ロンドン通信 101
 
         東欧の古都プラハ 1
 
娘のポーランド旅行中、夫は日本に出張することが決まっていました。そこで私はこれ幸いと、以前から行ってみたかったプラハへの一人旅を計画しました。旧社会主義国へ足を踏み入れるのは初めてのことです。小学生の頃よく聞かされた「鉄のカーテン」の向こう側に行くのだと思うと、時代の流れを感じずにはいられません。プラハはロンドンから、直行便で2時間あまりの空の旅です。
 
第2次世界大戦で空爆を受けることがなかったため、この街にはロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、アール・ヌーヴォーなど、それぞれの時代様式を示す美しい建物が数多く残っています。角を曲がるごとに目の前にあらわれる光景は、まるで歴史上のひとコマのようであり、過去にタイムスリップするような感覚をおこさせます。建物や風景を見ながら歩くのがあまりにも楽しいため、私は時を忘れて歩き続けました。しかしこの美しい街には、数々の悲しい歴史も秘められています。
 
10世紀に成立したボヘミア王国は1620年に滅亡、隣国であるハプスブルク帝国の支配を受けるようになります。第一次世界大戦後チェコスロヴァキア共和国が成立して独立が達成されますが、わずか30年でこれも崩壊、今度はナチスドイツの保護領にされてしまいます。第二次世界大戦後は共産主義体制となりますが、ソ連の介入が厳しく、1968年の「プラハの春」事件では多くの犠牲者を出しました。ホテルやカフェが並び、にぎやかなヴァーツラフ広場には、ソ連の軍事介入に身をもって抵抗した若き英雄の記念碑があります。また街の南にある東方正教会は、ナチスの弾圧的な恐怖支配に抵抗し、当時ボヘミア・モラビア地方の最高指導者であったナチス高官ハイドリヒ暗殺を敢行したチェコ人兵士たちの隠れ家でした。これを突き止めたナチス軍隊が教会を包囲、徹底抗戦する反乱兵士7人を壊滅させました。教会の外壁にはこの時の弾痕が生々しく残っています。

東方正教会の弾痕と
レジスタンス記念碑
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兵士たちをかくまった罪で、教会の司祭はもちろん、信者やその家族、さらに見せしめのため実際には関係のない人々まで、5千人もがナチスによって処刑されました。反乱兵士の拠点とされる村(これは事実ではなかったのですが)は、住民全員が処分され、この村の名は地図上から抹殺されたそうです。現在この教会は、愛国の英雄たちを偲び和解を祈る場所となっており、当時の記録を展示し、ドキュメンタリー映画を上映するミュージアムが併設されています。
 
この映画には、暗殺の再現映像と共に、ナチスが撮影した当時のプロパガンダ用フィルムが使用されています。モノクロフィルムには、ナチスの旗を正面に掲げたプラハ城、時計台のある市庁舎広場で開かれた反乱軍糾弾集会、ヴァーツラフ広場で市民を総動員して開かれたナチスに忠誠を誓う集会などが記録されています。どの場所も今は観光客であふれ、人々の笑い声が絶えないところですが、フィルムの中の市民は皆、こわばった表情をしているのが印象的でした。
 
旧共産主義国家を偲ばせるものは現在ほとんど残っていません。かつて街を見下ろす広場に世界最大のスターリン像が立っていたそうですが、今はその影もありません。「プラハの春」は悲劇に終わりましたが、1989年の「ビロード革命」を経て、チェコは自由な民主主義国家への道を歩んでいます。この動きを率いてきたのがヴァーツラフ・ハヴェル(Vaclav Havel)現大統領。彼は劇作家でもあり、体制を批判して投獄された経験もありますが、自国の文化を愛する民衆に支えられ、現在に至っています。共産主義時代はキリスト教が禁止だったはずですから、数々の聖堂や教会が今のように美しい状態で保存されているということは、その復元にたいへんな努力が払われたことを示しています。プラハが経験してきた様々な歴史に思いを馳せながら、私は街を歩き続けました。
 
 03/11/01
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