アイルランドの細道
コーク到着

8時50分ホテル発、昨日の分岐点まで、30分強歩く。ブラーニーは大都会の奥座敷という感じで、こざっぱりとした家が多かった。南の潅木地帯は広々としたバード・サンクチャリーになっていて、遊歩道もあり、さらに遠景に緑の牧草地がゆったりとした丘となって広がる、気持ちのいい場所である。丘の向こうはコークのはずである。

分岐点は昨日迷った所で、覚えていたが、私は対向車線を歩くので、進行方向にあるはずの標識が見えず、若干の不安を抱きながら歩かなくてはならなかった。長い峠を越えて、1時間半以上も歩いて、小休止をした。前を装甲車が3台通り過ぎて行った。アイルランドにも軍隊があるらしい。
街へ入ったと思われるあたりで、都心までの距離を聞くと後4マイルと言う。いずれにしろ、思ったより遠そうだ。
11時40分、リー河を渡り都心に入る。コーク到着である。
コークは思い描いた街とは違っていた。ゴールウエイよりも大きく、近代的な感じがしたが、日本的感覚からすると、結構古い感じがした。
橋を渡ったところにコーク・オペラ・ハウスがあり、その前に、立派なレストランがあった。到着の祝いにギネスをやりたいところだが、まだ早いので、紅茶を頼んで、体を休めた。激しい雨となって、他に客のいないレストランで、窓越しに雨脚を眺めながらぼんやりしていた。昼時になったのでメニューを見せてもらうと、その中に、Yaki Sobaというのがあった。それは海老など豊富に入っていて日本の焼きそばを少し豪勢したようなもので、味もかなり近く、しかも箸が添えてあったので、本当にリラックスした。
コークの繁華街をゆっくりと進み、名所のひとつ、昨日の青年が勧めてくれたイングリッシュ・マーケットを覗いた。大きな屋根付きの市場だと思えばよい。魚、肉、野菜、・・・アイルランドの食材が一堂に売られている。専門店の集まり、築地の小型版と言った所である。
その少し先に旅行案内所があり、徒歩旅行の終点をコークの旅行案内所と決めていたので、完走したのである。登山で頂上を踏むのと違って、しかも、共に喜び合う仲間もいないので、特段の感動もなかった。ここで今夜の宿を取るのであるが、ダブリンへは鉄道でと考えていたので、駅の近くを希望したら、すぐに取れた。もう歩かなくてもよいのだから、タクシーで行けば楽なものを、歩く癖がついてしまって、しかも歩くことが即ち私の観光なのだから、宿まで30分かけて、繁華街を見ながら行った。赤や黄色の原色の店舗はおもちゃの町を歩いているようであった。途中にバスターミナルがあるので、ダブリンまでの値段を聞くとなんと13ユーロであった。

宿は古い駅前の旅籠で、これまで泊まったB&Bの中では建物、造作ではもっとも粗末なものであったが、女将、旦那の優しい応対にほっとした。驚いたことに、ここに日本の青年が寄宿していたのである。青年はワーキング・ホーリデイで来ている産能大の学生で、しばらく日本語の会話を楽しんだ。今はイングリッシュ・マーケットの八百屋で働いているという、明るい21歳の青年である。
しばらくベッドで横になって、体が休まったので、まず駅に行った。ダブリンまでの運賃を聞くとなんと66ユーロと言う。しかも路線は半分近くが私の歩いた道筋に沿っている。贅沢のできる身分でもないし、知らないコースを走るバスにしようと思い始めた。
夕食をとるために10分ほど歩いて繁華街に出た。どこにする当てもないのだが、昨日、ホテルでギネスを奢ってくれた青年が、このパブが良いと書いてくれたLong Valleyという店が頭にあった。書いてくれた地図が不完全で探しようもないのだが、ぐるぐる回っているうちに、その名のパブの前に立っていた。不思議な話である。店の主人に、同じ名前のパブが外にもあるのかと聞いたら、ここだけだという。古い店だそうですねというと、主人は顔をほころばして、そうだ・・・後の言葉が聞き取れなかった。10時半から始まるライブのポスターが張ってあり、そのころには賑わうのであろう。この時は、カウンターには男女一組と私。後ろのテーブル席で年配の婦人が2人ワインを飲んでいた。私はギネスとサンドイッチ(合わせて9.95ユーロ)を取った。サンドイッチは巨大なもので、おいしくて満ち足りた。

帰って、宿の女主人に色紙にサインをお願いした。これまで書かれたのを声を出して読み、独りうなずいていた。そして、ダブリンの宿の予約を入れてもらった。1ヵ月前に泊まった宿である。女主人はクレジッド・カードとパスポートを出しておくようにといって、電話をかけたが、私は顧客のデーターベースに登録されているらしく、カード番号も聞かれることもなくアットいう間に取れた。
それから、日本人青年が私の部屋へやってきて、話した。彼は自分の進路について悩んでおり、そのことについて話したかったのだ。サッカー選手になろうと頑張っていたが、体の故障で断念して、アイルランドに来て、日本の浮世絵の素晴らしさに目覚めて、その方向に進もうかどうしようかというのが悩みの中心である。日本へ帰って、絵師とか摺り師に弟子入りをしようというのである。夢を抱くのは青年の特権であり、その青年は何事にも体当たりするファイトの持ち主のようだが、正直のところ、その方向で成功する可能性は極めて低いといわざるを得なかった。
私は中学3年の時、画家になりたくて、父親に一晩中訴えたことなどその青年に話した。
久々に出会った日本人といつまでも話したいようだったが、私の方は疲れが出始めた。

徒歩旅行の緊張感はこの日本人青年との出会いによって不思議な形で緩んで行った。

(7月27日のこと)

続く 目次