ロンドン通信 123

      ノッテイングヒル カーニバル

毎年8月最後の週末、ロンドン西部にあるノッティングヒルという地域で、カーニバルが開催されます。規模としてはリオのカーニバルに続く世界第2位、ヨーロッパのカーニバルとしては最大のものです。期間中に100万人が見物に訪れ、大音響のサウンドシステム、スチールバンドの演奏、華やかなコスチュームをつけた人々のパレードが繰り広げられます。

カーニバルの会場であるノッティングヒルは、私の家から2〜3キロ離れているのですが、当日は朝から、ベースの音が響いてきます。私と娘は今回初めてこのカーニバルを見に出かけましたが、交通機関の混乱を避けるため、地域一体はバスも自動車も進入禁止、最寄の駅も閉鎖されているので、徒歩に頼るしかありません。近づいていくと、地域全体の通りがお祭り会場になっており、あちらからもこちらからも、にぎやかな音が響いてきます。通りには群集整理の警察官が並び、あふれかえる人々を必死にさばいています。よく見ると警察官はみんな耳栓をつけています。一日中この大音響の中にいると、耳がおかしくなってしまうからでしょうか。

パレードのコースになっていない脇道に入ると、そこには食べ物を売る屋台がずらっと並んでいます。チキンを炭火で焼き、煮豆とライスをそえたものや、揚げた魚など、カリブの料理です。このカーニバルは、カリブ海周辺諸国からやってきたブラックカリビアンの人たちが、40年前にはじめたお祭りなのです。しかしなぜ、遠く離れたロンドンでカリブのお祭りが開催されるのでしょうか。話は400年ほど前、シェイクスピアの生きた時代に遡ります。

スペイン、ポルトガルに一歩遅れて大航海時代に突入した英国は、1600年に東インド会社を設立、海洋王国として成長を始めます。コロンブスが発見した西インド諸島(カリブ海地域)にも積極的に進出し、1623年には現在のセントクリストファー・ネイビスに入植、1627年には現在のバルバドスを占拠というように、英国の覇権を拡大していきました。このような国々で必要な労働力をまかなうため、アフリカの黒人が奴隷としてカリブの島に連れてこられました。これが現在のブラックカリビアンの祖先です。

このような国々はやがて大英帝国の一部に組み込まれていきますが、奴隷制は長く続きました。トリニダード・トバゴで奴隷制の廃止が発表されたのは、1833年のことでした。人々は通りに出て歌と踊りでこれを祝いました。奴隷であった時代は、ヨーロッパの伝統であるカーニバルの期間だけしか、音楽を演奏することは許されていませんでした。それも主人を楽しませるための音楽でした。しかし自由を得た彼らは、そのカーニバルを、自分たちのものに再構築していきます。カーニバルで顔を白く塗り、主人であるヨーロッパ人の装いを真似るのは、過去の奴隷制に対する抗議の意味がこめられていました。

こうして彼らの間にカーニバルの伝統が受け継がれていくのですが、それがロンドンにやってくるのは、第二次世界大戦後のことです。戦後旧植民地国が独立していく中で、英国は1948年、British Nationality Actを定め、旧植民地から英国にやってくる人々に市民権を認めることになりました。同年カリブから最初の移民船が到着しています。彼らは夢を求めて英国にやってきたものの、生活状況は厳しく、人種的偏見にさらされていました。そのような中、集まってダンスを踊ったり、パブでスチールバンドの演奏を行うことにより、ブラックカリビアンは故郷を思い出し、慰めとしていたのです。

1964年、このスチールバンドをノッティングヒルのストリートフェスティバルに招き、子供を中心として、黒人も白人も共に自己表現の場とすることを目指したのが、ノッティングヒルカーニバルの発端でした。スチールバンドのリズムを聞いた近隣のブラックカリビアンたちは、通りに飛び出し、これに加わったといいます。こうしてカーニバルは年々盛んになりました。1976年にはカーニバル中に黒人の若者たちと警官の衝突が起こるという事件もありましたが、現在ではブラックカリビアンだけではなくいろいろな民族グループの人々も参加、観光客も魅了して、ロンドンの一大イベントに発展しています。

ロンドンは700万人あまりの人口の中に、1万人以上の住人を持つ英国人以外の民族コミュニティーが45も存在しています。最大のものはインド、次にパキスタン、それにブラックカリビアン、ブラックアフリカンが続きます。いずれも英国による植民地時代を経験した民族です。幸いなことに植民地時代も奴隷制も経験していない日本から来た私は、そのお祭りだけを楽しむことにちょっぴり後ろめたさを感じながら、陽気な人々と共に、夏の終わりの一日を過ごしたのでした。

  04・10・18    目次へ