arsさんからYukoさんへのお便り  05・2・3
 
   [編者注:「アリスの系譜」の中のYukoさんのご意見について、arsさんがご自身のホームページにご意見を書かれ、Yukoさんや鈴木真理さんと意見が交わされました。その後、arsさんのホームページが見えない状態になってしまったものですから、arsさんにお願いして、改めて、再構成して、メールでご意見を戴いたものです。]
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Yukoさんは、『千と千尋の神隠し』を「アリスの系譜」に置かれておられますが、これは無理なところがあるのではないかと思われてなりません。玉砕されたHPに載せたのは、『誰もしらない・・・』の作者佐藤さとる氏の経歴をご覧頂き、北海道の結核療養所で『誰もしらない・・・』を著わしたことを再考して欲しかったからです。が、これだけでは無理だったようです。そこで、今度は、先ず、「アリスの系譜」というところから始めさせていただくことにしました。

 「アリスの系譜」---『霧の向こうの町』、『千と千尋の神隠し』---
『霧の向こうの町』とアリスとは直に結びついていると思われますが、『霧の向こうの町』を下敷きにしたとされる『千と千尋の神隠し』は、下敷きを大幅に書き換え、アリスの物語をも凌駕しているというのではないでしょうか。
 
『千と千尋・・・』で強烈ないし印象的なシーンの一つに湯屋に糞尿まみれの神さまがやって来て、千が格闘するところがあります。
あの糞尿まみれの神さまは、『霧の・・・町』には出て来ません。宮崎監督の創作です。『平成狸合戦ぽんぽこ』の後で、インタヴューにこたえた宮崎監督。創りたい映画として江戸時代の長屋における店子と大家の糞尿争奪戦を描きたいと言っていました。
ヴィクトリア時代の庶民のトイレをご覧になったことがありますか。
便座は木製。江戸時代もヴィクトリア時代も一時的に溜めておくのは変わりませんが、最大の違いは江戸時代には厠の糞尿を農民に売り、商売になっていたということです。大家と店子の間で糞尿をめぐって争われ利権問題。店子たちは排泄した糞尿はもともと自分たちのものだから、売って出た利益は自分たちのものだと主張。大家の場合の言い分は、自分の長屋の厠を店子たちは利用しているのだから、販売して得た金銭は大家のものだというものです。この糞尿を肥料としてリサイクルするというトイレ周りの慣習は、ヴィクトリア時代のトイレよりずっと衛生的なものでした。ヴィクトリア時代は、貧しい人々のトイレは水をとるところに隣接し、伝染病蔓延を生む要因を成していました。トイレの排泄物が飲み水に侵入するだけでなく、下水施設の不備は、例えば、テムズ河の汚染に直結していました。
糞尿の神ですが、八万の神とは云え、スゴイ!と単純に思いました。民話で、お風呂に入って垢が出ますが、垢を固めて人形を作ったら子供になったというのがあります。最初、ウンチの神様がいてもおかしくはないとも思ったのですが、しっくり来ませんでした。そこで、思い出された
のが江戸時代の長屋の糞尿争奪戦云々という宮崎監督のコメントでした。
 
アリスのイメージには糞尿の神はそぐわないのではないでしょうか。もちろん、千尋のファンタジーの世界ないし異界とアリスのそれが異質なのだと言われればそれまでです。しかし、ファンタジー、異界のことにしても現実の世界との関係を完全に無視できない、ギャップが有り過ぎると現実からファンタジーの世界である異界への移行に困難を感じてしまうのではないでしょうか。
 
★★白と白の川

日本の神さまの観念からは、白が川の神様だということになるでしょう。西洋版では、川と川に棲む妖精ないし準神的存在は別々に認識されているのではないでしょうか。白から連想されたのはJohn RuskinのKing Of The Golden River: The Black Brothers(ita.)でした。日本の神さまは汎神論的で、自然から道徳的なものを学ぶことができますが、黄金の川の王は川にいるpertainsとはいえ、人格神ではないでしょうか。
 
★★★「共生」と「異界」

産業革命により都市の人口が急激に増大したこと、都市、町の中心地に押し寄せた労働者が住み着いたことによりスラムが生まれ、余裕のある人たちが郊外へと移ることになりました。ご存じのように、清浄化は、スラム対郊外という物理的な空間だけでなく男女、階級、服装だけでなく、精神的なものにまで及んでいると思われます。典型的なものは精神分析です。「意識の流れ」にも受け継がれているのを感じます。

Yukoさまが「アリスの系譜」と言われるのは、「異界」への入り口が明示されているもののことだと思われます。佐藤さとる氏の『誰もしらない・・・』には、空間的な、「異界」への入り口がないから「アリスの系譜」には入らないとのことでした。

つぎにYukoさまが指摘されておられるのは、アイヌの人たちとコロポックルとの共生です。
20年以上も前になりますが、アイヌの人たちを北海道で見たことがあります。観光客相手に歌を歌ったり、楽曲を奏で、踊ったりしていました。頭では、コロポックルというノームとの共生というのが理解できても、血肉から理解することは出来ませんでした。
後から北海道出身の人からアイヌの人たちへの被差別性を教えてもらいました。Yukoさまが指摘された「共生」ですが、アイヌの人たちだけでなく、ネイティヴ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニーの人たちも神々ないし神的なものと共生しているとされています。でも、ネイティヴ・アメリカンの人たちもアボリジニーの人たちも居留地に住み、生活保護を受けています。矢張り、差別されています。ネイティヴ・アメリカンもアボリジニーも夢が未来を教えると古くから信じているそうです。夢、神と「共生」しているとされています。しかし、蔑まされた環境にいる人間にとって、共生が意識裡のこととはいえ、夢を未来のお告げとして信じ続けることができるでしょうか。差別されながら、コロポックルと遊ぶことがどこまで可能でしょうか。逃避、夢想、などを想像できますが、そうするにもかなりの努力が要るのではないでしょうか。そこで、「誰もしらない」ということにより佐藤さとる氏が言おうとして
いるのは、アイヌ人をも含めての「誰もしらない」ということではないかと思われます。すなわち、コロポックルと共生しているとされるアイヌの人たちも意識しなければならないということです。

★☆★☆キャロル「異世」の意識について語る

そこで、取り上げなければならないのが、「共生」と「異界」との関係です。どちらも意識の問題として見てみましょう。「現実」とファンタジーの世界という「異界」について意識という観点からキャロル自身が以下のように言っています。
『シルヴィーとブルーノ 完結編』の序でキャロルは私たちの意識には以下の3つの状態があると言います。
 
(a) 妖精の存在を意識していない普通の状態
 
(b) 「無気味な」状態。現実の周囲の状態を意識しながら、妖精の存在をも意識している。'Eerie'
 
(c) 夢うつつの状態。現実の周囲の状況を意識せず、一見すると眠っているかのような状態。 trance
   現実世界では他の場所に移り、妖精の国では妖精の存在を意識する。 
 
Yukoさんも指摘されておられるように、ゲゲゲの鬼太郎の世界は妖怪と私たちの意識が(c)の状態にあるときのものです。キャロルが日記で触れていた天使は、(b)ないし(c)でしょうか。
コロポックルと(c)の状態にあるとされるアイヌの人たちですが、(c)ないし(b)の状態から(a)への移行を
余儀なくされたのではないでしょうか。
 
★☆★☆★ 「アリスの系譜」の意味するもの
 
ここで、Yukoさんが「アリスの系譜」と言われるとき、異界へ入るための異質さを感じさせるものが存在するということが前提ないし想定されているということでした。(a)の状態から(b)さらに(c)へと移行・移動させるための操作と考えられます。「異界」への入り口は物理的なものにより示されているのですが、これは意識、心の問題だからではないでしょうか。
晴天の霹靂で異界へ突き落とされるのではなく、心の準備、意識のうえでの覚悟をさせてくれるものをYukoさまは「アリスの系譜」という名のもとに置かれておられるようです。これは、急遽バーンと(c)に投げ込まれたら・・・どんな気持ちになるでしょうか。「ギョッ?!」とびっくりするだけでなく、「ついて行けない」、「狂っている!」、「どうにかなりそうだ!」と感じるのではないでしょうか。現実バリバリの理性が勝っている場合、「妖精な〜んか知らないもんね」、「ファンタジーだって?ケッ!夢だけでは生きていけないよ!」と言うでしょう。しかし、夢か現かという状態に意識が入った場合、(a)の状態での理性的なものは働くなくなり、意識は別の働きをするようになるでしょう。そこで、Yukoさまが指摘された「アリスの系譜」はCogito「我思う」という近代的理性の意義を問いなおすように働きかけていると思われます。言いかえれば、Yukoさまがファンタジーへの誘いを「アリスの系譜」とされたのは、(a)〜(c)への移行の巧みさにおいてキャロルの右に出るものはいないということになるでしょう。

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  arsさんへ編者より  05・2・3

ご意見の要約、再構成ありがとございました。私もYukoさんに近い考えを持っておりましたので、arsさんの切り口は大変新鮮に思いました。
色々興味深い話題の中で、「共生」「異界」というYukoさん提起された問題を、キャロルを引きつつ、意識のレベルの問題へと導かれるところは、哲学者arsさんらしいと思いました。
同じ時間と空間を共有するとき共生であり、共有していないとき異界と感じるのですが、その境目は面白いですね。お陰で色んな思索へのきっかけを戴きました。

私が一つ気になっている点は、これまでの「アリスの系譜」論?の中で、主人公アリスについての議論がまだなされていないことです。千とアリスの比較などご意見があればお聞かせください。


  arsさんから鈴木真理さんへ

   [編者注:上記と同じ頃、交わされたメールのやり取りです。]

>キャロルがシェイクスピア劇をたくさん見ていたというのも、
>楽しい発見でした。彼は観劇記録のようなものを残していますか。
 
日記に記録されています。
リチャード・ランスリーン・グリーン氏編・注による古いヴァージョンよりも新しいエドワード・ウェイクリング氏によるものの方がお薦めです。
 
日記に俳優、歌手のパフォーマンスを批評記録を残しています。ご存知のようにキャロルの父は息子の観劇については批判的でした。この親子の観劇に対する対照的な態度は父をハイチャーチへ、息子をローチャーチに所属させています。北米キャロル協会のサイトにもあるように、この区分は当時は世間一般的なものだったのでしょうが、それだけでは済まない、片付けられないと以前から感じておりました。

キャロルは節度のある人なので、実は以前からキャロルの演劇好きを理解できずにいたのですが、日記に観劇における夢想性illusionが挙げられています。1855年6月22日、金曜日に観た『ヘンリー8世』でキャサリン女王に天使が降りてくる場面について記しているところです。

". . . Oh, that exquisite vision of Queen Catherine!  I almost held my breath to watch: the illusion was perfect,
and I felt as if in a dream all the time it lasted.  It was likea delicious reverie or the most beautiful poetry.  This is thetrue end and object of acting --- to raise the mind above itself, and out of its petty everyday cares --- never shall I forget that wonderful evening, that exquisite vision --- sunbeams broke in through the roof, and gradually revealed two angel forms, floating in front of the carved ceiling: . . . floated a troop ofangelic forms, transparent,  . . . :they waved these{=palm branches]over the sleeping queen, with oh! such a sad and solemn grace. So could I fancy (if the thought be not profane) would real angels seem to our motral vision, though doubtless our conception is poor and mean to the reality."
 
「人間が頭で理解する天使は、(神をそしることにはならないとしても)実際のところ、貧相でパッとしないものだろうが、不完全で死すべき人間の眼にもこの劇に登場した天使たちは本当に映るだろうと思ったのだった」というのです。天使の透明性、優美さ、荘厳さが論より証拠だ(った)ということですね。
 
ここでは、頭での理解に対する観るることを通しての直裁的理解の優位が挙げられているのですが、ここで取り上げたいのは、観劇での天使のvisionが夢のようだったということです。となると、ハイチャーチの頑固で依怙地な観劇反対の立場に対して、観劇を通して天使を観ることができ、観劇の全てが不謹慎ではないということになるでしょう。キャロルにワン・ポイント!です。
 
ところで、夢、夢想reverie、幻想illusionはファンタジーpoetryに深く関わっていることは言うまでもありません。
これは、「共生」と「異界」という図式を出されたYukoさんがずっと関心を抱いておられたものではないかと思われます。実は、「異界」には、安部清明が怨霊を追い払うというイメージが私自身にはあるのですが、ここでは、そうした狭い意義云々は停止し、ファンタジーに関わる範囲で異界について話題にすることにさせてください。
 

   鈴木真理さんからarsさんへ

キャロルの日記に、観劇記録が残されている件を教えていただき、ありがとうございました。

父親が観劇に反対でハイチャーチに所属、キャロルはローチャーチというご指摘、私は始めて知り、大変興味深く思いました。それぞれの教会で、演劇はどのように捉えられていたのでしょう。

19世紀後半から20世紀はじめにかけて、劇場は高級娼婦が出入りするところで、女遊びと関連があったと読んだことがありますが、そのせいでしょうか。

またローチャーチのほうが福音派でピューリタンに近く、娯楽には厳しい態度をとるように思っていましたが、違うのでしょうか。

キャロルは、観劇によって夢の世界を見ているわけですから、彼にとって劇場は「異界」への入り口だったのかもしれませんね。


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