アリス、アリスに会う  140-150

140  : アリスさんは<霊の本質が「意思」にあるのではないかと思い始めており・・・>とおっしゃいましたが、私もその点は同感です。私も、霊の本質は意思にあると考えています。もし意志というものがなかったら、存在するものはすべて自動現象になります。そうなれば、アリスさんと私とのこの対話も、自動現象ということになってしまいます。

そのような宇宙には、いかなる意味も価値も存在しません。実際は、宇宙とは意志の坩堝(るつぼ)であり、あらゆる存在は意志が具象化したものなのです。

――さて、あまりにたくさんのモデルの話をしたので、モデルに食傷してしまいましたね。少し、話題を変えたたいと思います。

今朝(2007年6月26日)の日経新聞に「環視社会の足音」という記事が載りました。米グーグルが五月から「ストリートビュー」という新しいサービスを始めたという内容の記事です。グーグルマップという地図の上で、特定の地点をクリックすると、その場所の路上風景が見られるそうです。映っているのは、何も知らずに道を歩く人びと・・・本人の知らない間に取られた映像が世界中に流れるということが既に現実になっているのだそうです。同様の事例がほかにもいくつか紹介されていました。

このように、いつどこで誰に見られているかわからない社会、すべての人が、いつでも世界中の目にさらされているという社会・・・そのような社会の到来を告げて、新聞は「環視社会」と名づけました。古い「監視社会」は権力が個人を見張るという構造ですが、新しい「環視社会」は、すべての人がすべての目にさらされるという社会です。

そこでアリスさんに質問です。アリスさんは、このような社会をどう思われますか?

141 アリス 色々な想いが去来しますが、監視社会と言うことだけを焦点を当てると、何だか囚人社会に近い感じになって余り嬉しくないですね。しかし、身近にも色々とビデオカメラが取り付けられ、病院、老人ホームをはじめいたるところに現れているし、ある程度止むを得ないと思いますが、プライヴァシーが失われていきますね。これの歯止めはよほどしっかりした哲学が、あるいは主義が生まれないと無理なような気がします。

<古い「監視社会」は権力が個人を見張るという構造ですが、新しい「環視社会」は、すべての人がすべての目にさらされるという社会です。>と言うことですが、このシステムは誰かの利益のために促進されることに間違いありません。鉄道の敷設もそんな感じで広がったもので、インターネットも同様ではないかと思います。
勿論この進歩で、一般の人もご利益をうけるのですからますます進むわけです。

面白いのは、この社会では自分がどう監視されているかも自分で見えるシステムが出来ることです。携帯で自分の現在を絶えず映し出して確認する姿が見られる日も遠くないでしょう。
メビュウスの輪のように変わった意識構造が出来てくるのではないかという気がします。

技術の進歩が先行し、グーグルのような発想が出てくるのは自然ですが、何処に赴くか知らずにやっているのは他の科学技術と同じです。

猫さんはどんな想いを抱かれましたか?

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 : 「人間は無意識のうちに、霊的世界と同じ状態をこの物質宇宙の中に作り出そうとしています。したがって技術が進歩するにつれて物質世界は霊的世界に似てくるのです。」――これは、私が私の著書の中に書いた言葉です(『魂のインタネット』213p)。それは、人類が霊性への帰還の道を歩み続けていることの一つのしるしだと、私は考えています。

そして、この「衆人環視社会」もその一つの現れだと思います。

霊性の世界には秘密がありません。プライバシーもありません。何も隠すことは出来ません。隠す必要もありません。霊性の世界は完璧に透明な世界なのです。「環視社会」というのは、私たちの世界が、霊的世界のそういう側面を反映しはじめているのだと思います。

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アリス猫さんのお考えでは技術の進歩は霊的世界への回帰ということで、めでたいことお考えのようですが、私はそれほど楽観していません。
核兵器のようにもしそれが狂人の手に渡れば大変なことになりますし、遺伝子操作も果たして幸福な結果を生むか疑問です。

「衆人環視社会」と同様のアイデアは20年以上前に、情報革命などといわれていた頃、マクルーハンと言う人が世界は村のようになると言っていて、私もずいぶん共鳴し、会社のシステム作りにも熱を入れた時期があります。確かにその方向に進んでいるようです。

しかしこれが進歩かといえば、上記のような破局的要素を内在していることと、そうでなくて、順調に進化した場合も、結局、元のところに返るだけではないかと思うのです。衆人環視社会で、結局は携帯で自分を自分で管理し、自分の姿を見るだけのことになりはしないか?
先にメヴュウスの輪の話を出しましたが、尾を食べている蛇、ウロボロスに近いのではと思っています。大きな輪廻の輪が回っているだけだと。

霊が動く方向としては、私の場合は老子のではありませんが、何もしないのが一番という感じです。これは生まれながらの気質かもしれませね。

144  : 私は楽しんではいますが、楽観はしていません。私が感じているのは、大きな川の流れのようなものです。人類はいずれ霊性を回復する運命にある――そう感じています。人間が、自分では意識していないのに、否応なしに霊的世界の擬似モデルのような世界を作り上げてゆくというのは、私たちがその運命に運ばれているしるしだと思っています。

けれども、霊性回復のプロセスが楽なものになるか、厳しい体験になるかということは、人類がどのような意識を持ち続けるかということによります。人類が、従来のような欲望に身を任せ、競争と奪い合いの意識を持ち続けるなら、プロセスは悲惨な体験になるでしょう。人間が今のような意識を持ったままで環視社会に入っていったら、どのような結果になるか、アリスさんが心配されるとおりです。

けれども、人類がすこしでも愛と協力の意識を持ち始めるなら、擬似霊界のシステムは、人々が協力するための強力なツールにもなります。

私がささやかなホームページを作っているのも、人類が愛と協力の意識を持つようになってゆくことを、いくらかでも支援したいという願いによっているのです。

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アリス :<否応なしに霊的世界の擬似モデルのような世界を作り上げてゆく>ことも<人類がすこしでも愛と協力の意識を持ち始めるなら、擬似霊界のシステムは、人々が協力するための強力なツールにもな>ることも十分理解できます。お釈迦さんやキリストの時代と違っているからこそ、猫さんの『魂のインターネット』という著作やHP「霊性の時代の夜明け」が生まれたと思います。
インターネットやそれを使った「環視社会」は、普通、我々が人間だと思っているものが、ヴァーチャルな存在だという認識を得やすく、霊に目覚める環境をつくり、また、地球の反対側の人にも愛の手を差し伸べやすくなって来ることは確かです。

しかし、本当にこれらのことによって、霊性の回復は進むのでしょうか?
釈迦やイエスの時代に比べ、あるいはネイティブ・アメリカンの社会に比べ霊性回復が進んだのでしょうか?

私はこれらのシステムは所詮エゴの作り出したもので、「擬似霊界」の語が示すように、「擬似」であって、場合によって擬似の度合いを深めるのではと案じています。

最初に猫さんから「環視社会」の話を聞いたとき思ったことを少し詳しく話します。
私の住所をgoogleの地図で検索しますと、立派な航空写真が出ます。隣がH宮邸なので、この写真により始めて宮邸の内部まで見ることが出来ました。しかし、私達のマンションの横は大きな空き地となっています。これは少なくとも2年以上前の状態です。その空き地に新たなマンションができてからもう1年は経っています。「環視社会」はいわば情報の組み合わせですから、このときの映像が使われたら、私は2年前の世界を歩くことになります。勿論、リアルタイムに全情報をアップデイトしたとして、本当にアップデイトしてあるという保証はありません。擬似の度合いが深まっていきます。リアリティー(そんなものがあるとしして)から離れていくと思われます。ゲームの世界と合体したら、私はイラクや中世のイタリアにいることも可能となります。対話59の「仮想人生」と結びつくとしたらどうなるでしょう。

猫が鏡に映る自分の姿や、テレビに映った魚に興味を示さないように、我々の技術によって作られたものは、リアリティーに欠けるのだと思います。
猫さんと違って悲観的ですが、やがて、破局を迎えるか、または成熟の極地に達して原始に戻る気がします。アトランチス伝説が示すように、そんな文明が繰り返されたのではないかと思いながら、メヴュウスの輪とかウロボロスを連想したのです。私の場合は大きな川の流れがあるとしても何処に流れ込むか分らないという感じです。

この流れに逆らうつもりはありませんが、灰色の男の支配下で時間を奪われながら暮らしていくようになると思うのですが・・・

146  : この対話を読んでいる人の中にも、アリスさんと同じように感じる人は多いでしょうね。アリスさんは<本当にこれらのことによって、霊性の回復は進むのでしょうか?> とおっしゃいましたが、私は、技術によって、人間の霊性の回復が進むと考えているわけではありません。ただ、社会の構造がますます霊界に近くなってくると考えているのです。

例えば、インターネットは、すべての個人が世界に向けて発信することを可能にしました。そこには、原理的には、いかなる差別もありません。パソコンを持つことが出来る人は誰でも、世界に向けて発信できます。携帯電話は、世界中の人が、個人と個人で結びつくことを可能にしました。最近では、携帯電話からインターネットにつながるので、パソコンを持たなくても、携帯電話で世界中に発信することが可能です。これは、霊界においては空間というものがなく、地球の裏側とでも瞬時につながることが出来る、ということを擬似的に表していると私は考えています。

このようなことが起こるのは、人間が無意識にこの物質世界に霊界と同じ機能を持たせようとしており、技術が進化するにつれて、その機能を実現する手段が豊富になってくるからです。

けれども、これは社会の構造が霊界に近くなるということであって、人間の霊性が進化するということではありません。そこで何が起こるかというと、社会の構造と人間の霊性のミスマッチが起こることになります。このために、場合によっては悲惨な状態になるかも知れないという懸念が出てくるわけです。

そのような悲惨な結果を生じないためには、人間が自らの霊性を「社会に遅れないように」高めていかなければならないと私は考えています。これが、私がホームページを開いたり、本を書いたりする理由なのです。なぜなら、人間の霊性は、人間自身が自分の意志で高めよう――あるいは回復しよう――としない限り、高めることは出来ないからです。アリスさんもおっしゃいましたが、霊性の世界は意志の世界です。技術がどのように進もうとも、社会がどのように進化しようとも、あるいは、原始の生活に戻ろうとも、それによって人間の霊性が自動的に進化するということはありえないのです。

ところで、アリスさんは、灰色の男達の支配下におかれて、時間を奪われることに甘んじておられるつもりですか?もし、それでことが済むのなら、ミヒャエル・エンデが『モモ』を書く必要はなかったのではないでしょうか。――それとも、145の最後の1行は、アリスさん自身のことではなくて、社会の一般の人たちのことを心配されたのでしょうか?

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アリス :猫さんのおっしゃるように、<社会の構造が霊界に近くなる>のかも知れません。そのために<人間が自らの霊性を「社会に遅れないように」高めていかなければならない>とも思います。しかし、私が問題にしているのは、それが擬似霊界であって、霊の本質から離れていかないかを心配しているのです。

『モモ』の7章に円形劇場で自然に遊んでいる子供たちの中に、トランジスターラジオ、リモコン操作の戦車、ロボットを持ち込む子供の姿が描かれていますね。そのようなものを開発するために、作るたために、売るために、また買うお金を稼ぐために、大人たちの時間は奪われて行き、それを使う子供たちも何の喜びもない時間を消費しています。
テレビ、インターネット、ipod・・・すべてが同じ構造を持っています。そのようなものを開発するために、作るために、売るために、また買うお金を稼ぐために、時間は奪われて行き、それを使う大人も子供たちも何の喜びもない時間を消費しています。

<それとも、145の最後の1行は、アリスさん自身のことではなくて、社会の一般の人たちのことを心配されたのでしょうか?>
まず、私自身のことです。時が恐ろしい速さで過ぎているという実感です。ひとつにはパソコンの前にいる時間がバカにならないからです。もうひとつは欲に駆られて色んなものに手を出し過ぎているためだと思います。
他の人を見ても、電車や歩きながら携帯を使っている人、ipodを聞いている人はかりです。この人たちの時間はどうなったのでしょうか?灰色の男達の戦略は功を奏していると思いませんか?

猫さんの視点と私の視点がずれていて、私は最初から同じ事を繰り返しているようですが、霊性回復にこのような社会の技術的進歩が必要なのでしょうか?
私には命を情報技術で加工し、薄くのばして、ネットの中にばら撒いているだけという感じがするのです。

灰色の男達への対抗策は私にはありません。猫さんと『モモ』を読みながら、考えてゆきたいと思います。また、猫さんから学びたいと思います。

148  : 私も、霊性回復のために、このような技術が必要だとは思いません。けれども、人間がそうしてしまうのは仕方がないですね。人間は、霊界と同じ世界をこの地上に実現しようという無意識の願望を持っていますが、それを霊性を回復することによって達成しようとしないで、技術によって代用させようとしているのです。その結果、ミスマッチがますますひどくなって、本物の霊性回復を強く迫られる状況になっているのです。

――この対話を読んでいる人のために、少し解説をしておきます。いま、アリスさんと私は、オフラインで時々会って、ミヒャエル・エンデの『モモ』という童話を原文(ドイツ語)で読む勉強会をしています。この物語を読まれた方は、私たちが何を話題にしているか、お分かりのことと思います。灰色の男たちというのは「時間泥棒」で、町に住んでいる人々から、知らない間に時間を盗み取っていくので、人々は次第に忙しくなり、時間に追われて、友達同士の関係も親子の関係も次第にせわしないものに変わっていくのですが、モモという名の小さな女の子が時間泥棒から時間を取り戻してくれる、という物語です。子ども向きの童話になっていますが、大人が読んでもおもしろい文明批評になっていて、いろいろ考えさせられるものがあります。まだお読みになっていない方はぜひお読みになるといいと思います(日本語訳『モモ』大島かおり訳、岩波書店) 。――

さて、アリスさんは<灰色の男達の戦略は功を奏していると思いませんか?>といわれました。そのとおりですね。『モモ』が発表されたのが1973年ですから、それから34年ほど経っています。世界はますます瀬戸際に追い詰められているようですね。

ここで、また、アリスさんに質問です。「灰色の男たち」というのは何者だと思われますか? 彼らはどこに住んでいると思われますか? 彼等が現れると、なぜ異常な寒さが襲ってくるのでしょうか?

149 アリス :私は『モモ』を英訳本で読んだのが20年前で、殆んど忘れてしまっています。今回、猫さんとドイツ語の原文を読んでいて、現在、10章を終えたところです。ですから、この段階で、灰色の男について話すのは時期尚早なのですが、今の感じを述べてみます。(後で変わるかも知れません)
灰色の男は実は私達の中にある理性、科学や技術を生んだ私達の性質のひとつを象徴していると思っています。細かく分析し、時間なら秒単に計算し、理解できないものは切り捨て、何よりも効率を重んじるといった灰色の男達の行動を見て思うのです。私達の心の中に気付かれないように活動しています。その結果時間が奪われます。「時間は命」Zeit ist Lebenと第二部6章に書いてありましたが、その命を奪っているのです。彼らが現れると、寒く感じるのはこのためです。この灰色の男達の性格はエゴの持つ性格のひとつで、それ自身悪いものではありませんが、エゴの動き、灰色の男達の動きは、霊性の中心から離れようする性質を持っています。私の123で示した図でいうと、エゴ(C)が霊(S)の中心から離れるほど,愛のエネルギー(いのちと言ってよいかもしれません)が少なくなりなくなりますから、寒くなるののです。
私は灰色の男達への対抗策を持たないと言ったのはこのことです。
昨日、防衛相が「長崎の原爆投下はしかたがなった」という発言で辞任することなりましたが、実は猫さんと同様、科学、技術の進歩は「しかたがない」という感情を持っています。

『モモ』では灰色の男達は他から気付かれると活動できないという性格をもとに、モモたちは灰色の男と戦っています。
私も掃除夫ベポと同様に、Schrit fuer Schitt(一歩一歩)この問題について考えてゆきたいと思います。

<私も、霊性回復のために、このような技術が必要だとは思いません。けれども、人間がそうしてしまうのは仕方がないですね。>とあり、また、<人間は、霊界と同じ世界をこの地上に実現しようという無意識の願望を持っていますが、それを霊性を回復することによって達成しようとしないで、技術によって代用させようとしているのです。>とありますが、これは仕方がないのでしょうか?

150  : そういうことであれば、灰色の男達とモモの話は、全部読み終わるまでお預けにしましょう。最後のご質問から続けて行きます。

私が仕方がないと言った意味は、科学技術の進歩を止めようとしてもそれは出来ないし、仮にそれが出来たところで事態は何も変わらないという意味です。人間は原子爆弾があるから戦争をするわけではありません。戦争をしたいから原子爆弾をつくったのです。人間は原始の森の中にいた時代から絶え間なく戦争をしてきました。大砲がなければ銃で、銃がなければ刀で、刀がなければ棍棒で、それもなければ素手で、戦争をしてきたのです。誰の言葉か知りませんが、「地球の上に人類が現れて以来、この地球の上で戦争がなかった日は一日もない」のです。

私は核兵器の廃絶運動というのは一種のまやかしだと思っています。核廃絶運動そのものを非難するつもりはありませんが、本当に実現しなければならないのは、あらゆる兵器の廃絶ではないでしょうか。殺される人の立場にたって言えば、原子爆弾で一瞬に焼き殺されるのと、棍棒で殴り殺されるのと、どちらがベターなのでしょうか。本当に必要なのは、あらゆる兵器の廃絶であり、戦争自体の廃絶なのです。

それはわかっているけれども難しい、だからせめて核兵器だけでも・・・ということはわかっています。では、なぜ、すべての兵器の廃絶が難しいのでしょうか。ソ連が崩壊して冷戦が終結したとき、これで軍備縮小の道が開かれると考えた人々がいました。けれども、一部の評論家はこういいました。もし各国の政府が本当に軍備を縮小したら、マフィアがのさばることになるだろう・・・・と。世界のいくつかの麻薬組織などは、一国の正規軍並みの軍備を持っているそうです。これは軍備を減らさないための口実だったかもしれませんが、あらゆる兵器を廃絶するためには、各国政府が持っている正規の軍隊だけでなく、闇の勢力が持っている武力から、米国の市民が持っている銃まで、すべてを廃棄しなければならないのは事実だと思います。

それがなぜ出来ないのでしょうか。それは、人間が本質的に戦争を好む習性を持っているからです。戦争は競争の延長線上にあります。他人を押しのけて、自分のほしいものを奪い取ろうとする、その延長線上にあります。たとえ、それが最初は無害な遊びであったとしても、心の性質としては同じ線の上にある・・・と私は考えています。ですから、この性質をなくさない限り、人間社会は最後は行き着くところまで行ってしまうと思います。

07/7/6

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