Yukoさんも指摘されておられるように、ゲゲゲの鬼太郎の世界は妖怪と私たちの意識が(c)の状態にあるときのものです。キャロルが日記で触れていた天使は、(b)ないし(c)でしょうか。
コロポックルと(c)の状態にあるとされるアイヌの人たちですが、(c)ないし(b)の状態から(a)への移行を
ここで、Yukoさんが「アリスの系譜」と言われるとき、異界へ入るための異質さを感じさせるものが存在するということが前提ないし想定されているということでした。(a)の状態から(b)さらに(c)へと移行・移動させるための操作と考えられます。「異界」への入り口は物理的なものにより示されているのですが、これは意識、心の問題だからではないでしょうか。
晴天の霹靂で異界へ突き落とされるのではなく、心の準備、意識のうえでの覚悟をさせてくれるものをYukoさまは「アリスの系譜」という名のもとに置かれておられるようです。これは、急遽バーンと(c)に投げ込まれたら・・・どんな気持ちになるでしょうか。「ギョッ?!」とびっくりするだけでなく、「ついて行けない」、「狂っている!」、「どうにかなりそうだ!」と感じるのではないでしょうか。現実バリバリの理性が勝っている場合、「妖精な〜んか知らないもんね」、「ファンタジーだって?ケッ!夢だけでは生きていけないよ!」と言うでしょう。しかし、夢か現かという状態に意識が入った場合、(a)の状態での理性的なものは働くなくなり、意識は別の働きをするようになるでしょう。そこで、Yukoさまが指摘された「アリスの系譜」はCogito「我思う」という近代的理性の意義を問いなおすように働きかけていると思われます。言いかえれば、Yukoさまがファンタジーへの誘いを「アリスの系譜」とされたのは、(a)〜(c)への移行の巧みさにおいてキャロルの右に出るものはいないということになるでしょう。
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arsさんへ編者より 05・2・3
ご意見の要約、再構成ありがとございました。私もYukoさんに近い考えを持っておりましたので、arsさんの切り口は大変新鮮に思いました。
色々興味深い話題の中で、「共生」「異界」というYukoさん提起された問題を、キャロルを引きつつ、意識のレベルの問題へと導かれるところは、哲学者arsさんらしいと思いました。
同じ時間と空間を共有するとき共生であり、共有していないとき異界と感じるのですが、その境目は面白いですね。お陰で色んな思索へのきっかけを戴きました。
私が一つ気になっている点は、これまでの「アリスの系譜」論?の中で、主人公アリスについての議論がまだなされていないことです。千とアリスの比較などご意見があればお聞かせください。
arsさんから鈴木真理さんへ
[編者注:上記と同じ頃、交わされたメールのやり取りです。]
>キャロルがシェイクスピア劇をたくさん見ていたというのも、
>楽しい発見でした。彼は観劇記録のようなものを残していますか。
日記に記録されています。
リチャード・ランスリーン・グリーン氏編・注による古いヴァージョンよりも新しいエドワード・ウェイクリング氏によるものの方がお薦めです。
日記に俳優、歌手のパフォーマンスを批評記録を残しています。ご存知のようにキャロルの父は息子の観劇については批判的でした。この親子の観劇に対する対照的な態度は父をハイチャーチへ、息子をローチャーチに所属させています。北米キャロル協会のサイトにもあるように、この区分は当時は世間一般的なものだったのでしょうが、それだけでは済まない、片付けられないと以前から感じておりました。
キャロルは節度のある人なので、実は以前からキャロルの演劇好きを理解できずにいたのですが、日記に観劇における夢想性illusionが挙げられています。1855年6月22日、金曜日に観た『ヘンリー8世』でキャサリン女王に天使が降りてくる場面について記しているところです。
". . . Oh, that exquisite vision of Queen Catherine! I almost
held my breath to watch: the illusion was perfect,
and I felt as if in a dream all the time it lasted. It was likea
delicious reverie or the most beautiful poetry. This is thetrue end
and object of acting --- to raise the mind above itself, and out of its
petty everyday cares --- never shall I forget that wonderful evening, that
exquisite vision --- sunbeams broke in through the roof, and gradually
revealed two angel forms, floating in front of the carved ceiling: . .
. floated a troop ofangelic forms, transparent, . . . :they
waved these{=palm branches]over the sleeping queen, with oh! such a sad
and solemn grace. So could I fancy (if the thought be not profane) would
real angels seem to our motral vision, though doubtless our conception
is poor and mean to the reality."
「人間が頭で理解する天使は、(神をそしることにはならないとしても)実際のところ、貧相でパッとしないものだろうが、不完全で死すべき人間の眼にもこの劇に登場した天使たちは本当に映るだろうと思ったのだった」というのです。天使の透明性、優美さ、荘厳さが論より証拠だ(った)ということですね。
ここでは、頭での理解に対する観るることを通しての直裁的理解の優位が挙げられているのですが、ここで取り上げたいのは、観劇での天使のvisionが夢のようだったということです。となると、ハイチャーチの頑固で依怙地な観劇反対の立場に対して、観劇を通して天使を観ることができ、観劇の全てが不謹慎ではないということになるでしょう。キャロルにワン・ポイント!です。
ところで、夢、夢想reverie、幻想illusionはファンタジーpoetryに深く関わっていることは言うまでもありません。
これは、「共生」と「異界」という図式を出されたYukoさんがずっと関心を抱いておられたものではないかと思われます。実は、「異界」には、安部清明が怨霊を追い払うというイメージが私自身にはあるのですが、ここでは、そうした狭い意義云々は停止し、ファンタジーに関わる範囲で異界について話題にすることにさせてください。
鈴木真理さんからarsさんへ
キャロルの日記に、観劇記録が残されている件を教えていただき、ありがとうございました。
父親が観劇に反対でハイチャーチに所属、キャロルはローチャーチというご指摘、私は始めて知り、大変興味深く思いました。それぞれの教会で、演劇はどのように捉えられていたのでしょう。
19世紀後半から20世紀はじめにかけて、劇場は高級娼婦が出入りするところで、女遊びと関連があったと読んだことがありますが、そのせいでしょうか。
またローチャーチのほうが福音派でピューリタンに近く、娯楽には厳しい態度をとるように思っていましたが、違うのでしょうか。
キャロルは、観劇によって夢の世界を見ているわけですから、彼にとって劇場は「異界」への入り口だったのかもしれませんね。
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