アリス、アリスに会う  230−242
230  : OSの話はまだあまりうまく噛みあっていない感じがしますが、すこしこのままで話を進めたいと思います。

225でアリスさんは、
  <@この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである。意識を変えればよい>
を前提として話をしているとおっしゃいましたので、、
  (1) 私たちが経験するものは、客観的な外的存在と思われるものや物理的な因果律まで含めて、すべて自分の意識である。
  (2) したがって、私たちが幸福になるためには、自分の意識を変えればよい。
という2点については、同意されているのですね。

そのあとで、物理法則のようなものまで変えることが出来るか、という質問があったので、意識の中に変えやすいものと変えにくいものがあるという話をしました。そして、変えやすい部分をアプリケーションと呼び、変えにくい部分をOSと呼ぶことにしました。

さらにそのあとで、アリスさんはAからHまでの項目をOSの特徴として挙げられたので、アリスさんはこれらのものが変えにくい部分に入っていると考えておられるのだと思います。

OSについての検証はしばらく先に延ばして、先ほどの(1)(2)あるいは@を前提として、私たちが幸福を体験するためには、意識をどのように変えたらいいのでしょうか?

実はその答えは簡単なのです。
  (3) 「私は幸福である」という意識を持てば、幸福を体験することが出来る。
これがその答えです。

すこしだけ補足くしておきます。私たちの意識の中には、たくさんの「想念」――意識の中にあるものをこのように呼ぶことにします――があります。その中の小さな一つの想念として「私は幸福である」という想念を持ったとしても、その効果は期待できません。ほかに「幸福ではない」という想念がたくさんあったら、それによって打ち消されてしまうからです。

つまり問題は、私たちはどのようにしたら、「私は幸福である」という想念で、自分の意識全体を覆いつくしてしまうことが出来るか、ということなのです。ここで、意識の中の変えにくい部分――OS――と接点が出てきます。

ここまでの話、アリスさんはどのように思われますか。

231 アリス:異存ありません。「幸福」の定義は「F ;欲望が満たされた時、または満たされつつある時、幸せを感じる。」のを幸福と考えていいですか?
問題は<「幸福ではない」という想念がたくさんあったら、それによって打ち消されてしまうからです。>これをどうするかですね。

232  : 幸福の定義をどうしようと、それはアリスさんの勝手ですが、このように「何かの条件がみたされたら」私は幸福になれるのだが・・・と思っていると、私たちはまったく偶然に幸福が訪れるのを待たなければならなくなります。

私が<私たちが幸福を体験するためには、意識をどのように変えたらいいのでしょうか?>という問いの答えとして、<「私は幸福である」という意識を持てば、幸福を体験することが出来る>と言ったことに注意していただきたいと思います。これは、「幸福の条件がみたされるのを待つ」というのではなく、自分の意思で、「無条件に」幸福の意識を持つようにならなければならないという意味なのです。愛が無条件であるように、幸福も無条件なのです。

私たちが「外界」だと思っているものはすべて自分の意識の投影です。ですから、その外界が変わらなければ自分の意識を変えられないとなると、いつまで経っても意識を変えることは出来ません。同じ意識がいつまでもぐるぐる回り続けるだけです。外界が変わるのを待たず、外界と無関係に意識を変えること・・・これが意識を変えるための秘訣なのです。

233 アリス少し議論がかみ合っていませんね。<「私は幸福である」という意識を持てば、幸福を体験することが出来る>ということは同意の上、猫さんが<「幸福ではない」という想念がたくさんあったら、それによって打ち消されてしまうからです。>とおっしゃるので、私もその通りと思い、ではそれに対してどうするかをお尋ねしたわけですが、「幸福」とは何かの議論になりました。私は何もある条件が叶えられたらとは言っていません。好きなおいしいケーキを食べている。−幸せだなあ! おいしいケーキが目の前にあってこれから食べようとしている。−幸せだな!といったことを幸福といっています。(Fの中身)。人がなかなか変えにくい意識(これを今OSと呼んでいるのですが)をそのままにして、幸福を得られるか議論に入っているのですが、・・・・
<外界が変わるのを待たず、外界と無関係に意識を変えること・・・これが意識を変えるための秘訣なのです。>
他の想念を無視して、自分のありたい想念にとにかく集中しなさいと仰りたいのですね。
「万事塞翁が馬」とか「禍福あざなえる縄のごとし」とは関係がないのですね。

234  : このあたりで、私がOSと考えているものは何かということをお話しましょう。

OSとは、私たちが持っている観念の中で、変えにくいもの、そもそも変えられると思っていないようなもの、を指しています。その中の最も重要なものは、
  N1. 人間は物質世界の中で生きている肉体(物質)である。
  N2. 人間は地球の上にたくさんいるが、その中の一人だけが自分で、あとは他人である。
の二つだと、私は考えています(N1,N2のNは猫のNです)。

OSは私たちの存在とその在りかたを支える基盤であると同時に、私たちに制約を課す枠組みでもあります。それはコンピュータのOSでも同じですね。

N1によって、私たちは、肉体を持って生きることが出来るわけですが、同時に、肉体であることの制約も引き受けなればなりません。例えば、私たちは自分が意図しようがしまいが、時間とともに成長し、後には老化し衰弱して死に至るというサイクルの中に置かれています。男であるか女であるかという枠組みも、生まれたときから備わっていて変えることは出来ません。
物質でできた肉体として、物理的な制約も受けます。時には事故にあったり、病気になったりします。山登りに行くのはいいが、まかり間違えば転落して死亡します。海のレジャーでおぼれて死ぬこともあります。自分でなく愛するものを事故や病気で失うこともあります。

N2によって、私たちは、他人という「自分の思いのままにならない存在」に囲まれて生きることになります。政治、経済、社会のさまざまな側面は、99パーセント他人によって動かされていて、自分ではどうにもなりません。このため、自分では何もしなくても自分の環境が不都合な方向に変わってくることもあります。

このような制約の中で、私たちは、アリスさんが言われるように、自分の欲望が満足されたときに幸福を感じる、と考えているわけですね。

もしそうだとしたら、OSには触らないという条件で考えるとすれば、選択肢は2種類しかないと思います。

一つはOSの枠の範囲で、他人を変える努力をしたり、物理的な条件や経済的な条件を改善する努力をすることです。これは通常の常識的な考え方ですから、ここではこれ以上触れないことにします。ただし、努力しても他人を変えることが出来なかったり、物理的制約を克服できなかったら、自分は不幸だという思いが生まれることになります。

もう一つはOSの枠内に納まるように欲望のほうをコントロールすることです。例えば、欲望がおいしいケーキを食べたいというようなものであれば、それを実現する機会はたくさんあるでしょう。けれども、海外旅行に出かけて、ナイアガラの滝のしぶきを浴びてみたいとか、ルーブル美術館で、写真でない本物のモナリザを見てみたいという話になれば、経済的条件がゆるさなければ実現できません。したがって、そのような欲望をたくさん持てば、自分は不幸であるいう考えがたくさん生まれるわけです。けれども、そのような欲望を持たなければ、自分を不幸だと考えることもありません。これは、昔から言われている「足るを知れ」という教えです。

このような状況を観察すると、欲望がOSの限界にふれるときに「私は不幸だ」という思いが生まれることがわかります。

<人がなかなか変えにくい意識(これを今OSと呼んでいるのですが)をそのままにして、幸福を得られるか議論に入っているのですが・・・>ということですが、その答えは、欲望がOSの枠内に入っていれば可能である、ということではないかと思います。アリスさんはどう思われるのでしょうか。

また、私は上に述べたように、N1、N2を私たち人間が持っている最も基本的なOSだと思っていますが、アリスさんのOSには出てこなかったので、OSのイメージがアリスさんと私で違うのではないかとも感じています。そのあたりもあわせてお話いただければ幸いです。

<外界が変わるのを待たず、外界と無関係に意識を変えること・・・これが意識を変えるための秘訣なのです。>と私が言ったのは、「欲望が満足されたときに幸福を感じる」というアリスさんのOSに関係しているのですが、それについてはこの次にします。

235 アリス: やはりベースが違っていましたね。猫さんのN1、N2は私から見れば、私のOSのAからHの上に乗っかって動いているように思います。しいて言えば、N1はDの自分を含めて因果律が働いている。この因果律についてはやがて話題になると思いますが、ここでは古典物理学的な因果律ということにしましょう。N2はIの「自分以外に世界が存在する」に対応すると思います。N1もN2も一応考えましたが、それでは自由が利かないと思ったからOSに含めませんでした。
それにしても、N1、N2のもとでは意外と選択肢が狭いのですね。私はこれらを前提にても<外界が変わるのを待たず、外界と無関係に意識を変えること・・・これが意識を変えるための秘訣なのです。>が達成できる方法があり、その障害は何かとお伺いしていたのですが・・・・つまり、生まれ、死に、その間に笑ったり、泣いたりして、そんな肉体人間が、他人を愛したり、憎んだりする人間として、(これらはすべて意識なのですからーー221の@)意識を変えることによって幸せが得られる方法はないのかと。

<人がなかなか変えにくい意識(これを今OSと呼んでいるのですが)をそのままにして、幸福を得られるか議論に入っているのですが・・・>ということですが、その答えは、欲望がOSの枠内に入っていれば可能である、ということではないかと思います。アリスさんはどう思われるのでしょうか。」この猫さんのご質問は、理解できません。太字の所が理解できないのです。欲望の内容がOSのもとで可能な種類のものならという意味でしょうか?

236  : アリスさんは<D ;自分を含めて因果律が働いている>と漠然と「因果律」という言葉を使われたましたが、私はこれではOSを定義したことになっていないと思います。「どんな因果律」が働いているかということを明示しなかったら、そのOSがどんな機能を提供し、どんな制約を課すのかわからないからです。そのためにあえてN1,N2という具体的なものを提示しました。

アリスさんのDがN1と同じであれば、それは物質世界になりますが、善業善果、悪業悪果の因果応報的な因果関係であれば、それはカルマの世界だし、鏡の法則が働くのであればまた別の世界になります。それによってどんな意識を持てば幸福になれるかが変わってきます。

けれども、どんなOSであっても、私たちが幸福になるには、OSを利用するか、OSを変えるかのどちらかしかないわけですね。したがって、OSに触らないという前提を置けば、OSを利用する以外に方法はないわけです。

<それにしても、N1、N2のもとでは意外と選択肢が狭いのですね>といわれましたが、そうなる原因は<F ;欲望が満たされた時、または満たされつつある時、幸せを感じる>がOSに入っているからです。これでは、幸福になるためには、そのOSの中で実現可能な欲望を持つほかはないではありませんか?(<欲望の内容がOSのもとで可能な種類のものならという意味でしょうか?>というご質問は、アリスさんの解釈のとおりです)

私は<外界と無関係に、「私は幸福である」という意識を持ちなさい>といいましたが、これがこのFをOSから外しなさいという意味だということがお分かりになりますか? 欲望がみたされたかどうかということに関係なく、幸福を感じなさいという意味です。これは、アリスさんのOSの下では不可能ですね。

ではなぜ、このように「無条件の幸福」を感じるようにすると、幸福になれるのでしょうか。それはアリスさんのOSや私のN1、N2よりもっと深いところに、
   N3. 私たちは自分の意識を体験する
という最も基本的なOSがあるからです。私は、これはハードウェアと言ってもいいくらい基本的なOSだと思っています。これがあるので、物質宇宙を意識の中に持てば物質宇宙を体験し、輪廻転生の世界を意識に持てば輪廻転生の世界を経験するのです。昔読んだ霊界通信の本に、「死後の世界はないと固く信じて死んだ魂は、死後眠り込んでしまって眼が覚めない」とあったのを思い出します。つまり本人だけは死後の世界がないという状態になるのです。これがこの基本OSの働きだと思っています。

237 アリス : 猫さんと私はどうやらOSの異なるコンピュータかもしれませんね。話が複雑にならないように、出来る限り猫さんのOSに沿って話を進めたいと思います。
猫さんのN1、N2、N3のもとで、意識を変えれば、禍を避け、福を得ることが出来るのでしょうか?
それともN1、N2があれば不可能だと仰りたいのでしょうか?

238  : <それともN1、N2があれば不可能だと仰りたいのでしょうか?>
私が言いたいのは、N1、N2、Fの三つが組み合わさっていれば、ほとんど手のうちようはない、ということです。

少し話がわかりにくくなっているようですので、これまでのところを復習してみましょう。

221でアリスさんは、幸福の問題を次のように整理されました。
  @この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである。意識を変えればよい。
  Aこの世で体験することは幻想であるが、その幻想から覚めればよい。これが苦を免れる方法である。

それから、当分@だけに絞って話を進めようということにされました。したがって、現在@を前提として話をしているつもりです。

@は、私たちが経験するものはすべて自分の意識であるから、幸福を体験するためには、幸福を体験できるような意識に自分の意識を変えればよい、ということを意味しています。

ですが、意識の中には変えにくいものもあるので、それをOSと呼ぶことにしようという話になりました。そして、アリスさんはOSとして8項目を提示されました。私は3項目を提示しました。それも次に繰り返し表記しておきます。

  A ;好奇心を持つ。
  B ;その好奇心は自分(我)が持っている。
  C ;その自分を出来るだけ存続させたい。
  D ;自分を含めて因果律が働いている。
  E ;因果律には矛盾は存在しない。
  F ;欲望が満たされた時、または満たされつつある時、幸せを感じる。
  G ;自分は幸せを増やしたい。
  H ;自分以外の世界が存在する

  N1. 人間は物質世界の中で生きている肉体(物質)である。
  N2. 人間は地球の上にたくさんいるが、その中の一人だけが自分で、あとは他人である。
  N3. 私たちは自分の意識を体験する

このうちN3は、@の「この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである」を表面化させるために持ち出しただけですから、@に含まれた前提であるということで再度消去することにしましょう。それから、N1はDと、N2はIと、ほぼ同等だとおっしゃいましたので、それを合体して括弧書きで補足することにします。

そうすると、次のようなOSが出来上がります。これが現在アリスさんと私の議論の土台になっているOSです。少なくとも、私はこのようなOSを念頭においてお話しています。

  A ;好奇心を持つ。
  B ;その好奇心は自分(我)が持っている。
  C ;その自分を出来るだけ存続させたい。
  D+N1 ;自分を含めて(物理的)因果律が働いている。
  E ;因果律には矛盾は存在しない。
  F ;欲望が満たされた時、または満たされつつある時、幸せを感じる。
  G ;自分は幸せを増やしたい。
  H+N2 ;自分以外の世界(とくに他人)が存在する

問題はこのようなOSのもとで、どうしたら「自分は幸福である」という意識を持つことが出来るかということですね。OSの中にFという項目があるので、「自分は幸福である」と意識できるためには、欲望が満たされなければなりません。ところが、欲望が満たされるためには、その欲望がOSのほかの項目に抵触しないものでなければならないわけです。欲望実現の制限になりそうな項目が二つあります。それがD+N1 と I+N2 です。

したがって、私が現在お話している見解は、N1、N2、Fの三つが同時にOSに含まれている限り、たいした選択の余地はないということです。つまり、N1、N2に抵触しないような欲望だけを持つようにするほかはないわけです。

アリスさんの眼から見て、論旨の進めかたに疑問を持たれるところがあればお教えください。

239 アリス:二人のOSを統合いただいてありがとうございます。これには異論はありません。問題は、<N1、N2、Fの三つが同時にOSに含まれている限り、たいした選択の余地はないということです。つまり、N1、N2に抵触しないような欲望だけを持つようにするほかはないわけです。>で、何度も繰り返して恥ずかしいのですが、その範囲で十分だから、何かいい方法ないかという質問なのです。
私の願望のほとんどがN1、N2を前提とした欲望で、猫さんには<たいした選択の余地ない>範囲かも知れませんが、これで十分なのです。この対話の冒頭から絶えず繰り返しているつもりなのですが・・・
Fに問題があるということですが、これは幸せの定義をした部分で、このことが無ければ何のために議論しているか私には分からなくなります。猫さんが幸福とか禍福とかという言葉で何を意味しておられるか理解できません。

240  : FがOSにはいっているということは、アリスさんは<欲望が満たされた時、または満たされつつある時、幸せを感じる>のであって、それ以外の時には幸せを感じることはできない、ということを意味しているのですね。私はそれを確認しようとして、これまで何度も同じ話を繰り返しているのですが、そう解釈していいのですか。

アリスさんが「いい方法」と言っておられるのは、「欲望が自動的に満たされるような方法」――例えば「ご馳走が食べたい」と思うと、ご馳走がテーブルの上に並ぶ、魔法のテーブルかけのような方法――という意味ですか?

もちろん、魔法のテーブルかけは誇張で、ある程度の通常の範囲での努力はしてもよいおっしゃるだろうと思っていますが・・・。

241 アリス :猫さんのご理解で進めていただいて結構です。
(実は、私のFには<それ以外の時には幸せを感じることはできない>という条件はついていませんが、それを付けた方がより話か明快になると思いますので)

242  : その魔法のテーブルかけが、自分の望みの状態が実現したときの喜びを先取りして味わうことだとしたら、アリスさんはどうされますか? 先取りして味わうという言葉の意味は、私のサイトの本文のほうに E4. 少女とチョコレート というタイトルで掲載した文をお読みください。

08/1/21


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