ロンドン通信 129

サイモン・ラッセル・ビール
のマクベス

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鈴木真理



サイモン・ラッセル・ビールは、英国人俳優の中でも、シェイクスピアのせりふを自分のものとして語れる役者として有名です。その彼が始めてマクベスを演じるということで、このプロダクションは開幕前から注目を集めていました。

マクベスが上演されるアルミダ(Almeida)劇場は、商業劇場の集まるウエストエンドからは少し離れたロンドン北部のイズリントンという地域にあり、客席数は少ないのに、質の高いプロダクションで有名です。この劇場には法人および個人のサポーターが数多くいて、採算にとらわれない芸術性の追求を可能にしています。

さてマクベスといえば、勇猛果敢な武将というイメージがあるのですが、サイモン・ラッセル・ビールが演じるのは、従来のマクベス像を打ち破るものでした。武将というよりは、思索する人といったほうがふさわしく、剣を手にする場面さえ、ほとんどありません。哲学書を片手にしているほうが似合いそうです。

舞台には装置といえるものも、小道具もほとんどなく、舞台も背後の壁もすべて黒く、マクベスの心の闇を表現しているようです。このなかで、俳優のせりふだけが勝負のシェイクスピア劇が展開されます。サイモン・ラッセル・ビールのせりふ回しは、決して感情を高ぶらせるものではないのに、淡々としているわけでもない、言い知れない余韻を漂わせるものです。せりふが途切れる瞬間に、マクベスの心の痛みが伝わってくるような気がしました。

ダンカン王殺害を犯してしまった直後から、彼の苦しみは始まります。Sleep no more: Macbeth does murder sleep (もう眠れない!マクベスは眠りを殺した)
というところから、マクベスは破滅に向かう道を、一歩一歩進んでいくだけです。スコットランド王に戴冠されても、 嬉しそうな様子も見せません。それが死に向かう一里塚でしかないことを、彼はすでに悟っているからです。

最終幕、バーナムの森が動き出す最後の5つの場面は特に印象的です。私が今まで見たマクベスはすべて、最後まで戦って果てるというものでしたが、サイモン・ラッセル・ビールは武具もつけず、椅子に腰を下ろして、自分の運命を静かに待ち受けています。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow で始まる有名なせりふも、彼が語ると、明日に何の希望もなく、ただ時間の過ぎるのを待っているだけの絶望的な状況が、ひしひしと胸に迫ってきます。

マクダフとの一騎打ちの場面も、自分から攻撃することはせず、相手の刃の下に自らすすんで身をさらす、自殺行為の様相を呈しています。Hold , enough (もう十分だ。終わりにしてくれ。)という彼の最後の言葉は、彼がこの不運な人生から決別する言葉として使われています。

彼の死と共に、舞台に置かれていた小さなロウソクの火を、魔女役の女性が吹き消します。欲望に負けて間違いを犯してしまった人間のたどる苦しみと末路を、強く印象付ける悲劇でした。

サイモン・ラッセル・ビールがひときわ光る舞台ではありましたが、マクベス夫人のエマ・フィールディングも、正気を失った夢遊病のシーンが出色でした。また演出のジョン・ケアードは、マクベスに子供がないことが権力欲に走った要因と見て、白い服を着た子供たちを色々な場面で登場させます。マクダフの妻子殺害の場面、ここではマクベス自身も殺害現場を見ているという演出になっており、子供たちが数人登場します。マクベスが自分の運命を再度魔女に訪ねに行く場面では、3人の子供たちが魔女と一体化しています。シェイクスピアのせりふの中に、babyやchildrenが何度も出てくるのを意識した、興味深い演出でした。

05・03・06  目次へ