アイルランドの細道  

デリーへバスで移動

朝、食堂では一人旅の中年の日本人女性に話しかけられた。英語の先生だという。何度もアイルランドに来ておられ、今日はゴールウエイへ行く積りとか。家族とは携帯電話のメールでやり取りするので安く付くと話しておられた。海外で携帯を使うと高くつくと聞いていたが、メールなら問題がないと分った。ポーリッジは美味しく、ベーコンは分厚かった。

晴れて気温は20℃。もう馴染となった中央バス・ステーションから、10時過ぎ、デリー(ロンドンデリー)行きのバスに乗る。客は10人くらいで、最初の停車は空港で、このあたり競技場などの建設が目立った。そこからは田舎で、車は渋滞することなく緑の中を行く。ハイウエーはどの国も変りがないが、標識は必ずゲール語が併記されている。穏やかな、広々した景色は美しい。その美しさは、絵葉書のようなスイスの景色や見渡す限りの拡がるフランスの畑とは少し違い、大半は牧草地で、パッチワーク状に広がり、農家も適当に散らばっていて、初めてなのに懐かしいと感じさせる人間的な風景だ。こんな中を毎日歩くのかと思うと、神様に、良くぞお招きくださいました、とお礼を言いたくなる。バスは時々、町と言うには余りも小さな町に止まり、客を乗り降りさせて走り、ダブリンとデリーの中間地点、モナガンという所では15分のトイレ休憩があった。ここでお茶も飲むことが出来る。これから歩くことになる原野なので、眼を凝らして外を見ていたので、北アイルランドへいつ入国したのか気付かなかった。やがて、水量の豊かなホイル河の対岸に、見事なデリーの街が大きな城のように迫ってくる。その景色の中に吸い込まれるように、バスは橋を渡って街に入り、右折してすぐバスターミナルに到着する。アット言う間の4時間だった。ここは私の徒歩旅行の基点となる大切な街である。

城門の前の、古いキルドホール前を通り、予約したB&B Saddler's Houseに向かう。街はダブリンに比べ少し汚れているようだった。B&Bは看板らしいものが無い普通の民家だが、簡単に見つかり、ベルを押すと年配の主人のピーターさんが出迎えてくれ、3階の部屋に案内してくれた。ピーター・オトールほど背丈は無いが、似ていなくも無い。部屋は清潔で気に入った。ドアの裏にガウンが掛かっていて、これはキモノのですから使ってもいいと軽口を叩いた。


B&B
サダーズ・ハウス

ギルド・ホール

観光案内所の
キャサリンさん

聖コラムズ大聖堂

城壁から郊外を見る

旧市街の中央
ダイヤモンド

リバーサイド・イン

城門


最初にしなければならないのは、旅行案内所に行って情報を仕入れることである。この旅の最初の問題点は、デリーからレタケニーまで出るには、40キロ近くあり、重い荷物を背負って1日に歩き切れないことで、そのために野宿の用意までしてきたのである。このデリーで妙案を探そうと思い、もし今日埒が開かなければ、もう一泊するつもりで、ピーターさんにもそのことを伝え宿を出た。
B&Bから案内所までは、もと来た道を戻り、ギルドホールやバス停を通り越し、さらに数分歩く。案内所は思った以上に広く、珍しく日本の婦人(おばさん)5、6人に出会った。白っぽい人を見慣れてきたので、この方たちが、地味な服装をしておられたこともあって、黒っぽく見えた。明日にはアラン島へ移動するという行動派で、葉書やパンフレットを見て回っておられた。私にはぽっちゃりとして色白のキャサリンさんという娘さんが対応してくれた。彼女は私の抱えている問題点をすぐに呑み込み、大きな地図を取り出し、地図の上で、一緒に頭をつき合わせて検討してくれた。ここから8キロぐらい先にBurtというところに宿を見つけ、そこが良いと電話を掛けて(相手が不在らしく何度も掛けて)予約してくれた。荷物に体を慣らすため、初日は短い距離でいいと思っていたので最高の解決である。地図を買い、目的地にマークしてもらい、これで一件落着と街を散策することにする。

デリーは17世紀からの城壁が完全に残っている珍しい街で、周囲1.6キロ、そこを歩くと全貌がつかめるので、先ず城壁に登った。上は5メートルの幅があり、ところどころに、黒いペンキが塗られた大砲が置かれていた。この城壁は3度の包囲線を戦い抜いた城壁であるという。歴史を学んできておればもっと感銘を受けたことだろう。城壁内は寿司折のように建物がつまっていて、聖コラムズ聖堂も見える。城外は新市街と言うのであろうか、その街並みの向こうの遠くの山並みも一望できる。明るい日差しが降り注いでいた。城壁を半分ほど回って、内側へ降り、旧市街を歩いた。中央に石畳の広い道が緩やかな勾配で通っている。

北アイルランドの通貨、ポンドは全く持っていず、ギネス一杯も飲めないと気付いた時、たまたま傍に銀行があったので、財布に残っていた日本円4千円を両替をしてもらいに入った。中では、一つの窓口に2人並んでいて、その列に付いて待っていると、別の男の銀行員がやって来て、もう一つの窓口を開けて、来るように合図してくれた。私は待つこともなくそちらの窓口で交換してもらった。無造作にポンド紙幣を私に渡すと男は部屋を横切って姿を消した。外に出てなんとなく沢山貰ったようなので、調べてきると320ポンドあった。海外で通貨が変るとしばらくお金の実感が伴わないのであるが、道々、妙だなと思いながら歩いていたのだが、銀行員が千円を1万円として交換してくれたようなのである。不思議なのは通貨の交換は換算レートと計算結果を示す紙切れを呉れるのが普通なのだが、その銀行員はむき出しのポンドをくれただけだった。何の証拠もないので今更引き返しても混乱するだけである。神様がアイルランド銀行を通じて私に小遣いを呉れたのかもしれないと思うことにした。

急にお腹が空いてきた。考えてみると昼はバスの中でチーズを齧っただけだので、5時前だが、夕食を摂ることにした。同じ摂るなら良い店でと路上でガイドブックを開いて調べ、1684年の建物の跡が残っているリバーサイド・インという、この街最古のパブへ行くことに決めた。地図で見ると、私はその店のなんと2メートルも離れていないところに立っているではないか。なんだか神様に操られている感じであった。パブの地下がレストランなので、そちらの方に入った。広いスペースで、一つのテーブルに5、6人の子供連れの2家族がいたが、3歳前後の子供たちはテーブルの周りや下にもぐって遊んでいた。時間が早かったので、客は私とその家族だけだった。ギネス1パイントを傾け、銀行での不思議な出来事を反芻しながら待っていると、注文のアイリッシュ・サーロインステーキ(80オンス230グラム)、温野菜のソースつき、ポテトのフライが運ばれてきて、そのボリュームに圧倒された。肉を選んだのは明日からの徒歩に備えるため。御代は12ポンド弱、チップを含めた14ポンド払って出た。あの案内所で出会ったおばさん達は今夜何処で食事をするのだろうか?会えば教えてあげたかった。

スーパーで明日の非常食としてトマト味の菓子パンなど仕入れて、B&Bに帰ってやることはインターネットへの接続である。ペーターさんの書斎で、接続の仕方を教えてもらったが、、もたもたしているところに、裏庭で花に水遣りしていた奥さんが戻ってきて、接続方法や建物のどのあたりが電波が強いかも教えてくれた。パソコンについては奥さんの方が詳しいようである。書斎は、高さ3メートル程の壁一面に書棚があり、歴史の本やスペイン語の本などぎっしり詰まっていて、旅行好きの先生ではなかったのかと想像した。娘さんの大学卒業の角帽を被った写真も壁に掛かっていた。子供の巣立った後の空き部屋をB&Bに活用しているのだろう。ようやく繋がったパソコンに今日の出来事を打って、掲示板へ送った。窓の下に見える大通りには人の歩く気配がない。遅い夜がやって来た。

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