アリス、アリスに会う  125-139

125 アリス早速、猫さんのモデルとの対比まで作ってくださいましてありがとうございます。何か質問はありませんかと言うことですが、この図については色々お聞きしているとこれまでのようにアリスー質問、猫さんお答え、とこれまで通りのパターンになってしまいます。
私が今回お願いしたいのは、SF風に示した私のモデルが猫さんから見て、おかしなところ、、不思議なところはありませんか?あればそれについてご指摘または質問をしていただきたいのです。新たな猫さんのお説をうかがうより、わたし自身の持っている考え、イメージの問題点を指摘して啓発していただきたいのです。よろしくお願いいたします。

126  : では、一度にたくさんの質問をすると混乱するので、まず一つだけ質問します。

最初の「わたし」(霊)の独白に「わたしは何者だろう?知らないと何だか落ち着かない。ひとつ光点のようなものを置いて探ってみよう。」という言葉が出てきますね。あとのほうでは「わし」(神)が同じことをする、という筋書きになっています。

アリスさんは、神や霊が、自分が何者か知らないので、このような探索を始めたとお考えなのでしょうか。

127 アリス : まず「知る」という言葉ですが、日本語、英語、他の多くの言語でもそうだと思うのですが、分らないものを分るようになるというレベルのものから、男を知る、酒の味を知るなど、味わうに近いものまであり、覚醒にいたるまで幅広く、一口に「知る」といっても、そのレべルはエゴ、霊、神で大きな差があるのではと思っています。神の場合は我々が使うような「知、不知」といったレベルは無いと思います。
そのことを前提に猫さんの質問に答えますとyesとお答え出来ると思います。

神や霊は自分が何者か味わうために探索(この言葉がいいのかどうか分りませんが、体験の旅)を始めたと考えています。

128  : 「味わう」という言葉はいいですね。「神は、自分が何者かを味わうために、体験の旅を始めた」といえば、私の考えとまったく同じと言ってかまいません。

では、続きの質問を一つ。神は、なぜ、自分自身を味わう必要があるのでしょうか。いままで、味わったことがないのでしょうか。全知全能の神なら、あらためて味あわなくても全部わかっているのではないでしょうか。

129 アリス:実は神様のことは良くわからないのですが、おそらく退屈したから、こんなことを始められたのではないかと思っています。猫さんが言われる「神の遊び」と同じだと思っています。なぜ退屈が生じたかといえば、神様の中にある過剰が発生したのではないかと思うのです。
万事上手くいっている国の王様が、余裕が出来、退屈したので、自分の王国を見て回ろうとしている感じです。

130  : そうですね。初めての人が見たら、神様が退屈したから遊んでいるという表現には驚かれるかもしれませんが、私もそう思っています。古いインドの哲学にそういう表現があります。その意味を理解できるようになるまでに、私は30年ほどかかりましたが・・・。

このような表現に違和感を覚える方もあるかも知れませんが、すべては「たとえ話」です。あまり気難しく考えないことにしましょう。

さて、その遊んでいる神様が自分の王国を見てまわるために「わたし」(霊)を作り、その霊がさらに「おれ」(エゴ)を作りました。なぜ、そんなものを作らなければならないのか、という問題はありますが、私も同じように考えていますので、ここでは問題にしないことにしましょう。

このSFが表現したいことの最大のポイントは、エゴと不如意の関係ですね。次の質問はそこへ向かうことにします。

SFの中ほどで、「わたし」(霊)が「このゲームは辻褄が合わないようにしてある」といったり、「おれ」(エゴ)が「不如意があなたのせいなら・・・」と言っているところがあります。アリスさんは、不如意を作り出しているのは霊だと考えておられるのでしょうか。

131 アリス :そうだと考えています。それはおれ(エゴ)という光点を置いたことにより生じるものだと思います。

132  : <それはおれ(エゴ)という光点を置いたことにより生じるものだと思います>というのは、エゴが体験するものはすべて不如意だという意味でしょうか。それとも、不如意とそうでない好都合なもの(如意)とがまざっているのでしょうか。もしそうだとすると、エゴが如意と不如意をどの程度の割合で体験するかということを決定するのは、エゴと霊のどちらなのでしょうか。

133 アリス :エゴが体験するのは不如意だけではありません。それ以上に都合の良いことが混ざっていると思います。だからいつまでもエゴという光点を消せないのだと思います。
<もしそうだとすると、エゴが如意と不如意をどの程度の割合で体験するかということを決定するのは、エゴと霊のどちらなのでしょうか。>
それは霊の方だと思います。

134 
 : すると、エゴは、霊が決めた如意や不如意をただ受動的に体験するだけなのでしょうか。

この対話は、基本的に、「不如意をなくすにはどうしたらいいか」ということをテーマにしています。不如意をなくしたいと願うのはエゴですよね。それなのに、不如意にぶつかるか、如意にぶつかるかを決定するのは霊のほうだといわれると、エゴの立場から見れば、打つ手はないということになりはしませんか。

それから
<だからいつまでもエゴという光点を消せないのだと思います>といわれましたが、エゴという光点を作ったり消したりするのは、霊ですよね。霊が、エゴを通じて「よいもの」を体験するので、エゴを消せないのですか?それとも、エゴを消すのはエゴ自身なのでしょうか。

何か、エゴと霊の切り分けの仕方、あるいは「エゴ」という言葉が表すものが、私と違うようで、うまく理解できません。私はいま「私たちが現在自覚している意識はエゴである」という前提で話をしていますが、これはアリスさんと一致しているのでしょうか。

135 
アリス <それなのに、不如意にぶつかるか、如意にぶつかるかを決定するのは霊のほうだといわれると、エゴの立場から見れば、打つ手はないということになりはしませんか。>
私はエゴの方から打つ手はないと思っています。ただ、書きましたように、霊に帰る力はあるのではと思っています。

霊が、エゴを通じて「よいもの」を体験するので、エゴを消せないのですか?それとも、エゴを消すのはエゴ自身なのでしょうか。>
実はエゴでも霊でも私には余り関係がありません。

<何か、エゴと霊の切り分けの仕方、あるいは「エゴ」という言葉が表すものが、私と違うようで、うまく理解できません。私はいま「私たちが現在自覚している意識はエゴである」という前提で話をしていますが、これはアリスさんと一致しているのでしょうか。>
猫さんがわたしのモデルを理解できないのは、私が猫さんのモデルを理解できないのと同じですね。私はそのことを絶えず申しあげてきたつもりです。例えば85。
しかし、あくまでも表現の形式の差で余り気にしていません。私のモデルでおかしいと思われるところをご指摘いただくのがSF風モデルを作った理由ですので、今、モデルの比較を私の方からすると返って複雑になりますのでやりませんが、一つだけお考えいただきたいのは私の絵は終始ピンク色だということです。

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 : <私の絵は終始ピンク色です>とおっしゃいましたが、私はピンクの世界には不如意は存在しないと考えています。したがって、エゴが不如意があると考えているのは、夢あるいは妄想ということになります。そして、エゴが存在すること自体、つまり霊がエゴという光点を作ったということ自体が夢であるということになるのではないでしょうか。そして、もちろん、エゴは存在しないわけですから、この夢を見ているのは霊であるということになります。

つまり、霊がエゴになった夢を見て、その夢の中でエゴが不如意を感じている、ということになります。実はこれは私の考えとまったく同じです。もし、アリスさんが、この考えに同調されるのであれば、エゴと不如意の関係など論じるのはやめて、夢から醒めることだけを考えればいいということですね。

137 
アリス<夢あるいは妄想>という表現がいいのかどうかは改めて話し合うことにして、かなり近づいた感じがいたします。今しばらく私のモデルの点検をお願いできないでしょうか?猫さんからご覧になっておかしなところはありませんか?

138 
 : この対話を読まれている第三者もおられると思うので、このあたりで「モデルの点検」ということに関する私の考えを説明しておきましょう。

アリスさんは「モデルの点検」とか「モデルの検証」という言葉を使われますが、私はモデル自体にはあまり関心がありません。モデルは単なる表現手段であって、そのモデルで表現あるいは伝達されようとしている「考え」のほうが重要だと思うからです。私が次から次にさまざまなモデルを考え出すのも、同じ考えを表現するのにさまざまな方法があると考えるからです。

したがって、「アリスさんのモデルを私が検証する」とは、そのモデルで表現しようとされているアリスさんの考えはどういうもの明らかにし、それが私の考えと同じなのか違うのか、ということを明らかにすることです。

アリスさんの考えと私の考えが違ったとしても、そのどちらが正しいとか間違っているとか言うつもりは、私にはまったくありません。この点は重要なので強調しておきますが、私は「それ自体で間違った考えとか、正しい考え」というものはないと思っています。ただ、ひとが体験する世界は、その人が心の中にどんな考えを持っているかによって決まります。その世界が自分にとって快適であるなら、その考えを持ち続ければいいし、快適でなければ考えを変えればいい、というだけのことです。

そういうわけで、私はアリスさんのモデルについて、私が理解しにくいと感じるところを質問してきました。一つは、神と霊の関係についてであり、次は霊とエゴについての関係です。言葉の使い方が私と少し違うため、私には理解しにくいところがありますが、アリスさんの考えは、私と大きくは違わないようです。具体的な表現については保留されましたが、エゴが霊の見る夢のようなものだということについても同意されたようです。

霊が夢から醒めるための方法については、アリスさんは、エゴが霊に帰り、霊と一体になるというふうに表現されました。そして、その方法を「愛エネルギーを逆噴射する」と表現されました。私も「人に愛を送れば、自分自身の愛エネルギーの量が増えていく」という表現をします。「愛」が、エゴが霊に帰るためのキイワードであることは、私も同意見です。

最後に一つ、質問ではありませんが、気になる表現を指摘しておきます。

わたし(霊)がおれ(エゴ)に向かって、「それなら死ね!」というところがありますね。霊はそのあとに続けてこう言います。「所詮、「お前はわたしの作った光点なのだ。わたしが不要になれば消すだけだ」と。このほかにも、霊はエゴに向かって、「色んな目にあうのは当然だ。自分がどんなものか知りたくてお前という光点を置いたんだから。お前は色んなものを映し出すだろ。それはわたしなのだ。お前には知りたい欲望を植え付け、先まで照らせないように作ったから、お前は、あちこち、さ迷わねばならないのだ」と言います。終わりのほうでは、神が霊に向かって同じことを言います。

神と霊の関係と、霊とエゴの関係が同じであるというのは私も同意見ですが、その関係がアリスさんの場合、なんとなく専制君主的、あるいは家父長的な匂いがします。私は神と人間の関係はそのようなものではないと思っています。霊は神の分身であり、エゴは霊の分身なのです。分身とは、自分自身(の一部)であるということです。神や霊が自分自身の一部に対して、お前が不要になったら消す、などといううことはあり得ないと私は考えています。

以上で、アリスさんのSFの検証を終わります。要約すれば、細かいところでは言葉遣いや表現の仕方が違うためにわかりにくいところがありますが、大きな流れとしては、私の考えとそれほど大きな違いはないと思います。ただ、神や霊が専制君主的に見える表現は気になります。

139 
アリス:私のSF風モデルにお付き合いくださってありがとうございました。概ね、猫さんのお考えの流れに沿っているものであるとわかってただけでも大きな収穫でした。同じ言葉で指すものが違うと会話がやりにくいので何とか共通の「モデル」がないものか探していましたが、猫さんの「モデル」に関するお考えからは、これを議論するのは意味がなさそうですね。(わたしのことでから、何れまたそこに帰ることになるかもしれませんが、当分、モデルや喩えの突合せは当分しないことにします。)
猫さんが気になる表現ととして
<神や霊が専制君主的に見える>ということについて感じたことが2つありますので書いておきます。
@私のエゴ的性格が思わぬところに顔を差しているな!
A私は最近、霊の本質が「意思」にあるのではないかと思い始めており、それがSF風モデルに現れたな。
と言うことでした。

07/6/23

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