アリス、アリスに会う  254−266

254  : 「千と千尋の神隠し」は、2001年の作品ですから、もうかなり古いですね。ベルリン映画祭の最高賞やアカデミー賞を受賞したことは知っていましたが、最近映画館に足を運ぶことがほとんどなくなったので、見る機会がありませんでした。昨年ふとしたことでレンタルショップからほかの映画のDVDを借りたのをきっかけに、今後こういう見落とした作品をDVDで見ていこうと思っています。

この映画が何を意味しているかということについては、いろいろな議論があるようですね。宮崎監督自身がこう言ったとか言わなかったとかいう情報もネットの上にたくさんありますが、私が見終わって最初に感じたのは、私たちが地球世界の幻想から醒めたときには、異界から戻ってきた千尋と同じような気持ちになるだろうな、ということでした。

これはキャッツを見たときに感じたものや、モモを読み終わったときに感じたものと同じです。「あの仮想世界が何処かに本当にあるのではないだろうか」という感覚です。私たちも地球世界の幻想から醒めたときには、「あの地球という世界はどこかに本当にあるに違いない」と思い、その世界がどれほど異様な世界であったとしても、そこで出会ったさまざまな人や出来事を懐かしく思うのではないかと思います。


255 アリス<私が見終わって最初に感じたのは、私たちが地球世界の幻想から醒めたときには、異界から戻ってきた千尋と同じような気持ちになるだろうな、ということでした。>これは猫さんらしい感想ですね。それだけ深くご覧になったのでしょう。同じような感じは、「キャッツ」や『モモ』以外にも沢山ありますね。こんな感じを与えるのが名作の条件かも知れません。また、この物語は、あるきっかけで、異界に入り、冒険の末、帰還するという、神話、昔話から児童文学、もちろん大人の小説まで太い流れとなっている普遍的なプロットです。
私は5年前見ました。その時『「千と千尋の神隠し」とアリス』という文章を
http://www.alice-it.com/wonderouser%20land/top.htmlに書いていますが、猫さんとお話しながら思い出していきたいと思います。
いくつかの強烈なイメージが浮かぶのですが、まず思い出すのは、湯屋に来る「河の神様」です。それから大空を飛び回る龍=ハクのイメージです。
猫さんはどんなキャラクターが目に留まりましたか?

256  : ハクの白い龍はよくできていました。総じて西洋の龍より東洋の龍のほうが迫力がありますね。一種の神々しさを持っています。これは、西洋の龍がおおむねサタンの仲間なのに対して、東洋の龍は神の一族だからでしょうか。

ですが、私はあまり特定のキャラクターに強い印象は持ちませんでした。むしろ、いろいろなキャラクターが物語の中で果たしている役割とか、それは何を意味しているのだろう、というほうに関心があります。例えば、なぜ、湯婆婆は双子でなければならないのか、というようなことです。

そういう意味ではカオナシという不思議なキャラクターがおもしろいと思います。顔がなくていつも無表情な仮面をかぶっていて、ついでに声もない。カエルを飲み込むと、そのカエルの声を借りて喋るのですね。そして、ブラックホールのように何でも手当たり次第に飲み込むかと思うと、一転、おとなしくなって、しおしおと千のあとについてゆく・・・。その変身の幅がずいぶん大きいですね。宮崎監督はどういうつもりでこんな化け物を描いたたのかな、と思います。

257 アリス カオナシは重要なキャラクターですね。他の神様と違い、庭の方から油屋に入り込み、黄金を撒き散らし、猛烈な勢いで食べまくり、後半の千尋が銭婆の所へ行くときはおとなしく影のように寄り添っています。私はこれは千尋の影ではないかと思います。千尋に寄り添わないと存在が成り立ちませんが、この世にはこの影のような、中身が無いが、貪欲な衝動に生きている人も多いです。テレビに登場する人たちにはこんな人が多いと思います。作品の一つ一つのキャラクターはそれなりの強烈な個性を持っていますが、それが完結したものではなく、宮崎駿(または私たち)の分身の、しかもそれだけでは完結し得ないようなものではないかと思います。この作品の面白いのは、協力関係が有ると言うことです。キャロルの「アリスの物語」の方はこの協同関係を断ち切っています。湯婆婆と銭婆はもともと同じ人物で、片方が悪役になると他方は善人になるとか補完しあっているのだと思います。だから、子供の「坊」が二人の区別がつかない。
私が今、何か良いことをしていると、私の分身がどこかで悪いことをしているはずです。
<その世界がどれほど異様な世界であったとしても、そこで出会ったさまざまな人や出来事を懐かしく思うのではないかと思います。>
これは私たちの分身だからではないでしょうか?宮崎駿にもっと凄い悪を描いて欲しい気がします。(子供向きに無理かも知れませんね)

258  : カオナシが千尋のシャドウだという見方はおもしろいですね。私もこの異界は千尋の潜在意識の世界を表していると思っています。そして同時にそれは「この世」のシンボリックな表現にもなっています。なぜなら、「この世」がそもそも私たちの潜在意識のシンボリックな表現だからです。

私は最近ほとんど夢を見ませんが(見ても覚えていない?)、20年ほど前には毎晩のように意味ありげな夢を見ていました。夢の中に登場するキャラクターはすべて自分の意識のさまざまな側面を表しているといわれますが、私はその中に一つのパターンがあるのに気づきました。それは私の母と姉、弟と息子が合体したようなキャラクターが現れることです。

現実の私には、姉が一人、妹が一人、弟が二人、それに妻と息子と娘が一人ずついます。夢の中では、母と姉、妹と娘、下の弟と息子がそれぞれ合体したキャラクターが現れます。私はこれを、私より上位の女性性、下位の女性性、そして下位の男性性と解釈しました。上位の男性性は兄がいませんので、父に相当するくらいの老人が一人で現れます。妻はつねに一人で現れます。これは私のアニマであると思われます。おもしろいのは、私のすぐ下の弟です。夢の中で私はこの弟と絶えず喧嘩をしていました。けれども、現実の世界では、私はこの弟と特別仲が悪かったわけではありません。これは私のシャドウだったのでしょう。

そのような眼で見ると、ハクは千尋のアニムス、湯婆婆と銭婆は太母(グレートマザー)でしょう。ご承知のように、グレートマザーは慈しみ育てる母性と、暴力的で、あらゆるものを支配しようとする悪魔的な面の両方を持っています。映画はそれを双子の姉妹として分けて見せているのだと思います。

259 アリス<「この世」がそもそも私たちの潜在意識のシンボリックな表現だからです。>の「この世」で、すぐ思うのは、猫さんとご一緒に読んだ『般若心経』のイハ(iha)です。サンスクリットを仮名書きしますと 「 イハ シャーリプットゥラ ルーパン  シュンニヤター  シュニヤータイワ ルーパン ・・・」(この世において 舎利子よ 色とは 空性であり 空性は まさに 色である・・・)(涌井和訳)です。漢訳のお経では「この世」は訳していません。(我々なじみの玄奘訳はこの箇所全体を訳出していません。)中国人には「この世」という概念は余り意味がなかったのかもしれません。「千と千尋の神隠し」では、トンネルがあり、橋があり、また、鉄道で移動するとか、潜在意識に奥行きがあるようです。

「この世」−潜在意識ー夢と来て、ユングのアニムス、アニマ、グレートマザーが登場するわけですね。ユンクの自伝は大半が夢の記述に費やされていますが、猫さんも夢の記録を残されると面白いかも知れません。ユングの凄い所は、この潜在意識の基底に「集合的無意識」を見出したことですが、彼はシンクロニシティーとか神秘の扉を開けようとしながら、、西洋的理性(自然科学的アカデミズム?)に踏み止まろうとしたために、猫さんのような転換は出来ませんでした。
意識の奥にあるものを取り出して、表現するというのは我々の営為そのものですが、小説、映画、演劇・・・芸術はその雛形を示すためにあるのだと思います。
その雛形が深いところから掬い上げられたものであるとき、私達は感動したり、懐かしく思ったりするのでしょう。

260  : 夢の記録は、30代後半から50代前半まで約20年ぐらいつけていましたが、ほとんどの夢は解読不能でした。夢の話はまた戻って来るかもしれませんが、もう少し千尋の異界の話を続けましょう。

この異界には、ハクと千尋のほかにも、自分の名を忘れたために元の世界に戻れなくなった人たちが、大勢いたようですね。豚小屋にたくさんいた豚もそうではないかと思っていますが、アリスさんはこれをどうご覧になりましたか。

私は、人間が、自分が霊であったことを忘れたために霊に戻れなくなっているのにそっくりだと思いながら見ていました。

261 アリス豚と言えば、最初の所で、千尋のお父さんとお母さんとが中華料理の店でガツガツと食べているうちに豚になってしまうシーンが印象に残っています。体育会系の能天気なお父さん、それに従うお母さん、高度成長期の日本でよく見られたタイプですね。ここは、油屋の前の橋を渡る前の所です。豚小屋も橋の手前にあります。霊を忘れるといっても、ここは大変初歩的な段階で、ここで霊を忘れる(つまり豚になる)と自力では元に戻るのが困難だと思います。自力で戻れるのは橋を渡って、油屋へいかなければなりません。そして色んな体験をする必要があると思うのです。猫さんはこの橋をどう見られますか?

262  : 私はこの橋のことはあまり気にしていませんでした。確かに、油屋に入る手前の、皇居で言えば二重橋に当たるような場所ですが、この下を走っているのは川ではなくて電車ですね。異界に入る本当の境界線はもっと手前の小川でした。昼間は小さな小川で、千尋はそこを飛び石伝いに足をぬらさずにわたることが出来たのですが、日が暮れると対岸まで1キロもありそうな大河になり、湯治にくる大勢の神様を乗せた大きな屋形船がその水面をゆったりと渡ってきます。「行きはよいよい、帰りはこわい」を地で行くような設定です。

私はこの物語を、私たち人間(という霊)が地球という物質世界に入り込んだ物語に重ねてみていますが、そういう観点から見るといろいろおもしろい類似が見られます。

まず、この世界に入ってくる人(霊)に二種類あります。一つは、千尋のお父さんやお母さんが表しているタイプで、異界(物質世界)に遊びに行く人たちです。入ってくるなり欲望のとりこになって、豚になって(自分の霊性を忘れて)しまいます。こういう人たちにとっては、この世界は、境界線の小川に象徴されるように、入りやすく、そして出にくいところなのです。出る必要すらも感じなくなっているでしょう。

千尋は別のタイプです。千尋がさらに奥に入っていくのは遊ぶためではなく、お父さんとお母さんを救うためです。千尋は名前を忘れたのではありません。湯婆婆に奪われたのです。それはこの世界にはいってきたものが、いったんは名前を失うところから始めなければならないことを示しています。

実は地球世界のルールもそうです。霊性を忘れて物質になりきってしまった人間を救うためには、自分も人間にならなければなりません。それが宇宙の法則です。SFなどでは、宇宙人が救いに来てくれたりすることもありますが、本当の宇宙は、完全な自己責任です。人類を救うのは人類以外にはありません。そのため、本当に人間を救う活動をしたい霊は地球に生まれなければなりません。その結果、自分が霊であることを忘れます。そして、まず自分の霊性を思い出すことが、最初に越えなければならないハードルなのです。さだめし、キリストなどは、すぐに名前を思い出した人なのでしょうね。

263 アリス:見て大分経つので、忘れていましたが、手前に渡し場があったのですね。橋は油屋の直前ですね、このアニメはトンネル ー 渡し場 ー 橋といくつかの関門があり、油屋への就職という又関門があり、そこで湯婆婆に名前を奪われる。この世の遊びを面白くするために、色んな段階のハードルが設けられているのだと思います。千尋が両親救済のために、油屋に入ったのか、もう一度作品で確かめたいと思っていますが、話を手前に戻して、千尋はそもそもトンネルに入るのをとても躊躇していますね。異界への入り方は、物語により様々あるようですが、この作品のは入り方はどう思われますか?この世に生まれたくて生まれたのではないと思っている人には、納得の入り方だと思うのですが・・・・

264  : 「生まれたくて生まれたのではない」と思っている人がたくさんあることは知っていますが、私はそれは、単にエゴの意識が「自分で望んで生まれてきた」ことを忘れているだけのことだと思っています。あるいは、この世をおもしろくするために、わざと忘れたのかもしれません。

私は、人間には少なくとも三つのレベルの異なる意識があると思っています。レベルが異なるという意味は、下のレベルの意識には上位の意識のことはわからないが、上位の意識は下位の意識のことを知っているという意味です。

いちばん下のレベルの意識は、肉体が自分であると思っており、死ねばすべてが終わりだと考えています。私は、この意識のことを「エゴ」と呼んでいます。もう一つ上の意識は、肉体が死んでも自分が死ぬわけではないということを理解しています。このレベルの意識を「魂」と呼ぶことにしましょう。魂は永遠に生き続け、一つの人生を終わると、「あの世」でしばらくのときを過ごしたあと、また別の人生に生まれてきます。いわゆる輪廻転生をする主人公が魂です。

けれども、意識のレベルはこれで終わりではありません。もう一段上の意識があります。これを「霊」と呼ぶことにします。霊は、輪廻転生のすべてが一つの仮想的な「物語」、あるいは「ドラマ」、あるいは「夢」、であることを知っています。何千年もかけて星から星へ渡り歩いた魂の物語も、醒めてみれば一場の夢に過ぎないのです。

これは、「夢」を見るのが悪いと言っているわけではありません。けれども、私たちが、なぜこの世にはこんなに悪がはびこっているのか、という疑問を持つのであれば、それは、自分でそのようなドラマを自作自演して、それを自分で鑑賞して楽しんでいるだけである、ということを知るべきだといっているのです。私たちは、お化け屋敷のスタッフになって幽霊を演出しているうちに、自分が怖くなってしまった人のようなものです、。

さて、千尋の話に戻りましょう。私はこの物語全体が千尋の夢だと考えています。おそらく、お父さんが道を間違えて森の中に入っていったあたりから、すでに夢の中だと思います。その夢の中で、千尋はトンネルをくぐるのを怖がっています。それは、千尋が自分の潜在意識の中を覗き込むのを恐れているのだと思います。

「霊的存在が地球世界に入りこむ状況を表現している」という私の解釈の場合には、特に霊が「使命を帯びて」やってくる場合には、いやいやながら来ることはないのですが――霊はつねに自主的に志願した文字通りのボランティア(志願兵)なのです――来て見ると想像以上に怖ろしい地球の状況に恐れをなして、「着陸」するのをためらう霊がいるという話があります。地球の状況が怖ろしいという意味は、エネルギーレベルが低いとか、波動の周波数が低いとか、いろいろ比喩的に表現されますが、要するに「霊性を忘れさせる力」が非常に強いという意味です。名前を奪われるのを恐れるわけですね。千尋の恐れは、そんなところに対比されるかもしれません。

265 アリス:「生まれたくて生まれたのではない」のは、<それは、単にエゴの意識が「自分で望んで生まれてきた」ことを忘れているだけ>というのは面白いですね。忘却、責任転嫁、言い訳、後悔はエゴの自衛本能です。最近は国会答弁でも良く見られますが・・・
話をさらに手前に戻し、物語のはじめ、千尋は、転居に伴って、親しかった友達とも別れ、ふてくされた顔をして車に乗っていますが、これは一つの世界との決別です。そして、森 − トンネル ・・・と這入って行き、又戻る。そして、今度は新しい家、学校での生活が始まるのですが、この間、千尋は何かを得ているのでしょうか?よく我々がこの世に来たのは学ぶためだと言う人がいますが・・・

266  : <この間、千尋は何かを得ているのでしょうか> そうだと思います。どんなことであれ、経験したことは無駄にはならないと思います。

人間がこの世に生まれてくるのは、スポーツの選手が試合に出るようなものだと思います。一つの試合をしている最中に以前の試合を思い出す人はほとんどいないでしょう。目の前の試合に集中しなければならないからです。けれども、その選手の現在の能力は、それ以前に体験したすべての試合の経験の集積です。勝った試合であれ、負けた試合であれ、自分の納得のいく試合であれ、納得のいかない試合であれ、無駄なものは何一つないと思います。

それと同じように、今世における私たち一人一人の能力は、それぞれの人の過去世の経験の全部の集積です。私たちは、何度も人生を繰り返しながら、長い長い学びのプロセスをたどっているのです。

ただし、「霊」の立場からすれば、学ばなければならないものは何もありません。なぜなら霊は本来完全であり、全知全能だからです。それなのに、なぜ、「学び」というプロセスがあるのでしょうか。私は「学び」というよりも「表現」あるいは「演戯」であると考えています。私たちの人生は――それが一回の人生であろうと、何度も転生する長い人生であろうと――一種の芸術作品なのです。「学ぶ」とは何か、「成長する」とは何かを演じて見せているのです。霊性を失ったものがふたたび霊性を取り戻すまでのプロセスをさまざまに演じて見せるのが地球人の使命であると、私は考えています。私たちは、霊的宇宙のシェイクスピア劇場のようなものです。

08・・3・1
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