アイルランドの細道

フレンチパークからキャスルりー

奇跡が起きたと思った。そんな一日だった。

今朝もアイルランド・ブレイクファースト。昨夜お願いしておいたパソコンが用意されていた。公衆無線LANのアダプターが付いていて、インターネットに接続、しかも、日本語が表示される。それなら書きたいことをフラッシュ・メモリで持ってくれば良いと思い、やっているうちに、接続そのものがおかしくなった。わたしのパソコンにアダプターをつけて試みるがうまくいかない。がっかりし始めたところ、どんな拍子か知らないが、うまく繋がり、後の作業は楽々と出来た。メールをチェックしたら、日本語の生徒だったピエールさんから8月、パリに帰るので、寄らないかとあった。彼は歯科医の資格を持っていながら音楽家になって来日しているのであるが、パリにアトリエを残してあると言っていた。私が、アイルランド行きの話をしたら、かって、恋人と西海岸をドライブして、どんなに素晴らしかったを話してくれた。「茶摘唄」を教えてあげたら、とても日本的だと喜んで、ボサノバ調に編曲したいと言っていたが、できたかな?
いずれにしろ、パソコン以外に通信手段を持たない私にはインターネットに繋がることはありがたかった。
パッキングを済ませて、応接間で農業を営むご主人とも少し話した。この一家はアイルランド初代大統領ダグラス・ハイドの子孫で、そのことは、ボイルの旅行案内所のアンさんからも聞いていたのであるが、女主人がそのダグラス・ハイドの資料を見せてやろうと言うのである。すぐ歩き出せるように荷物を車に積み、近くの教会に向かった。さほど大きくない教会の半分が、ダグラス・ハイドの記念館で、彼女は鍵で扉を開き、中に入って電気を点けて、説明してくれる。展示はゲール語が併記されていて、ゲール語を話せますかと聞いたら、話せるといった。ダグラス・ハイドはゲール語の復活・温存に力のあった人で、それはナショナリズム高揚と表裏をなしていて、今も道標など公の表示は必ずゲール語が併記されている。記念館の内部は大半は白黒の写真とパネルによる説明だった。アイルランドの歴史に詳しい人にはきっと面白い展示だろう。私ももっと歴史を勉強して来るべきだった。教会裏の墓地の、ダグラス・ハイドを含む一族の墓も見せてもらい、昨日歩いた道を、フレンチパークまで送ってもらう。その優しさに満ちた気持ちの良い婦人と別れを惜しんだ。

11時。今日はこれから13、4キロ離れたキャッスルリーまで歩き、さらに10キロ前後歩かなければならない。
黙々と歩き始める。昨日と同じく周りが平らな原野で変化に乏しい。道はまっすぐで、しかも標識がないのも昨日と同じでひたすら歩く以外にはない。途中後ろから声がかかった。昨日の中華料理店の若者のシェフである。キャスルリーへ買出しに行くのだろう。車に乗らないかという。断ると「雨が降っているじゃあないですか。乗りなさよ」 もう一度断ると、こちらの意が通じ、窓から大きく手を振って発進した。ひたすらに歩く中、目に付くのは、この地方は泥炭が取れることである。逆に言うと何も栽培できない土地柄あることが分かった。切り出された泥炭がところどころで干されていたが、よく雨が降るのに乾くのかしらと思う。このあたりの川の水が褐色なのも泥炭のせいだと思う。2時20分、フレンチパークまで10キロという標識がでていて、私の平均時速は3キロと分かる。
3時にやっとカッスルリーに着き、最初の角の立派なパブに飛び込み、ギネスを注文すると人心地が付いた。実はこのパブがボイルの観光案内所のアンさんの道案内に書かれたあったパブで、それに従えば、今日の宿はもうそんなに離れていないことが分かるはずだった。パブのカウンターには常連らしい5、6人の男がグラスを傾けながら話している。時間が止まったような空間で、その横に坐っていると、隣の男が、店の人に「この人に見せてあげなさいよ」と促すと、店の男は鍵を取り出し、私について来いと言う。何だろうと付いて行くと奥はビリヤード室などがあり、結構広く、さらにその奥に、なんと2両連結の電車が置かれている。その車両の中を通り、出た所に、鉄道部品や写真が整然と展示されていた。鉄道オタクの世界である。カウンターに戻り、常連客に「驚いた!」と言うと男たちはニコニコ笑っていた。「こんな馬鹿げたことをするアイルランド人が好きだ」と感想を述べたが、皆に通じたかしら?鉄道ファンでもまさか車両そのものを自分の手元に置く人は少ない。ゆっくりしたい気持ちもあったが、私にはこの先10キロの道のりが待っている。道を聞くと、ひとりの男がわざわざ店の外へ出て、指差しながら道を教えてくれた。私の思っている方角と正反対だった。彼はあと7マイルと言っていた。風雨が強くなってきた。いよいよウイリアムタウンへの道の始まりである。今日はこれまでの中で最高の試練が待っている気がした。国道を2、300メートルいったところの右手にB&Bがあって、それを横目で見ながら通り越すと、後ろで声がする。シーマスだと言う。シーマスという名はアンさんもメモに大きく書いてくれていたので今日の宿の主人だと気づく。てっきりウイリアムタウンから迎えに来てくれたのだと思った。車に乗るわけにはいかないから、荷物だけでも運んでくれたらどんなに助かることかと思ったが、様子が変なのである。向かいのB&Bに連れて行く。ここだと言う。私の頭には10キロ先のウイリアムタウンのことしか頭がないので、狐につままれた感じで、事態が判然としないのであるが、シーマスという人がこの宿の亭主だとするとここが今日の宿らしい。風雨の中とぼとぼと、あえぎながら歩いている自分を描いていたので、まるで地獄が極楽に急変した感じである。そして良くぞ私が通るのを見つけてくれたものだ。神のご加護としか言いようがない。もし、シーマスさんが私を見なかったらどうなっていたであろうか?8時すぎ、10キロ先で疲労困憊して立ち往生している自分の姿を思うとぞっとする。奇跡が起きたとしか言いようがない。(その時、シーマスさんに何故私を見つけてくれたか聞いておくべきだったが、一つの可能性として、先程立ち寄ったパブの主人か客が私との会話から、宿へ電話を入れたのかもしれない。)

宿の奥さんにお茶を入れてもらい、夢心地が次第に治まっていった。
奥さんに夕食はどこが良いか聞いたら、送っていってやろういう。外国人向けにゆっくりと、分かりやすい英語で言ってくれるので助かった。この夫妻は学校の先生をしておられたのではないか?万事清潔に片付いていた。
送ってもらったレストランで、スープ、海老の揚げ物、フライドポテト付。後者は日本の倍はある。
帰ってみると玄関のドアが開かない。B&Bでは、玄関と部屋の鍵を渡されるのが普通であるが、どうも玄関がうまく開かない。困ったなと思っている所へ、宿の夫妻が帰ってきた。奥さんが「ちゃんと説明しておくべきでしたね」と言いながらいとも簡単に開けた。ドアは珍しくスライド式だった。これも奇跡。夫妻の帰りが遅かったらどうなったことか。
夫のシーマスさんとは明日の宿の件を話さなくてはならない。ボイルの旅行案内所ではうまく取れず、向こうに着いたらシーマスさんに相談せよとのことだった。シーマスさんがあちこちに電話してくれたが、ここから南下した所には適当な宿はなく、方向は大きく西にふれるが20キロ先の宿が取れた。思いのほか早く片付いて、シーマスさんは良かったねと私に言い、天井を向いて祈るポーズをとって、神に感謝していた。

奇跡ばかりが続いている。実は最初から神のご加護でこの旅を続けているのだが、そのことを今日は本当に思い知らされた。

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