160 猫: 私の話を続ける前に、「ただ、ここで起きることは見性。これに尽きます。他の一切のものは不要です」とおっしゃった意味を解説していただけませんか。とくに「他の一切のものは不要です」という言葉の意味を図りかねています。

 

161 アリス: 見性即ち仏性を見る。猫さんの言葉では霊性の回復とでもなるのでしょうか。それが起きるとそれで完結するので、一切のものが不要であるという意味です。逆に、他の何かが必要であれば完結していないことになります。完結という言葉がいいのかどうか分りませんが・・・。

猫さんの2つ目の段階で頂点に登り切ってしまい、後は降りて行く過程となるのですがそのあたりのことはまだ分っておりません。頂点にたつと潜在意識が手にとるように分るのであれば、私はその域に達しておりませんので、159のようなお願いとなった訳です。

あるいは、潜在意識の掃除ということで話が進んでいるので、猫さんの4つのステップは頂点に登るプロセスを示しておられるのかも知れないと考えて見たりしております。

霊性と潜在意識との関連が理解できていないのかもしれません。

 

162 猫: 私は仏教の用語を正確には理解していないと思いますので、もし間違っていたら、ご教示ください。

 見性ということが、おっしゃったように「仏性を見る」ということだけにとどまるのであれば、私はそれは「霊性回復の十二章」の第一章を終ったに過ぎないと考えます。確かに、仏性について考えたり論じたりしている段階と、ほんのすこしでも仏性そのものに触れたことがある段階は、明らかな差があります。そういう意味で、見性を非常に重要視するのはわかりますが、見性はあくまで出発の第一歩であろうと、私は推測します。

 では見性の先にある目標というのは何でしょうか。それは常時仏性の中に住まうことです。それを成仏といったら間違いでしょうか。もちろん、私たちは意識的に自覚しようがしまいが、仏性の中に住んでいます。私たち自身が仏性なのです。成仏とは、そのことを自覚し、一切の迷いのない状態にありつづけることです。

 たとえば、厚い雲に覆われた世界で生活している生き物がいるとして、そのような生き物に太陽の光の話をしたとします。生き物たちは、雲の下の薄暗がりの光は理解できますが、太陽の直射日光の強烈な輝きは想像することもできません。ところがあるとき、雲の隙間から突然光が差し込んだとしましょう。その光を目の当たりにした生き物たちは、たしかに太陽の光の話が、作り話ではないことを理解します。自分の目で見た日光の強烈な印象を彼らは決して忘れないでしょう。けれども、雲が閉じてしまえば、世界は相変わらず薄暗がりの中です。日光の輝きは思い出の中に残っているだけです。

 私は、見性というのは、この雲間から漏れる光を見たようなものではないかと考えていますが、誤解でしょうか。霊性回復とは日光を垣間見ることではありません。雲を全部吹き飛ばして、日本晴れの青空の下で、さんさんと降る太陽の光を全身に浴びながら生きることなのです。

 

 私の話の続きをしましょう。潜在意識と取組むためには四つの段階があるといいました。これらの段階は、一方通行で順番に通過していくようなものではありません。一回の取り組み、たとえば瞑想、がこのような段階をふむということです。

 あるときはリラクゼーションだけで次の段階に入れずに終ってしまうということもあります。確かに第二段階の「静かな覚醒」の状態に達した、と思えることもあります。第三段階から先に進むためには、この覚醒の状態をある程度持続できなければなりません。

第二段階に入るだけでも、潜在意識を浄化する働きがあります。人間の心には、心理学的なストレスやコンプレックスに相当する低エネルギーの塊がいくつもありますが、このようなものは、第二段階にはいるだけで自然に少しずつ分解され、蒸発するようです。したがって、ある一回の取り組みが第二段階までで終ったとしても、そのような取り組みを何度も繰り返しているうちに、第三段階に入れるようになります。

逆に、第三段階まで入れるようになっていたのに、この世の出来事で振り回されて心が乱れたために、第一段階もうまくできなくなる、というように逆戻りすることもあります。

 このようにして、何度も何度も繰り返して取組むうちに、次第に心の奥深く入ることができるようになり、最も根源的な幻想にも取組むことができるようになるのだと考えています

 

163 アリス: <見性ということが、おっしゃったように「仏性を見る」ということだけにとどまるのであれば、私はそれは「霊性回復の十二章」の第一章を終ったに過ぎないと考えます。確かに、仏性について考えたり論じたりしている段階と、ほんのすこしでも仏性そのものに触れたことがある段階は、明らかな差があります。そういう意味で、見性を非常に重要視するのはわかりますが、見性はあくまで出発の第一歩であろうと、私は推測します。>

その通りかもしれません。というのは、十牛図という悟りへの道を十段階に表したものがありますが、その3番目が「見牛」で、これに当たるとされています。師家から牛の尻尾を見た程度に過ぎず、やっと、スタートライン付いたことを教えられます。(ちなみに、第二は「見跡」第四は「得牛」)

「霊性回復の十二章」では第一章ということになるのでしょうが、これは全章読まないと分りません。

<「仏性を見る」ということだけにとどまるのであれば、>という表現ですが、今の私には理解できません。真に「仏性を見る」つまり、一切、仏性以外に何ものもないと自覚を持つということですが、それに尽きるのではないでしょうか。これは前回の繰り返しとなりますが・・・。<この雲間から漏れる光を見たようなもの>とはちょっと印象が違います。見ている私はもはやその時には存在しません。仏そのものなのです。ただ持続という点では不安定です。そこで、雲のようなものがかかっているのではないかと思うわけなんです。

ですから、私の体験を延長すれば<霊性回復とは日光を垣間見ることではありません。雲を全部吹き飛ばして、日本晴れの青空の下で、さんさんと降る太陽の光を全身に浴びながら生きることなのです。>と言うのではなく、仏性、光そのものとして輝き続けることなんです。

そして、本来仏であるものが、なぜ、苦しむのか、修行がいるのか、といったこれまで繰り返してきた疑問に立ち返ってしまいます。

これが猫さんの「霊性回復の十二章」と交差するのか今のところ分りません。

 

164 猫: 「霊性回復の十二章」というのはあとでお話ししますが、実は私が勝手に作っているものなので、何ら権威あるものではありません。おおげさな言い方をして申し訳ありません。

 

 <真に「仏性を見る」つまり、一切、仏性以外に何ものもないと自覚を持つということですが、それに尽きるのではないでしょうか>とおっしゃいましたが、重要なところなので、この対話を読むひとのために、その真意を確認しておきたいと思います。

「仏性以外に何ものもないと自覚を持つ」ということは、「仏性以外には何もない」という観念を持つこととは違いますね。それは、「仏性である『自分』を自覚する」ことであり、「仏性として生きる」ことであり、「仏性として存在する」ことだと言えるのではないでしょうか。Doing ( thinking) ではなくbeing なのです。

 その意味で、見性は「雲間から漏れる光をみた」というようなものではなく、「光そのものになる」ことだとおっしゃる言葉のほうが、もっとストレートに真意が現われていると思います。「見る」という言葉は、「見性」というので使っただけの話ですが、確かに、見る者と見られる者の分離対立を暗示します。「私が仏性そのもの」であれば、もはや仏性を対象として見ることは不可能なわけですね。

私はそのような体験を前回の対話の中では「静かな覚醒」と呼びました。キリスト教的な「神と交わる」という言い方をすることもあります。人により、宗教宗派により、呼び名はさまざまですが、同じことだと思います。

 通常、私たちはこれをほんの瞬間だけ、ほんとうに一瞬のきらめくような体験として、体験します。気がついたときには終っている、というような体験です。アリスさんが、どのような体験をなさったのかわかりませんが、最初の体験というのは、「いま私は光になっている」という体験ではなく、「いま、私は光になっていた」という事後の記憶ではないでしょうか。けれども、この一瞬の体験の影響というか後遺症(決して悪い意味ではありません)が、体験の時間的短さに比べると、信じられないほど大きいのです。場合によっては、1秒にも満たない体験が、その人の一生を根底から覆してしまうような体験となることもあります。

 けれども、十牛図に示されているように、私たちの進むべき道がそれで終わりになるわけではありません。それはあくまで第一歩です。旅行にたとえれば、ほんとうに玄関から一歩を踏み出した、ということに過ぎません。それまでは、ただ旅行案内書を読んで、「ああ、パリというのはこんな町か」とわかったようなつもりになっていただけです。

 

 では、このあとの霊性回復の旅というのはどんなものなのでしょうか。いろいろな宗教宗派にいろいろな教え方があるようですが、私は一つの表現として次のようなものを考えています。いわばこれは私の十牛図です。

 

霊性回復の十二章

序章   霊性について書いた書物を学ぶ

第一章  瞑想を実習する

第二章  突発的に瞬間的な覚醒を体験する

第三章  ある程度覚醒が持続する

第四章  覚醒の中の自分を自覚できる

第五章  覚醒の中を観察できる

第六章  覚醒の中で意志を働かせることができる

第七章  覚醒に入ろうと思えば、いつでも覚醒に入れる

第八章  覚醒の状態で肉体が行動できる

第九章  行住坐臥、常時覚醒状態にある

第十章  物質性の観念を消去する

第十一章 自他合一を体現する

第十二章 自=他=神=無を体現する

 

 仏教系の方から見ると、「覚醒の中の自分を自覚」したり、「覚醒の中で意志を働かせる」などという言い方には違和感があるかも知れませんね。仏性の中では「自分」はないのかも知れませんね。

けれども、覚醒の状態(アリスさんの言葉でいえば「仏性を自覚する」というのと同じだと考えていますが)というのは、人間が霊性に目覚めることであり、本来の霊的存在としてのあり方に戻るということです。そして、人間の本来の住処である霊的世界というものは、私たちが現在知っている物質世界よりもはるかに大きな世界であり、人間が霊的存在として存在するあり方は、肉体として物質世界に存在するよりもはるかにエネルギーにあふれた絶え間ない活動なのです。したがって、霊的世界の中で、私たちは「自分」を持ち、「意志」を持ち、「活動」を持ちます。ただし、これらの「自分」」や「意志」や「活動」が、現在の私たちの「肉体の自分」が持っている「自分」や「意志」や「活動」でないことは言うまでもありません。

 

 なお、誤解されないように、早手回しに告白しておきますが、私が「霊性回復の十二章」などと気取って、霊性回復の旅の全行程を書いてしまったことで、私がこの行程の終わりのほうまで行ってしまっていると思わないで下さい。私が、この旅の終わりのほうの段階について、なにか言葉にならないイメージを得ているというのは事実ですが、自分自身はまだ第二章と第三章のあたりをうろうろしているというのが実態だと自覚しています。つまり、アリスさんの状態とそれほど違うわけではありません。いわば、私はアリスさんと一緒に旅をしているけれども、誰か先のほうを行っている人から携帯電話で時々先の様子を知らせてもらっている、というような感じでしょうか。

 

165アリス:見性とは突発的に起きるので、猫さんの第二章でもありますが、師家はいろんな方面から、執拗にこれを点検し、最終、見性を認めますから、その間は<「仏性以外に何ものもないと自覚を持つ」ということは、「仏性以外には何もない」という観念を持つこととは違いますね。それは、「仏性である『自分』を自覚する」ことであり、「仏性として生きる」ことであり、「仏性として存在する」ことだと言えるのではないでしょうか。Doing ( thinking) ではなくbeingなのです。>と言われる通りで、言い換えれば<本来の霊的存在>の状態と思います。一時的に、猫さんの第十二章を含んでいるのかもしれません。

この間の状況は人によって差があるとも思えますので、人がどんな過程を経るのか興味があります。

さて、潜在意識の掃除に話を戻して、猫さんの第二章で<心理学的なストレスやコンプレックスに相当する低エネルギーの塊>が分解、蒸発するということですが、猫さんのご経験に即して、もう少し具体的にお話いただけませんか?この、<低エネルギーの塊>は第三章に進む障害物と位置づけられるのでしょうか?

 

対話48へ   対話50へ  トップへ  Alice in Tokyo へ