ロンドン通信 110    


       手話が主役の舞台


テニス仲間の友人がお芝居に誘ってくれました。娘さんがエキストラとして初めて舞台に立つからということで、私はお芝居の内容も知らないまま、仲間5人と一緒に車に乗って出かけました。ロンドンから西へ2時間ほどドライブすると、古代の巨石建造物であるストーンヘンジの近くに、ソールズベリーという古くからの町があります。ここは13世紀に建てられた大聖堂で有名です。Thomas Hardyの作品に登場する「メルチェスター」という地名は、実はソールズベリーのことです。目指すSalisbury Playhouse(ソールズベリー劇場)は大聖堂のそばにありました。

お芝居の題名は、CHILDREN OF A LESSER GOD。生まれつき耳が聞こえず、話すこともできない若い女性が、言語療法士の青年と出会うところからお芝居が始まります。二人は次第に愛し合うようになりますが、彼女を少しでも健常者の世界に近づけたいと考える彼と、音のない自分の世界を大切にしたいと考える彼女のあいだに、乗り越えなければならない大きな壁が立ちはだかります。この作品は1980年代にロンドンのウエストエンドでヒット作となり、米国では演劇部門でトニー賞を受賞。1986年にはウイリアム・ハート、マーリー・マトリンの主演で映画化されています。(邦題は『愛は静けさの中に』)

私はこの作品について何も知りませんでしたが、プログラムを手にしたとき、友人の娘さんは耳が不自由だったことを思い出しました。耳の不自由な子供たちの学校が主な舞台となっているため、主人公の女性をはじめ、耳の不自由な登場人物はすべて、実際に耳の不自由な人たちが演じています。みんな舞台に立つのは初めての経験です。これに対し、健常者の役はすべて、プロの役者が演じています。友人の娘さん(23歳)は、聾唖学校の生徒の一人を演じていました。

主役の二人は、手話でしかコミュニケーションがとれません。彼は手話をしながら、その内容を言葉に出して話します。彼女はそれに対して手話で返事をするのですが、彼はそれを言葉に出しながら解釈するので、彼女の思いが、手話を知らない観客にも通じるようになっています。舞台では手話が主役で、彼はそれを説明するため、しゃべり続けなければなりません。観客のほうも、二人の会話を理解するため、普通のお芝居の何倍もの神経を使います。3時間あまりのお芝居が終わったときには、健常者と耳の不自由な人が理解しあうことの難しさと、劇のテーマの重さで、一緒に行った5人はぐったりしてしまいました。

友人の娘さんはSarahという名前です。劇中では、耳は不自由だけれど、言語療法士の指導で発声法を学び、言葉を話すことのできる16歳の生徒で、重くなりがちな劇を明るくし、観客を笑わせる役割を見事に演じていました。実際のSarahは、生まれたときから健常者のもつ聴力の20%しかありませんでした。補聴器は今も欠かせない存在です。聴力が低いため、普通の子供のような言語発達ができなかったそうです。そこで母であるLilianは、Sarah が4歳のときから、ロンドンで一番といわれる言語療法士のもとへ週2回通ったそうです。普通の学校に入学させてからも、学校の授業が終わるのを待ち構えて、やはり週2回、その療法士のところへ通い続けました。これをSarah が13歳になるまで、休みなく続けたそうです。その頃Lilianは最初の夫と離婚してシングルマザーだったはずです。女手ひとつで二人の子供(Sarahには、兄がいます。兄のほうは健常者です)を育てるため、仕事もバリバリこなしていたはずです。(今もビジネスウーマンとして活躍中で、つい最近までは赤いアルファロミオ、現在はBMWの黒いスポーツカーに乗って、得意先を走り回っています。)

こんな母の努力はしっかり実を結びました。Sarahの話すのを聞いても、彼女の耳が不自由なことはほとんど感じさせられません。劇の監督さんは彼女にこういったそうです。

「君の演技はとても素晴らしいよ。ただひとつ文句をつけるとしたら、聾唖学校の生徒の役にしては話すのが上手すぎることだね。」

私は劇にも感動しましたが、Lilianの母としての姿にも深い感動を覚えました。その日Lilianは、娘の晴れ姿を見るため、大変なおしゃれをして出かけました。友人の一人が「あなた娘の結婚式に出かけるような格好じゃない」と冷やかしたほどです。でもLilianはこう言いました。

「あの恥ずかしがりでおとなしい子が、大勢の人の前で舞台に立つことに挑戦してくれたのよ。結婚式と同じくらい嬉しいわ。」

母の強さとありがたさを、しみじみ感じた一日でした。

参考

日本や米国では5月の第2日曜が母の日ですが、英国では毎年、イースター(復活祭)の3週間前の日曜が母の日です。イースターの日が太陰暦を基に決まるので、母の日も毎年異なります。今年は3月21日でしたが、来年は3月6日になります。カーネーションを贈る習慣はありません。

(写真:ロンドンで今が満開の藤の花)

04・5・9         目次へ