アイルランドの細道

ゴートATMの事故 クルシェーン

今日はキャシュカードがATMに吸い取られて戻ってこないという事故があった。

朝、ヘレンさんと同宿のベルギー人夫妻に送られ、ヘレンさんの主人に車で昨日ピックアップしてもらったゴートの中心地のHARTE’S PUBまで連れて行ってもらった。宿からすぐに歩き出すと5キロぐらいは楽になり、そうしたい誘惑にも駆られたが、デリーからコークへ一筆書きで歩くという計画であるから、それはしてはならないことだった。
9時には昨日の地点に戻り、手持ちの現金が少なくなったので、向かいの銀行のATMでお金を引き出すことにした。事件はそこで起きた。

街角のATMを使うのはこれで3度目、何の疑いも無く、CITIBANKのカードを入れ、操作したが、一度目で、うまくいかず、二度目もうまくいかず、それから先はカードが戻ってこなかった。唖然とした。通りの反対側のバス停でバスを待っている青年に大声を掛け助けを求めたが、彼は動かなかった。ATMをいくら眺めても、相手が機械ではどうしようもない。無力感が全身に広がる。ディスプレーには問題があるときは、近くのGARDA Stationか次の電話番号に電話せよと表示された。10時に銀行が開店するとして、40分もある。次に引き出しに来た人にGARDA Stationの場所を教えてもらって、表通りから横道へ入って100メートルも離れていないその場所へ行った。タクシーのたまり場の事務所のようなところだった。カードマンのような制服きた、ピンクの血色の良い青年が出てきて、状況を説明すると、明日銀行に行きなさいと言う。私は日本から来た旅人で、これなくしてはこれから旅行できないことを、青年に訴えた。青年は今日は日曜日ですよと言った。「今日は日曜日なのだ!」打つ手がないことを知った。ひとつの救いはMASTERカードを持っていることだ。これでキャッシングすればよいのだが、これがまた吸い取られたら、万事休すで、怖くて使えなかった。

吸い取られたのが銀行のATMなので悪用される可能性はまずないのが不幸中の幸いと、10時前、南へ歩き始めた。事故はこれまでニアミスはあっても、実際に起きたのは、一昨日のアラン島の帰りの最終バスを逃したこと、大切なガイドブックを失ったこと、そして今朝のキャッシュ・カードで3度目である。旅の疲れで注意力が低下し始めているのだろ。

天気は絶好の徒歩旅行日和である。さっきの事故のことなど忘れて、ひたすらに歩く。12時半、道のほとりで、昼食を取った。チーズ、クッキー、洋ナシ、水と立派なものである。途中で子連れの女性に乗らないかと声をかけられた。周りの景色は大体同じなのだが、見飽きないの不思議である。3時半、目的の宿に近い、クルシェーンという村に着く。食べ物を売る店はあるのだが、私の探しているのはパブだ。ちょっと傾きかかった小屋のようなパブがあって、ここが怪しいと睨んで、ザックがやっと通れるほどの小さな扉を開けるとやっぱりそうだった。日曜の午後の男のたまり場、5人の男がギネスを飲んでいた。自分の臭覚の確かさに満足した。注目が私に向けられるのを尻目に、ゆっくりとザックを置ける椅子を探し、どっかとザックを置き、やおら、カウンターの中の可愛い娘さんに向かい,A pint of Guiness please ! と大きな声で注文する。皆に英語が分かるらしいと思って貰うためである。カウンターで彼らの横に座わり、ギネスが来るの待つ間、独りで地図など見ていると男たちの好奇心が募ってきているのがなんとなく分かる。そこで、やおら、「この近くにエルムデイルというB&Bはありませんか?」と声を掛けると、これを皮切りに、話が色々展開する。男たちは既にかなり飲んでいるから機嫌が良い。やせぎすの男は
「なぜ我々が日曜の午後にギネスを飲んでいるかといえばですよ、分かりますか?これは神を讃えているのです。
飲むとですね、我々は天に近づくんです」と天を指差す。この男はもうギネスを少なくとも3杯以上は飲んでいる。
大柄のジョン・ウエインに似た男は、私のカーボーイハットが気になるらしく、被ってパブのカウンターとは反対の壁の大きな鏡に映している。「よく似合うよ。ジョン・ウエインのようだ」と言うと話がさらに弾み、それでは写真を撮ろういうことになった。カウンターのなかの、中年の彼らのアイドルとも言える、娘さんを中心に写真を撮った。1パイントのギネスが空き、次をどうしようかと思っている私の前に1パイントのギネスが置かれる。ジョン・ウエイン氏の奢りだという。後で名前を教えてもらったら、マーチン・ハンスバリーが本名。このようにして2杯目のギネスの付き合いが始まる。
そして、好意を素直に受けて、お返しをせず、その店を切り上げた。ひとりの男が外に出て来て、こちらの方向だよと指差してくれる。私が間違った方向に歩き出すのを心配してくれているのだ。まぶしいほど明るい陽が降り注いでいた。

ほろ酔い気分で道を歩いていると、道は次第に細くなって、ほとんど歩行ためのスペースが無くなり、カーブも多くなり、そこを杖を頼りに車を避けながら進んだ。と前から一台警備保障の車のようなのが来て止まり、危ないからこれに早く乗りなさいと言う。男女の警備員のうち、女性の方が出てきて、車に乗るように指示し、片手で軽々と私のサックを車の中に放り込んだ。有無を言わさぬ、あっという間の出来事である。Gardaの人である。乗って話を聞いてみると、アイルランドでは警察のことをGardaと呼び、れっきとした公務員である。私がタクシーと思ったのは実はパトカーで、今朝のGARDA Stationとは警察署だったのだ。アイルランドに来て20日もなるのにうかつだった。GARDAのマークのある車はあちこちでで見かけたので、全国チェーンの警備保障とタクシーの会社かと思っていた。
車はしばらくして来た道を帰り、ターンして、私の歩く方向に車を向け、道幅が広くなったところまで行って、降ろしてくれた。珍しい体験なので写真を撮らせて欲しいというと、快く車から出て撮らせてくれた。日本では男女ペアのパトカーは珍しい。私の一筆書きの歩行に数百メートル隙間が出来てしまったのは、このアイルランド警察の連行のせいである。

間もなく着いた今日の宿は立派な宿で、迎えてくれたのは、女主人とお手伝いさんだった。玄関で、荷物を降ろす前に、まず、カードで支払が出来るのかを確かめると、駄目だと言うので、実は、今朝、銀行のATMでこんな事故があったと素直に話した。現金は50ユーロしか持っていないので夕食の金はない。明日、銀行でキャッシュ・カードを取り返すのを手助けが欲しい。しっかり者そうな女主人はじっくりと話を聞き、立ったままの私の上から下までを値踏みするように観察して、OKと言って、お手伝いの少女に2階の部屋へ案内させた。大きな清潔な部屋だった。夕食は7時。シャワーを浴びたり、少女にインターネットへの繋ぎ方を聞いたりして過ごした。
夕食は、食堂で一人、スープ、柔らかな豚肉とキャベツや人参が出た。デザートに巨大なアップルパイ。いずれも美味しかったが食べ切れなかった。少女が給仕してくれるのだが、途中、女主人も「どうですか?」と顔を出した。それはさっき玄関で私を鋭く見つめたのとは別人のような優しい顔だった。
部屋に帰ってみると、あきらめていたインターネットへいつの間にか繋がっていた。だが転送スピードが遅い。場所を変えると電波が強いかと一階の居間へ移動して、少し、作業を進めた。映像を送るのは時間がかかるので、写真なしで済ました。玄関のロビーの飾り棚にはフランス人形が沢山飾ってあった。家の後はずーっと原野で、陽は何時までも沈まなかった。
(7月19日のこと)

次へ 目次へ