不思議の国より不思議な国のアリス     
「ハウルの動く城」とアリス Sophie vs. Alice

 帽子屋の目立たないソフィーが、魔女によって18歳から90歳の老婆に変身させられる。90歳にさせられたソフィーは寝込むのであるが、「変身」のグレゴール・ザムザと異なり、やがて、気を取り直し、起き上がり、住み慣れた帽子屋から密かに家出するのである。その際、パンやチーズを持ち出すことを忘れない。町外れの高台を登る時の足腰の痛み、息切れや持参のパンをを齧る孤独感も伝わってきて、そこには血の通った人がいる感じがする。

 「動く城」に潜り込んで、掃除人としてせっせと働くうちに、(そう言えば「千」もやはり掃除が仕事だった)皺の少なくなって、元気になっていくのも面白い。どんな事態にも素直に対応していく点、ソフィーはアリス的なのである。
この城の出口はいくつかの世界に繋がっており、あるときは、町へ、荒野へ、お花畑と切り替られる。不思議の国では、お庭に続く小さなドアしか開かなかったが、次々と別の世界へ赴くことのバリエーションとも考えられる。また、年齢の変化は「不思議の国」でのアリスの体の大きさの変化に対応するのかも知れない。

その城主のハウルは美青年で、美女の心(臓)を取って食べると恐れられている。エネルギーと才能を兼ね備えた好青年で、何者かと雄雄しく戦っているようである。物語はソフィーとこの青年との関わりを縦糸として進行するのであるが、まだ映画を見ていない人のために書かないでおく。ただ、ソフィーが若い頃に戻ったかと思うと又おばあさんに逆戻りするシーンが何度か出てくるが、そのたびに見るものは心が締め付けられる。
ソフィーはハウルに恋をしているのである。

この物語は「勇気」を持って「異界」を「アドベンチャー」する「少女」の物語であるという意味で、前作同様「アリスの系譜」に入ると思った。

異なるところは、他の登場人物との関係である。ソフィーは自分を老婆に変えた荒地の魔女、敵方の手下の犬ヒンを含めて、分け隔てのない愛情で包みこみ、一種の家族関係をつくるのであるが、そのようなことは「アリス」では起きなかったことである。多くの評者も指摘していることだが、この映画のメインテーマを「母性」だとすれば、老婆のソフィーはどこかマザーテレサの面影を漂わせているように思った。アリスにも、特に「鏡の国」においては、母性の萌芽を感じるが、なんと言っても7歳半なので、ソフィーとは比較にならない。そして、最も異なるのは「恋」であろうか。このことによって、ソフィーは最後に18歳の戻るのである。
公爵夫人なら「愛だ!愛だ!世界を動かすのは」と叫ぶところだ。魔法を解く鍵はグリムを初め多くの童話が示しているように、「愛」と「勇気」であるが、この「ハウルの動く城」もこの正当な伝統の上に立って、ハッピーエンドに終わる。

 ナンセンスの度合、つまり、支離滅裂の度合は、前作以上であるが、キャロルの1章ごとに全く場面転換する凄さには及ばない。ただ、全体が、中世ドイツあり、ビクトリア朝イギリスがあるかと思うと飛行機も存在するといった「ごった煮的」であり、ヨーロッパの人が見たら驚きくに違いない。

 水のイメージやあふれるほどのお湯は前作通りだが、特に広々とした澄んだ湖(前作では海)は宮崎駿の好む景色の一つで、ソフィーがその前に座って「こんな穏やかな気持ちになるのははじめて」と言うとき、私たちもそんな気になるから不思議である。新しく処では、火の悪魔カルシファーを制するものとしての水が出てきている。
空を飛ぶ場面、鉄道、登場人物を含め、前作と対比できるイメージが多かった。

 前作の湯屋に対応する、あのガラクタの寄せ集めのような「動く城」は何であろうか?映画のパンフレットの中で、養老孟司が、宮崎駿の車が、世界一汚い車であること指摘していることは面白い。大変鋭い指摘で、この城は宮崎駿の意識そのものでなければならない。そしてそこを根城にしているハウルは宮崎駿その人ということになる。いつも身の回りをきれいに整えてくれるお母さんを宮崎駿は、男は、求めているのであろうか?

 この世界は魔法の掛け合いの世界で、一種の蜃気楼なのでである。最後に魔女サリハンが「この戦争もそろそろ終わりにしなくては」言うくだりは、テンペストのプロスペローと同様、妖術にかかったこの世界を終わらせたいという願いが込められている。

倍償千恵子、木村拓也達声優もよく、音楽と共に楽しめる2時間であった。

 腰の曲がった老婦人が杖を引いて来ておられたのも印象に残った。

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