ロドン通信 130

アウシュビッツ解放から60年

プリモ・レーヴィの体験を語り継ぐ


鈴木真理

ナチスドイツがユダヤ人を大量虐殺したことで知られるアウシュビッツの強制収容所が、ソ連軍によって解放されてから今年でちょうど60年になります。ロンドンに住んでいると、ユダヤ系の人が身近にたくさんいるため、『私の母はホロコーストの生き残りなの』とか『おばあちゃんはアウシュビッツにいたのよ』などという話をよく耳にします。解放の記念日(1月27日)には、アウシュビッツで、地元であるポーランド、ドイツ、ロシア、イタリア、フランス、英国などの各国代表や、収容所から生還した人々、犠牲者の家族などが参列し、追悼記念式典が行われました。BBCも一日中、この模様を中継していました。

60年前のことでありながら、今でも身近なこととして人々の記憶に残っているこの出来事ですが、10年後の式典には高齢化によって実際に強制収容所を体験した人々の参加が難しくなること、英国では若い世代で、アウシュビッツを知らない人が増えてきていることから、テレビのレポーターは、人間性を踏みにじる大きな過ちの記憶が風化する危惧を訴えていました。

プリモ・レーヴィという名は日本ではあまり知られていませんが、彼の著作は、アンネ・フランクの『アンネの日記』と並んで、ホロコースト文学としてよく知られています。イタリアに生まれ、大学教育まで受けたのに、ユダヤ人であるためアウシュビッツに送られたプリモは、故郷のイタリアに戻ってから、アウシュビッツでの体験を綴った本を出版しています。その第一作であるIF THIS IS A MANをもとに、俳優アントニー・シャーが、『PRIMO』という一人芝居の脚本を書きました。演じているのは彼自身です。昨年後半にナショナルシアターのコッテスロー劇場(ナショナルシアターの3つの劇場のうち、一番小さい劇場)で初演されましたが、チケットは即時完売で、私は手に入れることができませんでした。人気が高いため、年明けにハムステッド・シアターで再演されることが決定、発表と同時にチケットを予約して、私はその舞台を何ヶ月も心待ちにしていました。

アントニー・シャーは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで、マクベス、『オセロ』のイアーゴ役などを演じ、日本公演もおこなっているので、ご存知の方も多いと思います。彼自身ユダヤ人であり、またナチスの迫害対象であった同性愛者でもあるため、プリモの体験を語り継ぐことは、彼にとって格別の重い意味を持っているようです。

彼の舞台をご覧になった方はお分かりになると思いますが、シャーの演技はいつでも、飛んだりはねたり、走りまわったりと、派手な動きが特徴です。その彼が『PRIMO』では、感情を抑えた、静かな演技に徹していました。この一人芝居は、プリモがアウシュビッツでの日々を回想するという設定になっています。舞台上には椅子がひとつと、収容所の壁を思わせるごつごつした感触の背景があるだけです。舞台の左3分の一に光が当たると、そこがシャワー室になり、中央に光が当たると戸外での作業の場面になるというように、照明が効果的に使われていました。こんなシンプルな舞台が見るものを捉えて離さないのは、レヴィーの原作が持つ、人の魂を揺さぶる力と、それを語り継ごうとするシャーの熱意によるのだと、私は思います。

劇の冒頭部分でプリモは「アウシュビッツに到着して先ず驚いたのは、相手に怒りや憎しみを抱いていないにもかかわらず、人間が人間を、思い切り殴ることができるという事実であった。」と回想しています。それからの日々は、この人間性の否定が、想像を絶するスケールで展開されていきます。シャーは役作りのために、ドキュメンタリーを見、関連書籍を読み、ディスカッションをし、アウシュビッツを訪れ、生還者に実際あって話を聞くのですが、プリモの気持ちや体験を少しでも自分自身のものにできるよう、もうひとつ別のことに挑戦しています。

彼以外に、ユダヤ人俳優1人、ドイツ語に堪能な俳優3人を集め、それぞれ囚人仲間、看守などに扮して、収容所での状況を再現するワークショップを2週間にわたって実施したのです(この俳優たちはもちろん、実際の舞台には登場しません)。人間性を奪われるとはどういうことか、仲間に対しても人間らしさを捨てなければ生き抜けない過酷な状況とは、理解できないドイツ語の命令や怒号に震えながらも、即座に対応しなければ命に関わる状況とは、不安な暗闇に置かれるのはどういうことか。プリモ自身の体験には遠く及ばないながらも、このワークショップを経験したことが、シャーの抑制された演技に深みを与えているように思いました。

劇は、ソビエト軍によって収容所が解放されるところで終わります。客席は重い感動に包まれていました。人間が人間に対して犯した忌まわしい所業に、深い悲しみと怒りを感じた夕べでした。

05・3・14
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