ロンドン通信 132

人気のナショナルシアター

鈴木 真理


ナショナルシアターは政府から助成金を受けており、商業劇場ではできないものに挑戦し、伝統を受け継ぎ、同時に革新を目指すことをその使命としています。このナショナルシアターがこのところ、ヒット作を連発しています。

そのひとつが、HIS DARK MATERIALSです。これは同名の子供向けファンタジー小説(邦題『ライラの冒険』)を舞台化したものです。子供向けといっても、3部作で合計1300ページという長編。ミルトンの『失楽園』からインスピレーションを得たもので、既存の宗教観に疑問を呈し、物理学の理論も盛り込んだ、大人にも読み応えのあるものです。全能の神が死んでしまったり、キリスト教とはまったく異なる死後の世界が登場したりするので、保守的なキリスト教会の中には、この本を読むことを禁止したところもあります。しかし子供にとっては、ワクワクする冒険が次から次へと繰り広げられる、夢の世界です。

1300ページの長編が、2部構成で、各3時間の舞台に凝縮されています。主人公のライラは私たちが住む世界とは異なる世界に住んでおり、そこから私たちの住む世界やそれ以外の世界に冒険の旅をしていくので、3時間のあいだに55の場面展開が必要となります。これを可能にしているのが、ナショナルシアター自慢の3層式回転舞台です。それに加え、コンピュータを使って作成したデジタルイメージを舞台上のスクリーンに投射することにより、異次元の世界をうまく表現しています。

ライラの住む世界では、人間は各自が、自分のデーモンと呼ばれる動物を持っていて、それといつも行動を共にすることになっています。その動物は、持ち主の個性によって、猿であったり豹であったりします。その人の心がその動物で表現されているわけです。子供のうちはその時々の気持ちによってデーモンが猫になったり蝶になったりと変化しますが、大人になるとある動物に決まってしまい、変化しなくなります。なぜこれをデーモンと呼ぶかは明らかにされていませんが、聖書にあるアダムとイブの楽園追放の物語を思い出していただければ、推測がつくことと思います。イブを誘惑した蛇はデーモン(悪魔)だったわけです。

このデーモンが、文楽や歌舞伎の黒子にヒントを得て、舞台で生き生きと演じられています。動物の人形を黒子が操りながら、その持ち主である人間のあとを追いかけたり、その人間と対話をしたりするのです。人形は眼が光るようになっており、その動きとあいまって、本当に生きているように見えます。人形には光源を確保するために特別製のバッテリーが組み込まれ、長時間の使用に耐えられるようになっています。

人気小説の舞台化、しかも国立劇場であるため、一般の商業劇場より3割はチケット代が安いとあって、予約席は発売早々売切れでした。しかしナショナルシアターには、熱心な演劇愛好家のために便利な制度があります。朝チケット売り場の前に並べば、当日券を手に入れることができるのです。私はHIS DARK MATERIALSの最終日、土曜の朝に並びました。チケット売り場オープンの2時間以上前に到着したのですが、徹夜組も含め、すでに50人ほどの列ができていました。私の少し前には、ドイツのハンブルグからやってきた親子連れが並んでいました。父親の話によると、今日が息子の誕生日で、この本が大好きな息子のため、今日の観劇をバースデープレゼントにしようと昨日飛行機でロンドン入りしたというのです。彼らが当日券を手に入れた瞬間、事情を知る周囲の人たちは皆、自分のことのように喜びました。2時間以上待っている間、周りの見ず知らずの人たちと演劇談義で盛り上がり、退屈することはありませんでした。私もラッキーなことに当日券が手に入り、大満足の朝でした。

2005・4・23
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