ロンドン通信 103
 
       東欧の古都プラハ 3
 
ロンドンには、国籍は英国人でありながらユダヤの文化と歴史を大切にしている人達がたくさんいます。同じユダヤ系と言っても、ユダヤ教の教えを厳格に守っている人から、それほどでもない人まで色々ですが、祖国を追われて2000年近くたつのに、その文化を伝え続けていることを常々不思議に思っていました。例えば毎年9月末から10月始めにJewish New Yearが始まります。テニスクラブのユダヤ系のある友人に「日本ではいつが新年なの」と聞かれて、「英国の新年と一緒」と答えたら、なんだつまらないという顔をされたことがあります。古い暦を大切に守り続けている彼らにとって、新しい暦にすっかり移行してしまうのは、思いもよらないことだったようです。
 
プラハには旧ユダヤ人街があり、ユダヤ人の歴史を辿るミュージアムがあります。ロンドンで接しているユダヤ系の人達のことをもっと理解できるかもしれないと、私はその見学を楽しみにしていました。普通のミュージアムとは違い、街の中に点在するユダヤ教の教会(シナゴーグ)や墓地を巡ると、中世からボヘミア、モラビア地域に住んでいたユダヤ人の歴史が分かる仕組みになっています。シナゴーグは礼拝のための神聖な場所ですから、ロンドンでは興味本位で中に入ることを遠慮していましたが、プラハで初めてその内部を見ることができました。シナゴーグの中心は、神から与えられた律法を記した巻物(トーラ)です。これを保管、装飾するために、昔から様々な工芸品がつくられてきました。ミュージアムには色々な年代の装飾品が展示されていますが、プラハにユダヤ教に関連する一大コレクションが存在するのには理由があります。ユダヤ人絶滅プログラムを遂行していたナチスドイツがこの地に「絶滅した人種のミュージアム」を建設しようと計画、各地のシナゴーグを破壊して略奪した装飾品をここに集めたからです。
 
ミュージアムの一部であるピンカスシナゴーグでは、礼拝堂の壁に、チェコ全土でホロコーストの犠牲となったユダヤ系市民全員の名前と、誕生および死亡年月日が細かい字で記されています。その数77,297名。現在チェコで生活しているユダヤ系市民はわずか5千人ほどですから、その影響の大きさを感ぜずにはいられません。前回のロンドン通信で言及したトム・ストッパードの祖父母の名もこのなかにあります。トムの父は靴製造工場で医師として勤務していましたが、ナチスのプラハ侵攻直前の1939年、シンガポール工場に転勤となります。ナチスの対ユダヤ人政策と国際情勢を憂慮した彼は、賢明にも家族を連れて赴任。トムがまだ2才のことでした。しかしこの若い家族にとって、ここも安住の地ではありませんでした。1942年に日本軍がシンガポールに侵攻。彼は妻と子どもたちを一足先にインドに避難させます。同年2月、彼もやっとの思いでシンガポール脱出を果たしたのですが、その船が日本軍の空爆にあい、家族との再会はかないませんでした。夫を失ったトムの母は、インドで靴販売店を切り盛りして生計を立てていましたが、英国陸軍少佐ケネス・ストッパードと出会い再婚、まもなく家族は英国に渡ります。こうしてチェコ語を話していたトムが、英国人トム・ストッパードに生まれ変わるのです。トムが9才のことでした。
 
トムの人生は、祖国との別れ、家族との別離、海難、新しいアイデンティティーと、まるでシェイクスピアのロマンス劇のようでありますが、幸運に恵まれたと言うべきでしょう。ピンカスシナゴーグには、子どもたちの絵を展示した一室があります。アウシュビッツへの中継点であったテレジン収容所で生活していた子どもたちが残した絵です。親から引き離され、物資も乏しい中で、一人のユダヤ人女性画家の指導で子どもたちは絵を描いたそうです。やがてこの画家もアウシュビッツのガス室に送られ、子どもたちもほとんどが命を絶たれました。画家の死後、小さなトランクが2つこの世に残ったのですが、そのなかには4000枚を越す子どもたちの絵が大切に収められていたそうです。このなかの何十枚かが部屋に展示されています。絵を一枚一枚見ながら、この子たちの未来を奪ってしまった人間の愚かさに憤りを感ぜずに入られませんでした。プラハは美しいだけでなく、人類の歴史の暗部も教えてくれる街でした。
 
03/11/18         目次へ