞こうと思って言った。「いいよ、誰のために祈ったらいいの?」――答えはなかった。夢は突然に終わった。しかし、終わる寸前に、女の顔が消え、そのあとに鮮やかな星空が覗いて見えた。オリオン座が凍りつくような輝きを放っていた。

眼が覚めてからも、私の胸の中には、四角く切り取られた鮮やかな星空の映像が焼きついていました。私は「この夢はいったい何を意味しているのだろう」と考えましたが、まったく理解できませんでした。

それから数年後、何気なく手に取った、夢の中に現れるシンボルについて書いた本を読んでいたときに、「星空は真理を表す」という言葉を見つけました。そのとき突然この夢の意味がわかったのです。鍵は「双子の女」でした。私はこの女同士が双子だと思っていたのですが、そうではなく、これは「私と双子の女」を意味していたのです。つまり、これは私のアニマの象徴であったのです。そして女の名前を聞いたときに星空が現れたのは、女の名は「真理」ということを意味しています。私はこれを「あなたが真理に到達するためには、あなたの中の男性性と女性性を統合しなければならない」というメッセージだと理解しました。

ここでいったん切ります。次回は男性性と女性性の統合ということについてお話しましょう。

279 アリス:面白い話ですね。「私と双子の女」とありますが、私=男性性、双子の女=女性性(アニマ)ということですか?お話しをお続けください。(ちなみに私は「真理」という名の女性を3人知っています)

280  : そうです。「私と双子」の女というのは、私のアニマ、私の中の女性性という意味です。

――こう書いたらアリスさんから「私」と「双子の女」ではないのか、というクレームがつきましたので、説明します。確かに、夢に現れたのは、「双子の女」であって、私もその女同士が双子だと思っていたのですが、そう思っている間は、夢の意味がわかりませんでした。実は意味の上では、双子の関係というのは、女同士の間にあるのではなく、私と女の間にあるのです。このようなことは夢のシンボルにはよくあることなのですが、「双子の女」というシンボルが「私と双子の関係にある女」を意味しているのです。このことを理解していただいたら、書き方はどうでもいいのですが、女が二人いる必要はないので、ここでは意味が間違いなく伝わるように、「私と双子の関係にある女」としたいと思います。――

人間は男でも女でも、男性性、女性性の両方を持っています。ただ、肉体がその片方だけを顕在化させているせいかどうか知りませんが、私たちは通常その一方だけを強く意識しています。そして、単にもう一方を無視したり忘れたりしているだけでなく、人によっては、両者が「喧嘩」をしていることがあります。それは、もちろん、眼には見えないわけですが、それはその人の性格にいろいろな影響を与えます。そして、私たちが霊性を取り戻すためには、この二つを統合しなければならないといわれています。私の夢はそのことを催促するものであったわけです。

「千と千尋の神隠し」で、千とハクが互いに相手の本名を思い出させる役割を果たしていますが、これは、監督が意識していたかどうかは別にして、まさに男性性と女性性の統合によって、私たちが本名(霊性)を思い出す、ということを象徴していると思います。そういう意味で、異界における千とハクは、千尋の中の女性性と男性性を表していると思っています。

281 アリス:ちょっと長くなりますので頁を変えます。
08・・3・25
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