「不思議の国より不思議な国のアリス」
アリスのアイデンティティ(5)
裸のアリス
Alice in the nude

キャロルが少女の裸の写真を撮ったということで、海外でどうか知りませんが、日本ではロリコンの一派とみなされことがあるようです。

アリスのアイデンティティを考えている今、丁度良い機会ですから、ここのとに少し触れたいと思います。

「不思議の国のアリス」では、アリスの体は伸び縮みして、どれが本当のアリスか分からなくなるのですが、この物語で、キャロルが主人公に施したデフォルメは、写真の上では、モデルに、支那服を着せたり、赤頭巾のマントを着せたり、色々な衣装を着替えさせることによって行っています。キャロルはアリスを多く撮っていますが、中でも1859年の乞食姿のアリス写真は有名です。何故この写真が面白いかというとヴィクトリアの上流家庭のお嬢さんとしての衣装が剥ぎ取られているからです。私たちはより本質に迫ったアリスをここで見ることになります。裸のアリスまで後一歩です。これがキャロルの本質に迫るやり方です。アリスの裸を撮ったかどうか知りませんが、アリスはキャロルの撮った裸の少女の仲間です。

私は、裸婦のクロッキー(素描)を中学3年から今まで数千ポーズ(1ポーズ5分から20分)描いてきました。日曜画家の端くれとして、申し上げるのですが、ヌードとロリコンが結びつくとはちょっと考えられません。

ヌードの本質は、余分なものをすべて取り去り、その本質に迫るところにあります。

裸婦のモデルに対峙した時の感動は、虚飾を去ったものがそこにあり、そしてそこに美しさが現前しているという感じなのです。大昔から繰り返し繰り返し描かれたのこのためです。この美を規範とするため、絵描きや彫刻家は終生裸婦を描きつづけます。ピカソ、マチス、ロダンをはじめ、大家の多くは晩年まで描き続けました。テニエルなど西洋の挿絵画家たちも裸婦デッサンの厳しいトレーニングを経たであろうことはその挿絵が物語っています。(日本の挿絵が見劣りするのは裸婦を描いた量の差と言っていいくらいです。)虚飾を廃した実存の姿ということでは、その裸婦がお婆さんでも感動を呼びます。勿論、子供、少女でもそうです。描く立場から言っても、そこにあるのは実存と美の感動であって、もしエロティックな要素が絡むとしてもほんの僅かなのにはいつも驚きます。
裸婦を目の前にする感動と、例えば、満開の目連や桜の木の前に立つ時の感動とそれほど大きな差はありません。

人体は神の似姿と言っても良いくらい美しく、人の裸身で表現されたギリシャ彫刻の神々はなんと美しいことでしょう。そしてヨーロッパではイタリア・ルネッサンスで大きく花開き、神話として男女のヌードが描き続けられました。19世紀の半ばになりますと、神話から離れた裸体が現れます。マネの「オリンピア」「草の上の昼餐」(いずれも1863年)で物議をかもしたものの、後は次第に人の裸体は市民権を得ていきます。キャロルの時代もそうした時代でした。

キャロルは絵も描きたいと思っていたのですが、(私から見て才能もあったと思われますが、)ラスキンの忠告もあって、あきらめます。その代わり、絵はよく観ています。そこに、登場したのがカメラだったのです。画家が鉛筆や絵筆でするように、彼は、カメラによって、この実存と美の象徴とも言える裸婦に向かったのではないかと思います。
ただ、ヌードは少女に限られたのは、大人のヌードは、芸術として、まだ認知されておらず、オックスフォードの先生で、アマチュアのカメラマンとして手を出せるのは子供が限度だったのでしょう。

裸体に関しては、ポルノグラフィーというものがあります。エロティックな感情を刺激するためのもので、これもある意味で人間の本質に迫るものなので話がややこしくなります。特にヴィクトリア時代には発達したと言われていますが、私はまだ見たり読んだりしたことがありません。いつの世もそうですが、こちらの愛好家も芸術愛好家に劣らぬくらいいるものです。
また、どんな名画でも妄想を逞しくすればポルノグラフィーとなり得ます。

そして、更に話を複雑にしているのは、シュールレアリズムやその背景にある精神分析などの流行によって、エロティズムや異常なものが芸術の一翼を担うからです。穴に入ったり、伸びたり縮んだりするアリスが格好のモチーフとなります。我が国のアリスも金子国義をはじめとして、サイケデリックで奇妙なアリスが現れます。

私はキャロルの追ったのは後二者には余り関係がないように思います。時代の風潮として、ワーズワスやブレークの詩で知れるように、子供は純粋なもの、聖なるもの担い手と見られており、子供の裸は自然なもの、無垢なものの象徴であって、天使にも通じます。
キャロルの少女ヌードはこの延長線上にあると考えるのが自然です。水辺の写真が多いのは原初的なものへの憧れを示しています。

キングスリーは裸の「水の子」を登場させましたが、アリスは服を着、靴を履いています。
しかし、「不思議の国のアリス」では、涙の海の後、コーサスレースの後、ご褒美にアリスがポケットからお菓子を取り出すところからエプロンらしい物を着けていることがわかり、また、最後、スカートの裾で陪審員を飛ばしてしまうところ以外は、ほとんど衣装には触れられていません。我々はテニエルなどの挿絵で、アリスはヴィクトリア朝のお嬢さんらしい服をつけていたであろうと思っているのです。

キャロルはカメラで裸の少女を追ったように、アリスを描く時も、余分な飾り物を廃した裸の自然児アリスを描こうとしたのではないでしょうか?
アリスのアイデンティティを考える時、生のアリス、裸のアリス、素足のアリス、これも忘れたくない大切な要素だと思うのです。


05・3・31

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