「不思議の国のアリス」は、アリスが、挿絵や会話のない本を姉さんが読んでいるのを見て、不思議がるところから、始まるが、私も、中学生になると、アリスのお姉さんのように、挿絵の無い活字ばかりの本を選ぶようになった。早く一人前の格好をしたかったからである。

それに加えて、当時、私は絵を描くのが好きで、大芸術家を志していたから、挿絵のような商業美術?はあまり価値を置いていなかった。父が、絵ばかり描いている私を見て、ある時、挿絵画家になってはどうかと言ったことがあった。父にすれば、絵で食べて行くのは大変だろうから、少しでも、金になりそうな挿絵の技術を身につければよいと思ったのであろう。大芸術家の卵には、金のために絵を描くのは堕落に思えたし、挿絵で生活する姿もうらぶれたものに思えて、父のその言葉で、さらに挿絵嫌いになった。新聞や雑誌の岩田専太郎の挿絵は大衆迎合的で、芸術とは思わなかったし、小磯良平が川端康成の新聞連載小説に挿絵を付けた時もあまり感心しなかった。イラストレータといったハイカラな職業はなく、漫画家も未だもてはやされる時代ではなかった。
  もし、同じ内容で、挿絵が有るものと無いものが、あれば、迷わず、挿絵の無いものを選んだ。そのような挿絵軽視の時期が四十歳頃まで続いただろうか。

ところが、今は逆で、挿絵のある本が好きで、挿絵につられて本を買ってしまうようになってしまった。そのきっかけは何であったかと思い返してみると、ワイルダーの「草原の小さな家」シリーズであったように思う。紙質の良くないペーパー・バックで、英語で読み通した最初の本であるが、男と女がいて、子供が生まれ、自分の手で、家を作り、畑を耕し、といった原初的物語を、ローラという子供の目で描きだすこの物語に、所々に挟まれたガース・ウイリアム Garth Williamsの挿絵は、子供の生きていることの驚きと喜びをふんだんに表現していた。ちょっと稚拙とも見えるものも見られるが、人の息使いまで表し、完璧なのである。挿絵だけの本があってもおかしく、それだけでワイルダーの世界を再現することが出来るだろう。

(絵をクリックすると大ききなります)

サロイヤンの「人間喜劇」や「私の名はアラム」も子供の目で見る物語で、そのドン・フリーマン Don Freemanの挿絵が素晴らしい。柔らかな子供の気持ちが伝わってくるから不思議である。
    つまり、作家が描き出した、子供の目に映る確かな世界を、主人公の子供の目で今度は絵として写しでしていると言ってよい。このように西洋の本の挿絵に次第に引かれていったのであるが、馴染めば馴染むほどそのレベルの高さが感じられるようになった。

グリム童話の私の持っている版の挿絵はルードウッヒ・リヒター Ludwig Richterで、デューラーやホルバインの流れを踏む骨太の挿絵なのだが、馬鹿な男が馬鹿な男らしく、王子様は王子様らしく描かれ、線の少ない割りに細かな所まで表現している。


   列挙すればきりがないが、最後に、技術的に高度なものの例として「不思議の国のアリス」のジョン・テニエルJohn Tennielを取り上げてみよう。イメージは確かにキャロルによるのであるが、挿絵画家の力量がどんなものか、作者のキャロルの挿絵も残っているので比べてみると歴然とする。存在感の重みが違う。


キャロル

テニエル

ロアルド・ダールの本にしても挿絵がないと物足りないなどと、次々と浮かんでくるが、私のように中年から読み始めた者と違って、子供の頃から良い挿絵本に親しんできた西洋の子供たちは、懐かしい挿絵が一杯頭の中にあるのではと思う。

この点、日本はどうかと言えば、子供の頃の絵本は懐かしいと言えば懐かしく、古書市などでも結構高い値がついているところを見ると、今でもコレクターも多いようである。

しかし、桃太郎や花咲か爺さんなどの絵本をはじめ、中学生ぐらいの読み物の挿絵も、残念ながら、西洋のものには及ばない。一口に言ってデッサン力が劣る。東洋には南画や俳画の伝統があり、思わせぶりな筆使いで、ごまかしているものもあり、しっかりしたデッサンの伝統が無いままに、現代芸術、アブストラクトの風潮の中で、盛んにデフォルメした絵が良いという時代に入ってしまって、幼児の絵本の挿絵にしても、悪いわけではないが、今ひとつひ弱で迫力に欠けるものが多い。

しかし、日本には絵巻物の伝統があり、一遍上人絵伝などは、描かれている人物もいい上に、日本の美しい自然が描かれていて、人間の営みが自然の風物の中で営まれているという、極めて高い境地を描き出していて、世界の類例が無いのではないかと思う。日本の画家も絵描きである以上、デッサンを軽視したとも思えなくて、立派なものがあり、近世では北斎などの浮世絵師のものも素晴らしい。印刷技術の差によっても、挿絵の質も差がでたようで、洋本挿絵と言う点からは、日本はまだ100年の歴史しかないのだから、そのうち、素晴らしい挿絵も現れるであろう。

現代では挿絵の精力はもっぱら、アニメーション、漫画に振り向かれていて、世界をリードしているではないかと言う人もあるが、何しろおびただしい量が作られているのであるから、きっと、良いものがあるだろう。残念ながらアニメや漫画をほとんど見ないので、論ずることは出来ない。

歳と共に挿絵の味わう楽しみは次第に深くなっていったのであるが、これには、自分でデッサンを続けていることも大きな要因となっていると思う。

画家の基本的なトレーニングにデッサンまたはクロキィーがあるが、自分で紙の上に線を引いてみると、描写することの難しさが良く分かるのである。1000ボース、2000ポーズぐらい描くと人の絵も良く分かる。デッサン力というものが少しずつ分かるのである。イタリヤ・ルネッサンスの人々をはじめ、レンプラント、ルーベンス、近くはマチスやピカソの凄さが分かる。これはやってみないとどうしても味わえないのではなかろうか?西洋はギリシャ彫刻を見れば分かるように、早くから、人体を見る目の確からしさが形成され、その上に立って、画家や彫刻家の基礎として、しっかりとデッサンする階梯が教育の中に組まれていることによると思う。その卑近な例は、西洋には立派なデッサンの技法書があるが、日本には残念ながらない。

本業が絵描きで挿絵も描いている場合も多く、例えば、レンブラント、ドラクロア、ロートレック、ルオー、シャガールなどであるが、それなりに面白いが、作品としての絵に比べると落ちるようで、自分の好きなものを自分の個性を存分に出して描写しているときのドラクロアのデッサンとシェイクスピアなどの挿絵を描いているときのドラクロアとは違うように見える。やはり挿絵画家という独自の分野があるように思える。挿絵画家には描写力、表現力の他に、自分を無にして、作家の世界に身を挺することが必要なのであるが、所謂偉大な芸術家はこれが難しい。

ここ数年、幼児向け、二―七歳ぐらいを対象とした絵本である「ナーサリーライム」(または「マザーグース」)を少しずつ集めているが、子供がお母さんの膝の上や、添い寝してもらいながら、お母さんに読んでもらう本で、子供はもっぱら絵を見ている。これらの絵本の特徴は、巧拙は別として、大変丁寧に描かれていることである。幼児の澄んだ眼を畏れてのことであろう、見ていて気持ちが良い。
( http://www.alice-it.com/lib1.html 参照 )

先日、ちょっと調べたいことがあって、子供図書館へ行った。大人の図書館の中に併設されているもので、靴を脱いで、絨毯の上に座って、色んな本を眺めていると、実に楽しいのである。子供の世界に闖入したお爺さんがあまりも長居するのもはばかられ、早々に引き上げたが、還暦を過ぎて、少しずつ、子供へ向かって帰りつつあるのかも知れない。
  大人のほうが子供より優れているとは思わない

一度は反発を感じた挿絵画家であるが、今は、もし、神様が、もう一度、生まれ変わって、挿絵画家になるかとおっしゃるのなら、喜んでお受けしたい。若い時期に、厳しい修行を積み、今のようなまくら人間ではなく、毅然と、渾身の力を傾けて、よい挿絵は描いてみたい。貧しくとも妻子を養う収入が得られるなら、子供が喜びそうな本の挿絵をこつこつ描いて、それが本と共に流布していく楽しみを味わいながら、生活でればと思う。

 
遊山31号に掲載
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    宮垣 余間