86 猫: 創世記にある「神が自分の形に似せて人間を作った」という言葉には、二重の意味があると思っています。

 一つは、神の意識の中における「体験者」としての人間で、これは神の性質そのものの顕在化(といっても物質化ではありません)です。

 もう一つは、物質世界という仮想世界の中に作られた肉体人間で、これも神に似せて作られています。不思議の国のアリスの言葉を借りて言えば、体験者がmyselfで、肉体人間がIです。

 肉体人間が神に似ているというのには、二つの意味があります。一つは、神と同じ創造する者creatorの性質をもっていることです。何でも創造したがりますが、私は、人間は無意識のうちに霊的世界(myselfの世界)にあるのと同じものを作り出そうとしていると思っています。もちろんまったく同じものを作ることはできませんので、できるだけ近い性質を持った真似事ですが。

 もう一つは、何者にも創られない、自分で自分を定義して行くものという性質です。神の性質の中で最も神らしいものというのは、「神を創ったものはいない」という性質です。神は何者にも創られず、自分で自分を定義し創り出してゆく存在です。以前にとりあげたI am who I am という言葉にもそれが表れていると思います。人間は、神によって創られたものであるにも関わらずこの性質を受けつぎ、自分で自分を定義して行くものとして創られています。私は、哲学を論じるほどの勉強はしていませんが、実存主義哲学の主張するところはこのことであろうと考えています。

 体験劇場という仕組みの中でこのことを考えれば、人間はmyselfにおいて何を体験するかを選び、それをIが体験するのだと言えます。

このことは、はからずもソフトウェアの作り方に言及することになってしまいました。 次回にソフトウェアについてお話しましょう。

 

なお創世記の記事の中で、神が「われわれに似せて」という言い方をしている点については、キリスト教会の中の一般的な解釈は、ご指摘のように「国王が自分のことをわれわれというのと同じ」ということのようです。ただし、調べて見ると、元のヘブライ語も複数を使っているようですので、ユダヤの王様も同じ言い方をしていたのかどうかよくわかりません。

 

87 アルス:実は楽しみにしていた「人は神の作った世界を体験するためにあるものとして、人間以外のものは、どうなのでしょうか?人間と異なるのでしょうか?」のお答えが無くて、ちょっと肩透かしにあった感じです。それから、肉体人間は神に似ているのでしょうか?それなら鳥や花は何なのでしょうか?

 

88 猫: たいへん失礼しました。ご質問を無視したわけではなく、忘れていただけです。

 二つの質問についてお答えします。

 先ず肉体人間は神に似ているのか、というご質問ですが、その意味が肉体人間の姿形が神に似ているかという意味ならば、神には如何なる形もありません、とお答えします。人間は、神に何らかの形を連想したがるようですが、神には形はありません。神は純粋の意識ですから、形も大きさも重さもありません。むしろ、そのような性質に関する観念が神の意識の中から生み出されてくるのです。人間の形は神に似ているわけではありませんが、神の意識の中から生み出された、ということはできます。肉体人間の何が神に似ているか、ということは、対話86でお話した通りです。

 次に、人間以外のものはどうか、という質問にお答えします。この場合、「人間以外のもの」という言葉は、「この三次元の物質宇宙に形をあらわしているものの中で」という意味に解釈します。

 まず、物質宇宙に姿をあらわしているものには、すべてに意識があります。山でも、川でも、鳥でも、花でも、みんな意識をもっています。もう少し正確に言えば、山や川に意識があるのではなくて、山や川を担当する意識があって、それが地球世界の中に山や川を表わしているのです。地球や太陽や銀河系にもそれを担当する意識があります。「担当する意識」という言い方に違和感をおぼえられるようでしたら、このような物質宇宙の姿がどのようにして創られるかについて、いままでお話していなかったかのも知れません。これまでの記録を読み直してみるとわかるのですが。必要なら改めてお話します。

 きょうは先を続けます。このように物質世界のあらゆる存在物は、それを担当する意識があって、それがそれぞれに固有の形を創りだして世界の中に置いたものです。このような意味で、あらゆる存在物は同等なのです。人間はその形を見て、これは生物だ、これは無生物だ、これには意識があるがあれには意識がない、などと区別をします。けれども、物質世界に存在するもので、このように背後に「担当者」である意識体がないものはありません。「山川草木悉皆成仏」というのは、このことを言っているのです。

 そこで、これらの人間以外のものが神に似ているかどうかという質問にお答えします。

まず、先ほど言ったように、神には如何なる形もありませんから、これらのものが姿形において神に似ているということはありません。これらが持っている形は、その担当者である意識が、そこに置くのに最も適切であると判断して置いているものです。

 次に、これらのものを担当する意識たちは、すべて人間と同等の意識たちであると考えてください。蜂を担当する意識が人間の意識より下等だったり、岩を担当する意識が人間の意識より鈍重だったりすることはありません。これらの意識たちは、担当する仕事が異なるだけです。そして、彼らはそれぞれの担当する仕事において、そこに何を表現するのかという役割をもっています。したがってそこに神の性質の一部が表現されることになります。人間は、神の中の「体験者」を表わし、「自ら自己を規定するもの」という性質を受けついでいます。岩の意識は、神の中の「不変性」や「永遠性」を表わしているのかも知れません。川の意識は、「永遠の新鮮さ」を表わしているのかも知れません。それぞれが神の中の何かをそこに表わします。そのような意味で、これらのものも、それが担当している役目にしたがって、神に似ているいえます。

 

 

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