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アリス、アリスに会う 83−91 | ![]() |
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83 アリス : 愛のエネルギーのレベルが下がるとなぜ争いを好むようになるかという私の問いに対して、それは、部分的に氷になっている状態で、これは<凍った心はほかの部分と混ざり合わなくなり、それを「他者」として認識するようになります。さらに、固くなった心は他者を傷つけるようになり、互いに警戒心を持つようになります。そのようにして、凍った心の破片が互いに争いながら生きるようになるのです。私たちの体験する世界の中に争いが満ちているのは、私たちの心が凍って砕けているしるしなのです。>ということでした。
これ以上追求することは、お釈迦様の毒箭の喩えのように、余り意味あることでないかもしれません。そしてこれに対する猫さんの処方箋も述べておられます。しかし、青で引用した状態は、実は私達のこの世そのものですから、抽象的な比喩では物足りない感じがします。
病気、貧乏、反目・・・不如意なことは避けたいし、健康、幸せな家庭、勝利・・・幸福が欲しと思っていますし、広い意味でのゲームを愉しみ、悲喜交々の一生を送ります。
このような事柄総ては、愛のエネルギーのレベルの上下で説明できるのでしょうか?
84 猫 : 私はできると思っています。もちろん一つの比喩的な表現ですが・・・。
けれども、それについて話を続ければ、また私の独演会になってしまいますので、逆に私のほうからアリスさんに質問をしましょう。
アリスさんは、このような事柄のすべてをどのように見ておられるのでしょうか。人間はなぜ争いを好むのでしょうか。なぜ競争しないと意欲がわかないのでしょうか。
なぜ、目標をクリアすることにこれほど夢中になるのでしょうか。たとえば、生命の危険を冒して山の頂上に立つことが、なぜ人をそれほどひきつけるのでしょうか。
幸福は追いかけても追いかけても手に入らないのに、不幸は追い払っても追い払っても忠実な犬のようについてくるのはなぜでしょうか。
85 アリス:正直なところ、これらのことがよく分らないのです。
今、頭の中にあるイメージを申し上げますので、猫さんのご意見をいただければと思います。
<なぜ、目標をクリアすることにこれほど夢中になるのでしょうか。たとえば、生命の危険を冒して山の頂上に立つことが、なぜ人をそれほどひきつけるのでしょうか。>については、生まれつきそうなっているのではないかと思うのです。私は猫さんと異なり、潜在意識のほうが先にあって、自我がその中で育っていくイメージなのですが、その潜在意識にそのような仕掛けがあるのではと思います。勿論、猫さんのように自我が切り捨てたものもこの中に入っていくのですが、初めから潜在意識の船のようなものがあって、そこへ自我ができる(くる)という感じなのです。子猫が動くものに飛びつくというのは潜在意識によるもので、飛びついているうちに、猫の自我?が出来るという風に考えるのです。
なぜ、潜在意識がそのようになっているかといえば、仏教でいう業(または薫習)ではないかと考えています。またこうでないと自我は出来ないのではと思うのです。
後半の<幸福は追いかけても追いかけても手に入らないのに、不幸は追い払っても追い払っても忠実な犬のようについてくるのはなぜでしょうか。>については、この対話で猫さんが色々とお教えくださったのですが、まだ、よくわかりません。
自分(自我と潜在意識)の影のようなものではないか、それなら打つ手はありそうだと思い始めているところです。
86 猫 : 幸不幸の話は少し性質が違うので、しばらくアウフヘーベン(棚上げ)することにして、潜在意識と自我の話、それになぜ人間はゲームが好きなのかという話を続けたいと思います。
話を簡単にするため、戦争をしたり、競争をしたり、目標を立てて頑張ったりするすべてを「ゲーム」と呼ぶことにしましょう。
「人間はなぜゲームが好きか」という問題について、アリスさんは<生まれつきそうなっているのではないかと思う>とおっしゃいました。この「生まれつき」という言葉は、私たちがこの世に肉体を持って生まれたときから、という意味でしょうか。それとも、人間が神によって創造されたときから――アリスさんは神という言葉は使われないかもしれませんが――そのように作られているという意味でしょうか。
もし「この世に生まれたときから」という意味なら、私もそう思います。私たちは生まれたときからそういう性質を持って生まれてきます。それは、私たちが生まれたとき既に、自我や潜在意識を持っているからです。その潜在意識の中に、ゲームを好むという性質が仕組まれており、それが仏教のいう「業」あるいは「薫習」であるというのにも同意します。
もしそうでなくて、死んだら皆夢から醒めるのだとしたら何も問題はありませんね。いずれみんな死ぬのですから、ほっとけばいいのです。釈迦もキリストも、余計なおせっかいをすることはなかったのです。けれども、そうではないので、釈迦やキリストが一生懸命夢から醒める方法を教えようとしたのです。したがって、肉体を持って生まれたときにそうなっているというだけでは、問題解決にはなりません。それは単に私たちが夢を見続けているということを言っているに過ぎません。
なぜ、私たちは、潜在意識の中にそういう仕掛けを作り上げたのでしょうか。これについては、アリスさん、どうお考えになりますか。それとも、アリスさんは、こういう角度からの問題意識はお持ちにならないでしょうか?
87 アリス:<「人間はなぜゲームが好きか」という問題について、アリスさんは<生まれつきそうなっているのではないかと思う>とおっしゃいました。この「生まれつき」という言葉は、私たちがこの世に肉体を持って生まれたときから、という意味でしょうか。それとも、人間が神によって創造されたときから――アリスさんは神という言葉は使われないかもしれませんが――そのように作られているという意味でしょうか。>
猫さんのような疑問が頭をよぎりましたが、あえて「生まれつき」という表現を使いました。それは65で少し述べましたように、存在するものがそのような構造を持っていると思っているからです。猫さんの図2のように卵型(私)が出来た時点からそうなのだと思います。そしてその私が見るものはすべてそうなのではないかと思います。
ですから、猫さんが72で<人間の行動一般について、ゲームの意義だとかその価値とかについて話をするとなると、本を10冊ぐらい書かなければならないようなことになると思います。>おっしゃった時、全くそうだと思いました。すべた森羅万象と拡大しますから手に負えません。
<この世だけでなく、あの世も、過去世も未来世も、すべてが仮想現実なのです。お釈迦様が教えた輪廻転生の全体が仮想現実なのです。>というお考えには異論を挟みませんが、そうなると「仮想」という言葉も必要でなくなる気がします。
私はものが存在するということ自体、それが仮想であれ、現実であれ、見るものであれ、見られるものであれ、ゲームのメカニズムを内臓していると考えますので、<なぜ、私たちは、潜在意識の中にそういう仕掛けを作り上げたのでしょうか。これについては、アリスさん、どうお考えになりますか>といに対しては、「生まれながら」とか言いようがない感じなのです。
31以降で「花が見える」ことはどういうことなのかを話あっていますね。
図2で全くピンク色に染まって、Cがなくなれば「花」もなくなる。
「醒める」ということはこのことに気付くことではないかと思います。
88 猫 : まず、一つのことだけを片付けましょう。
<この世だけでなく、あの世も、過去世も未来世も、すべてが仮想現実なのです。お釈迦様が教えた輪廻転生の全体が仮想現実なのです。>というお考えには異論を挟みませんが、そうなると「仮想」という言葉も必要でなくなる気がします。
輪廻転生する世界のすべてが仮想現実であるなら、仮想という言葉を使う必要がない、というお考えには賛同できません。お釈迦様が教えたことは、この輪廻の世界から醒めること、輪廻の輪の外に出ることではなかったでしょうか。真実の世界、実在の世界は輪廻の外にあるのです。
一つの図を入れておきますので、参考にしてください。
周囲のピンクの部分が実在の世界です。灰色の部分が仮想現実の世界です。映画のスクリーンのようなものだと思ってください。そこに映し出される映画には、輪廻の世界のすべてが含まれます。今世、前世、来世だけでなく、中間世と呼ばれ、「死と再誕生の中間にある」といわれる霊界も含まれます。
私たちは幻想にとらわれているので、この輪廻の世界を果てしなく回り続けます。お釈迦様が教えた「悟り」は、この輪廻の世界、映画のスクリーンの世界から抜け出して真実の世界に降り立つことであると、私は考えています。
89 アリス ;猫さんが86で述べておられますように、輪廻の輪そのものも仮想現実ですね
本来は図4のようであるはずです。これを私は「醒める」と表現しました。
ところが、私が存在する限り、図3のような様々な絵を描いて、私というものを知るのです。
輪廻の輪から逃れるという考えは、お釈迦様
よりずっと以前からある考えですが、それは私というものがある限り無理だと思うのです。私はそもそもヴァーチャルなものであって、スクリーンがあって初めて認識できるのですから、猫さんのおっしゃる<映画のスクリーンの世界から抜け出して真実の世界に降り立つことである>というのは無理だと思っています。
ところが、図3の灰色の部分はもともと私が作ったものですから、ピンクのはずです。絵が下手ですが、図5のようになるはずです。
私は般若心経の「空即是色」はこのことを表していると思っています。
<この輪廻の世界から醒めること、輪廻の輪の外に出ることではなかったでしょうか。真実の世界、実在の世界は輪廻の外にあるのです。>というのではなく、ヴァーチャルな世界も実は真実の世界なのではないでしょうか?涅槃経の言葉だそうですが、よく言われる、お釈迦様が悟りを開かれた時の第一声が「奇なるかな奇なるかな 一切衆生悉く仏性を具有す」はこのことを示していると思うのです。
90 猫 : 輪廻の輪から逃れるという考えは、お釈迦様よりずっと以前からある考えですが、それは「私」というものがある限り無理だと思うのです。「私」はそもそもヴァーチャルなものであって、スクリーンがあって初めて認識できるのですから、猫さんのおっしゃる<映画のスクリーンの世界から抜け出して真実の世界に降り立つことである>というのは無理だと思っています。
ここで「私」と言われているのは、私が「自分を探すアリス」の対話の中で最初に述べた「バーチャルな我」だと思います(『自分を探すアリス』対話18)。私は、私たちがこの「バーチャルな我」に固執していることが、私たちが仮想現実にとらわれる原因だと考えています。
「悟り」とは、このバーチャルな我から離れて、真実の我に目覚めることだと思っています。真実の我を図にすると、図3全体だといえばいいかもしれません。真実の我の中に幻想世界が描かれています。けれども、真実の我は、幻想は幻想であると知っていますから、それにとらわれることはありません。そうすれば、輪廻の世界を含めて全体がピンクになるというアリスさんの図5に近いのかもしれません。
91アリス:真の我が、バーチャルの我を作り出し、バーチャルな我が図3の灰色の中に住むという訳ですね。しかし、それも元は言えば、真の我の作り出したものですから、実は灰色ではなく、図5のようになってしまうのです。どこかおかしいですか?
07/5/11
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