アリス、アリスに会う  243−253

243 アリスありがとうございました。 E4. 少女とチョコレート を読ませていただきました。チョコレートならずももっと大きな福を得る方法を示されていると思います。そして、望みが思いもかけないときに(忘れた頃に)成就するというのも面白いことだと思います。もう議論をするより、実際にやって見て、その成果を味わうことが重要だと思っています。

少し振り返って、私の心に去来したことを書いておきます。猫さんが禍福あざなえる縄の如しとか、しかも螺旋状に進化するというお話をされた時本当に驚きました。
私は、禍福とは、先に示されたOS、それは猫さんのN1、N2でも私のAからHでもいいのですが、それを前提とする限り、不可避的に生じるもので、このOSをなくさない限るその解決は無いと思っていました。つまりそのようなOSを持つと、それに都合の良いこと(福)と都合の悪いこと(禍)が発生し、禍福はを逃れる方法は、OSの消滅しかない。OSの消滅の方法の一つは、起きることを100パーセント認容する以外に無いと思っていました。良寛さんの言葉を引用したのもそのためです。
「ありがとうございます」や「ごめんなさい。許してください。愛しています。ありがとう」を唱えるのもその具体的方法だと理解していました。
私のOSでは、必ず、禍福あざなえる縄の如くなるはずですが、OSをそのままにして、これから逃れて、出来るだけ福の方へと行ければこんなありがたいことはありません。
一口にいえば「現世利益」ですね。子供の登校拒否が直り、夫の浮気が止まり、認知症の親の世話から逃れ、無病息災、家内安全、商売繁盛ですが、猫さんの「少女とチョコレート法」によっても達成されるのでしょう。

前にも猫さんがサッカーの例で説明しておられましたが、私達はルール(たとえば手お使わない)がないと遊べないのですね。物理法則のある世界に肉体を持ったキャラクターとして、今遊んでいるのですが、そのゲームのやり方のコツとして、<自分の望みの状態が実現したときの喜びを先取りして味わう>をあげられたわけです。
いろいろとありがとうございました。
これで
@この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである。意識を変えればよい。
の話題はひとまず終わり、
Aこの世で体験することは幻想であるが、その幻想から覚めればよい。これが苦を免れる方法である。
に話題を移したいと思いますがいかがでしょうか?
このAは「この世で体験することは幻想である」という命題がパラドックスであるという議論から派生したものです。

244  : Aのほうに話題をすすめるのに異存はありません。

アリスさんはパラドックスが気になっておられるようですので、まずパラドックスの議論からはじめましょう。

アリスさんは219で<私は最近思うのですが、「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」は一種のパラドックスではないかと。つまり、「クレータ人は嘘つきだとクレータ人が言った」のようなギリシャ時代からあるパラドックス、自己矛盾を持つ言葉ではないかと思うのです。この論を延長しますと、猫さんも猫さんのご発言も私が受け止める限り、幻想となり、その意味さえ失いかねません。>と言われました。

アリスさんは、夢の中で「これは夢だ」と気づいていた経験はありませんか。

私は自分が夢の中にいて「これは夢だ」と叫んでいる夢を見たことがあります。幻想の中で「これは幻想だ」と叫ぶのはこれと同じだと思いますが、これはパラドックスでしょうか。またパラドックスだとしたら何が具合が悪いのでしょうか?

245 アリス: 夢の中でこれは夢なんだと自分に言い聞かせている夢を見たことは何度かあります。夢の中でなんと言おうとそれはパラドックスではありません。また、「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」パラドックスだとしても私は不都合ではありませんが、ただ、言いたかったのは、この命題は真偽を論証することが不可能な命題だと言うことです。このことを証明したのがゲーデルの不完全性定理だそうです。ですから、この命題は信じるか信じないかというレベルの話になることをあらかじめ知っておかないと無用な論議の渦にまきこまれます。しかし、猫さんは、賢明にも「すべて」(これをいれると全称命題になります)を外されて、幻想から覚めることもあるとされたのだと思います。
パラドックスを論ずるには、論理学、数学のレベルでやらないと無理だと思いますので、放置いただいて結構です。そして、また、論理学も数学もルールを決めてやるゲームと同じですから・・・

246  : <ただ、言いたかったのは、この命題は真偽を論証することが不可能な命題だと言うことです。> そのとおりですね。そして、私はこの命題を証明しようというつもりはないし、信じなさいと押し付けるつもりもありません。

実は私が「魂のインターネット」という本を出したとき、先輩のひとりから「君の主張を証明することはできないのか」という注文を貰ったことがあります。私は「夢の中で、それが夢である証拠を探しても無駄です」と言いました。夢の中で証拠を探さなくても、夢から醒めれば夢であったことはわかるのです。

アリスさんもこの命題の真偽を論じようというおつもりはないようなので、パラドックスであろうとなかろうとどうでもいいことですね。この問題はこれで終わりにしましょう。

そこで、Aの本題に戻るわけですが、どういう風に話を進めますか。夢から醒める方法でしょうか? それは「自分を探すアリス」でもやりましたね。そのときの結論は「醒めよう」という意志を持つことでした(対話254−256)。

247 アリス:いい夢を見ているときは何時までも見続けたいのですが、覚めたいと思うのは悪夢を見ている時ですね。「痛み」の問題は先の対話でもやっていますし、その時、夢からの覚め方についての猫さんのお考えをお聞きしています。
ここで、夢から覚める方法の極端な例ととして「自殺」を考える人がいます。ちょっと危険なテーマなのですが、これについて何かお考えをお持ちですか?
私自身はこれまで「自殺」を考えたことはありませんが、夢を考えるいい材料となると思いますので、取り上げたわけです。

248  : 死ねば夢から醒めると思うのは、まったくの誤解です。もし、死ねば夢から醒めるというのであれば、釈迦が苦労して悟りを開き、それを人々に教える必要もなかったのです。なぜなら、遅かれ早かれ、人はみな死ぬのですから、しばらく迷いの人生を送ったところで何ということもないはずです。

本当は、死後の世界も、そこからまたどこかに転生するというのも、すべて一つの夢の続きなのです。このことを取り上げた短い物語を、A13 漫画家の物語に書いていますので、読んでみてください。

夢から醒めるというのは、死とはまったく別の次元の事柄です。

249 アリス :漫画家のお話は大変分かりやすく、夢は自分が描いているということが良く分かります。自殺の中で、有名な作家、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成がすぐ頭に浮かぶのですが、これらの人たちは、猫さんの書かれた漫画家のように、様々な人間をつむぎだし、殺した人で、自分の終焉をそれらしく創作したともいえますので、それはそれでよいのかもしれません。本当に悪夢から覚めたくて自殺する人は、事業に失敗して借金取りに追われている人、貧困と病苦にのたうちまわっている人のような人、愛するものを失い生きる意味を失った人などだと思うのです。このような人に悪夢から覚める方法はあるのでしょうか?

250  : 悪夢から覚めるというのは、悪夢を良夢に変えるという意味でしょうか、それとも夢そのものから覚めるという意味でしょうか?悪夢を良夢に変えるのは@の話に戻りますね。

いずれにしても、どちらも可能です。死ぬ前でも死んだあとでも出来ます。なぜなら、生前の世界にも死後の世界にも同じ法則が働いているからです。それは「自分自身の意識を体験する」という法則です。

236で「死後の世界はないと固く信じて死んだ人は、死ぬと眠り込んでしまって眼が覚めない」という話を紹介しましたね。この人はまさに死後の世界はないという状態を体験するわけです。自然死であろうが自殺であろうが、怒りや恐れや憎しみを持って死ねば死後にもそのような世界を体験するし、愛やゆるしや喜びを持って死ねば、たとえそれが自殺であおろうとも――例えば何かの犠牲として自分の命をさしだすような――死後にも愛と喜びに満ちた世界を体験する、というのが宇宙の法則だと私は考えています。

251 アリス :<悪夢から覚めるというのは、悪夢を良夢に変えるという意味でしょうか、それとも夢そのものから覚めるという意味でしょうか?>今度は夢そのものから覚めて、目前の苦難から脱しようというわけです。

「不思議の国」でも「鏡の国」でも、覚めることによって悪夢的状況から脱します。最初の時、アリスは横暴なハートの女王に向かって、「あなたたち、みんなカードに過ぎないじゃあないの!」と叫ぶことによって夢から覚めます。後者では、狂乱的な祝宴の場で、「こんなの、もう我慢できないわ!」とテーブルクロスをおもっきり引っ張り、赤の女王にくってかかるところから覚めていきます。(前者に比べ少し尾ひれがつきますが)

死にたい程苦しいいとき、何とかこの悪夢から覚める方法は無いものかというが私の質問でした。猫さんのお答えは夢から覚めようと思えばよいということでしたね。

私はこんな風に思っています。悪夢はそれから逃れ逃れようとしても逃れられるものではではありません。物語のアリスのように立ち向かうも有力な方法かも知れませんが、最近、逆に、すべてを受け入れてしまって、それらが自分の作ったものとしていとおしむのがいいのではないかと思い始めました。先の良寛さんの言葉もそうですし、白隠さんの「南無地獄大菩薩」ではありませんが、あらゆる悪夢も自分の生み出した子供としていとおしみ、私の偉大な働きとしてあがめるくらいになると、その悪夢からはやがて覚めるのではないかと思うのです。煩悩即菩提とはこのあたりのことを言っているように思います。

252  : アリスさんは、ついに悪夢に対処する極意を発見されたようですね。<すべてを受け入れてしまって、それらが自分の作ったものとしていとおしむのがいいのではないか>とい うのはまさに極意です。悪夢であろうが良夢であろうが、アリスさんが体験するものはすべてアリスさんが作ったもの――というより、アリスさんそのもの――なのですから。

以前に何処かで話したかも知れませんが、ある女性が体験したことをお話しましょう。あるとき、この女性のところに毎晩悪魔が訪ねてくるようになりました。この女性は霊視能力があったので、その悪魔の姿がありありと見えるのです。女性は怖くてたまらないので、ちょうどその頃、導きを受けていた観音様に「悪魔が来ないようにしてほしい」とお願いしました。すると観音様はこう言ったのです。「今度悪魔さんが訪ねてきたら、丁寧におもてなしをしてあげなさい。」

女性は次の日悪魔が訪ねて来ると、怖くてたまらないのを我慢して、出来るだけ美しい部屋を想像してそこに悪魔さんをお通しして、座布団を3枚も重ねた上に座らせ、それから部屋の片隅で悪魔さんに差し上げるお茶を立てました。そして、用意が出来たので、お茶を出そうと悪魔さんのほうを振り向くと、そこに座っていたのは悪魔ではなく、何かにおびえて泣いている自分自身でした。(「姫乃宮亜美『聖なる母性より愛をこめて』)

この女性を毎晩訪ねてきたのは、女性自身の内面にある癒されていない感情のエネルギーだったのです。この女性は霊視能力があったので、それを悪魔という特異な存在として感じました。ふつうの人は霊視能力がないので、悪魔を見るかわりに、物質世界のいろいろな出来事としてそれを体験することになります。仕事に失敗したり、恋人に捨てられたり、大病をしたり・・・現れ方はいろいろですが、それらはすべて内面の不調和を反映しています。

女性が悪魔をおもてなししたように、不幸をおもてなししてあげれば、不幸の本質が見えてきて、それに対処することができるようになります。心の内面の不調和がなくなれば、それを反映している外界の不調和もなくなっていきます。外界の不調和は、心の中に不調和がありますよ、というメッセージなのですね。だからこそ「南無地獄大菩薩」なのでしょう。

253 アリス :ありがとうございました。例え話も分かりやすいですね。座布団の上に座っているのは輝くような自分ならもっと嬉しいですが・・・・猫さんの愛を送るというのも、何事に対しても「ありがとう」というのも同じことだと思います。Aについても一応峠を越えたようになので話題を少し変えたいと思いますがいかがでしょうか。
最近「千と千尋の神隠し」をご覧になったそうですが、感想などお聞かせいただけませんか?

08・2・4
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