アリス、アリスに会う  302−316

302  : この箇所を引用してくださってありがとうございました。この箇所には、示唆に飛んだ言葉がたくさんあります。

「天の御国は地上に広がっているのに、人はそれを見ない」。
人は、この世を見ようとするあまり、御国が見えないのである。


この言葉は、私たちが夢から醒めたとき、どこかほかの星に行ったりするわけではないことを示しています。私たちはいますでに天の御国(=天国、極楽浄土)にいるのです。それなのに、それが眼に入っていない。眼だけでなく、ほかのすべての感覚も、私たちが天国にいるとは感じていません。・・・それは、私たちが「この世」を見ようとするからである・・・とイェシュアは言います。

「この世」とは何でしょうか。それは、「分離」という意識のフィルターをかけてみた世界のことなのです。

覚えておくように。この世とは、すべて分離という見地からの認識であるということを。

私たちは極楽浄土にいるのに、意識に「分離」というフィルターをかけているので、極楽が地獄に見えるのです。

「分離」のフィルターとは、あらゆるものを各個バラバラの存在であると見る見方のことです。「私とあなたは別の人間」「人間と自然は対立する」「あいつを蹴落とさなければ、おれは出世できない」・・・個人主義、核家族、競争社会、民族や国家の対立、資源の囲い込み・・・・現代社会の特徴のすべてが「分離」という意識から生まれています。

そして、「分離」意識の根源は、私たちが「神から離れた」という意識――それはつまり「私たちは霊ではなく物質である」という意識――です。

これで終わらせなさい。
そこに残るものは、御国だけである。


「分離」という意識のフィルターを外してしまえば、「この世」は消えてなくなります。そして、「この世」が消えれば、そこがそのまま天国(極楽浄土)になります。・・・・そこに残るものは、御国だけである。

チルチルとミチルが幸福の鳥を探して旅をするメーテルリンクの「青い鳥」という物語の中で、ランプの中から出て来た光の精が道案内をしてくれます。光の精は時々チルチルとミチルにこう言います。「帽子のダイヤモンドをまわしてごらん」。チルチルとミチルが帽子についているダイヤモンドの飾りをまわすと、突然周りの様子が変わって、世界の「本当の姿」があらわれます。

それと同じように、私たちが「分離」という意識のフィルターを捨てるなら、世界が本当の姿を表します。私が「この世を卒業する」というのは、「この世」を去って、どこか別の世界に行くという意味ではありません。イェシュアが言う「この世を見る」ということをやめることなのです。私たちが「この世」を見ることをやめれば、チルチルとミチルがダイヤモンドをまわしたときのように、そこに「世界の本当の姿」が現れます。それが天国であり、極楽浄土であるのです。

303 アリス :猫さんが300で<「あなたは消えてなくなるのだろうか。もちろんそうすることも出来るが、たいていの人はそうしないだろう」といくだりがありました。アリスさんは、これについて、どう思われますか。>に対して、301で私は<この世を卒業してまた別の旅をする私がいるのかな?という感じです。>とお答えしていますが、この時、猫さんがおっしゃりたいことは何でしたか?

304  : 私が関心があったのは、「この世を卒業する」という言葉で、アリスさんが何を連想されるかということでした。この世が消えてなくなり、自分も消えてなくなり、すべては無に帰してしまう・・・と考えておられるかな、と思いました。

「世の終わり」に何が起こるかということについて、もうひとつのたとえをお話しておきます。これは、C.S.ルイスという人が書いた「ナルニア国物語」の最後に出てくるお話です。

ルイスは、ナルニア国の終わりが来たとき、「世界は巻物のように巻き取られていった」と書いています。空も山も森も湖も動物達も、みんな巻き取られてなくなっていきます。けれども、その巻物が巻き取られたあとに、以前とそっくりの――しかし以前よりも1000倍も美しい――ナルニア国が現れるのです!

「自分を探すアリス」の中で、私は「存在の階層」という言葉を使いました。それは、私たちは、夢の中の夢の中の夢・・・というように、何重にも入れ子になった夢の中にいるという意味です。この夢が全部醒めたら、私たちは神に戻ってしまうわけで、それはもはや形のある世界ではありません。けれども、私たちが存在している夢から一つだけ醒めたところには、完全な「形の世界」が存在していると、私は考えています。そして、いまの私たちにとっては、「この世」の夢から一つだけ醒めることが問題なのだと考えています。

305 アリス:< 「この世」の夢から一つだけ醒めることが問題>でその次のことまで考えることはないのですね。

これには異論はないのですが、実は297で思っていたのは、猫さんのその後のお話とが逆のことでした。
「この世」(夢)と「私」とは一対になっていて、「私」を捨てることによって一挙に覚めると思ったのです。それで『イエシュアの手紙』を引用したのですが、猫さんは、「私」は残り、夢は続くという方向に話を持っていかれました。いわば「私」が色々な階層の夢の中を動いていく感じなのです。
「私」が残る限りそうでしょう。また、「私」はなくならないのでしょう。もっと言えば「私」は神そのものですから、なくなる訳はありません。
そのことが分かれば猫さんの示された1000倍も美しい景色が立ち現れるのだと思います。

私は「空即是色」派と自認していますので、いづれにしろ、虚無の世界が開けるとは思いませんが、「この世」は意味がない、と一度は強く否定しないといけないと『イエシャアの手紙』を読んで痛感したわけです。

306  : 「この世」(夢)と一体になっている「私」は、夢の中の私ですね。それを捨てるということは、自分は夢の中の私ではないと悟ることです。この世が本当に夢であることがわかったら、夢の中の自分は本当の自分ではないことがわかります。それを、頭で理解するだけでなく、感情の面でも、意志の面でも、その他心のあらゆる部分において夢を捨てる――夢に縛られない―ーことが必要です。そして、これが本当に出来たら、一瞬に夢は醒める、といわれるのは、そのとおりだと思います。イェシュアの手紙もそのことを繰り返し語っています。

私が言いたいことは、夢の世界を捨て、夢の私を捨てたときに、「私」がなくなるのでなく、そのあとに、本当の私が現れる、目覚めた私が現れるということです。

結局、、アリスさんが言われることも、私が言っていることも、同じことだと思います。
アリスさんは輪廻転生にも関心をお持ちのようですが、夢から醒めるという観点から言えば、肉体の死は夢からの目覚めではないことを知ることが重要だと思います。肉体が死に、死後の世界に入り、またどこかに生まれてくる・・・というのは、全部ひと続きの夢であり、夢の中で場面が切り替わっているにすぎません。私たちが本当に目覚めたときには、輪廻も転生もなくなります。

以前お話したように、私は10代のはじめからほぼ10年間、毎日いつ自殺しようかと思いながら生きていました。けれども一方で、私はなぜか、自殺しても何も変わらないと考えていました。それで自殺しなかったのです。私は、なぜ、自分がそう思っていたのかわかりませんでしたが、いま思うと、肉体が死ぬことと夢から醒めることが別物だということを、無意識が知っていたのかも知れません。当時、物質世界が夢だとは思っていなかったのですが・・・。

307 アリスハムレットの有名な文句
   To be, or not to be that is the question:
という独白は、結構長いものですが、その中の一部にこんな言葉があります。

  ・・・死ぬ。つまり眠る!
  眠る、ひょっとして夢をみる、ああ、ここでひっかかる。
  その死という眠りの中で人の世のわずらわしさから
  やっと抜け出したときどんな夢が訪れることか
  ここでためらってしまう。
  ・・・・・・
      誰が重い荷物をしょって、
  耐え切れぬ人生にうめき汗して行くものか、
  もしあのなんと知れぬ恐怖、
  あの未知の、その国ざかいから誰一人戻ってきたものはない、
  あの死後の世界の恐怖がわれわれの意志をくもらせぬなら。
   ・・・・・・  
  (3幕1場 木下順二訳より)


若き日の猫さんの心中がどんなものであったか、分かりませんが、ハムレットは死後の世界を恐れていることが確かです。

私にはこのような深刻な経験はありません。輪廻転生や霊界遍歴に興味を持ち始めたのは猫さんの影響かもしれません。 
私たちは、夢の中の夢の中の夢・・・というように、何重にも入れ子になった夢の中にいるという意味です。

肉体とは別に持続するものがある。つまり、「私」が肉体の死を越えて存続するということは、多くの宗教の説く所で、「私」が霊的な存在である以上当然と思いますが、どんな変遷をするのだろうか、大変興味があります。
私は林や森や緑のあるところが好きで、前世は、動物か昆虫だったのではないかと思うことがあるぐらい、美しい自然の中にいると、心が、体が、喜びます。
私の輪廻への興味は、夢を見続けるとしたら、今の夢の続きはどのようなものだろうか?ということにあります。

308  : <どんな変遷をするのだろうか、大変興味があります>とおっしゃいましたが、アリスさんは、転生というものが、この世の時間の延長上に連続していると考えておられますか? つまり、「死」――「死後の世界」――「転生」――「死」――という風に一列に起こっいくと思われますか。もちろん、そう考えて悪いというわけではありませんが、別の見方も出来ると知っておくのは、考え方を広げるという意味で無駄ではないと思います。

すべての転生は同時に起きています。つまり、それは平行人生であるとも言えます。アリスさんは、アリスさんの人生のあらゆるバージョンを同時に生きています。それは、売れっ子の俳優が、いくつものお芝居を掛け持ちするのに似ていると言えるかもしれません。午前中はテレビの連続ドラマの撮影をして、午後は映画の1シーンに出演して、翌日は劇場で生出演、その翌日はまた連ドラの撮影・・・!

けれども、霊の平行出演はもっと過激です。何万分の1秒か、何億分の1秒か知りませんが、物凄く短い時間で、私たちの意識は不連続に刻まれていて、その隙間にほかの世界の人生が入り込んでいるのです。それはコンピューターのタイムシェアリングに似ています。

タイムシェアリングというのは、100万分の1秒くらいの刻みで、ABCACBACBABACBCB・・・という風に、仕事を切替えながら実行する方法です。この例では、A、B、Cの三つの仕事が同時に進行するように見えます。コンピュータの外で見ている人には、どの仕事も、途中で切られてずたずたになっているようには見えません。

私たちの意識も同じです。この世に焦点を合わせている意識は、この世のことしか認識しませんから、私たちはこの世だけに連続して生きているように感じています。けれども、平行人生のすべてに気づいている意識もあります。それもアリスさんの意識なのです。

アリスさんが<前世は、動物か昆虫だったのではないかと思うことがあるぐらい、美しい自然の中にいると、心が、体が、喜びます>とおっしゃるのは、平行人生の昆虫の意識を感じているのかもしれませんね。

309 アリス :タイムシェアリングはコンピューターの初期の頃からある懐かしい言葉ですね。今は余りにも日常化して、却って使われる事が少なくなったようです。ABCACBACBABACBCBの世界はインターネットの世界では、パケット通信の世界で、何兆の何兆倍くらいの情報がネットの中を飛び交っています。その中で、Aを意識的に認識していくわけですね。

このような現状とは別に、量子力学の世界では、シュレーディンガーの猫のように、生きている猫と死んでいる猫とが並存するように、その後、色んな世界が並存する、多次元世界が描き出されているようですね。

ABCACBACBABACBCBと一杯つまっていることは本能的に理解していますが、私の疑問は、そのような世界を選びとっている「私」はまだしばらく存続していくのか?ということです。それはどんな軌跡を描くのか?ということです。

もう一つ猫さんの話で思ったことは、一般にABCACBACBABACBCBのなかで例えばAというものを中心に「私」を形成していくわけですが、ABCDEを同時に「私」の中に取り込むというケースがあります。友人のお子さんがいわゆる多重人格で周りのものはそれで振り舞わされていくのですが、このと思います。

310 猫 : <「私」はまだしばらく存続していくのか? それはどんな軌跡を描くのか?>というアリスさんの疑問は、私には少し奇異に感じられます。それは日本百名山を登り続けたアリスさんが、「私はこれからもまだしばらく山に登り続けるのだろうか? それとも海にでも潜るのだろうか?」と言っているように、聞こえるからです。それを決めるのはアリスさん自身だと思うのですが・・・。

私たちはふつう、アリスさんと同じように、自分の軌跡を自分で決めていると思わず――あるいは、決めていいものだと思わず――たまたま目の前に出て来た山に登ったら野口五郎岳だった、というような登りかたをしてきています。もしそうだとすると、「次はどうなるだろう」という疑問はうなづけますね。

けれども、私は、もうそういう時代は終わりだと思っています。これからは、人間はみんな、自分で自分の軌跡を決めなければならない時代になると思っています。そのためには、アリスさんの<「私」とはいったいなんだろうか?>と言う疑問が重要になってきます。「私」というものをきちんと理解しなかったら、自分で自分の軌跡を決めることは出来ないからです。

私は、この疑問は正確に言えば、「私とは何だろう」ではなくて、「私は何を私だと思っているのだろう」という疑問に書き換えるべきだと思っています。なぜなら、「『私』というのは『私はこれだ』と思ったものになる存在」だからです。「自分を探すアリス」のはじめに出てきましたね。 I am that I am. これは神について述べられているだけでなく、私たちの「私」についても述べているのです。

けれども、「私」の問題は、正面から議論をすると際限がありませんから、少し方向を変えましょう。

「『私』というのは『私はこれだ』と思ったものになる存在」なのですが、ふつう、私たちは実感としてそう思っていません。「私は金持ちだ」と思ってもなかなかそうはなりません。それは、私たちが「感情」をコントロ−ルできていないからだそうです。最近、私はセドナ・メソッドというのを知りました。それは、感情を手放すための簡単な方法なのですが、それを実践して感情を手放すと、人生はひとりでによい方向に回転し始めると、その説明書は言っています。

311 アリス 『私』というのは『私はこれだ』と思ったものになる存在」 であり、『私はこれだ』と思ったものになる存在になるために、タイムシェアリングの例で示されたような世界から選び取っています。これを遊びと言って良いし、夢と言っても良いと思いうのですが、その選び取っている「私」にある傾向、個性があることも事実ですし、ー 山登りが好きだとか、絵を描くのが好きだとか・・・、また、一定の選択をするために不如意も発生しているのですが、私がここしばらく話題にしておりますのは、この選択している個性的?な「私」はしばらく持続するのか、するとしたら、どんな意味があるのだろうか?という疑問なのです。

私は同じ疑問を投げているようですが、もし、このような「私」が感情のコントロールが出来ないために生まれたものか、もっと根深い業のようなものによるものか?そんなことが分かれば、本当の『私』に戻りやすいと思うのです。
セドナ・メソッドというのが、この問題の解法となるのならぜひお教えください。

312 猫 : <この選択している個性的?な「私」はしばらく持続するのか、するとしたら、どんな意味があるのだろうか?>  私はアリスさんの問題意識がよく理解できていないようなので、また的外れの回答になるかも知れませんが、私はこんな風に考えています。

――いまアリスさんが持っている個性は、アリスさんがこれまでの長い転生の歴史の中で作り上げてきたものであり、それが持つ意味とは、アリスさんがそれを今後どうしたいと思うかということ以外にはない。

例えば、アリスさんが今生で絵を描くことに関心があるのは、前世で絵描きであった名残かも知れないし、来世において絵描きになるための準備をしているのかも知れないし、ただ、今生で、いままでしなかったことをしてみたいと思っただけかも知れない。

神の眼から見るなら、アリスさんが個性を持っていることは重要である。しかし、アリスさんがどんな個性を持っているかは重要ではない。アリスさんがどんな個性を持っていてもいい。神の被造物の世界には無限個(?)の魂がいて、無限個の個性を実現しており、どんな個性もいずれはどれかの魂が実現するものだからである。

他の魂から見ても、アリスさんがどんな個性を持っているかは問題ではない。アリスさんがどんな個性を持っていようとも、単にそういう個性を持っている魂としてみるだけのことである。――

結局のところ、アリスさんの個性はアリスさん自身に対してしか意味がありません。そして、アリスさんがいまある特定の個性を持っているということは、アリスさんがこれまでの転生の歴史の中でそういう個性を育ててきたということであって、それはいわばアリスさんの魂のこれまでの歴史の総和のようなものです。そして、その個性がアリスさんに対して持つ意味とは、アリスさんがこれからその個性をどうしたいかということに他ならないと思います。その個性をもっと伸ばしたいか、何か違うものに変えていきたいか、それとも別の側面を育てたいか、それがアリスさんの現在の個性がアリスさんに対して持つ意味ではないでしょうか

たぶん、アリスさんの頭には、アリスさんがいまこういう個性を持っているのはなぜなのか、という疑問があるのだろうと思いますが、私はその理由はないと思っています。私たちは完全に自由な意志を持つことができる魂であり、完全に自由な魂がする選択には理由はありません。なぜなら、もしすべてのことに理由があるなら、自由の存在する余地はないからです。

313 アリス :猫さんのお話の最後の部分は297で取り上げたイエシュアの

マークよ、この世には
何の意味もない。

に対応するのではないかと思います。
私が個性ある「私」と言っているのは、301で引用の


この世に残ったまま、
御国に入ることはまったく不可能である。
それでは、あなたが消えるということだろうか?
それも可能である!
でも、おそらくはそうならないであろう。
覚えておくように。


の太字にした部分です。「私」が消えていない状況をさします。猫さんとの対話で、今ひとつしっくり来ていないのは、猫さんは「あなたは消える」という、いわば、彼岸、解脱の立場で、話しておられ、こちら岸のことはもう忘れておられる。私は、こちらの岸に居て、そちらのことは分からずに、呼びかけているということではないでしょうか?
この対話が続くのはそのためです。

結局のところ、アリスさんの個性はアリスさん自身に対してしか意味がありません。>ということですから、この個性論議は猫さんとしても余り意味がないのかもしれませんが、この「私」が、苦を避け、楽を求め、「私自身」の救済のために、科学に、宗教に、この世のあらゆる営為がなされていると思いのです。「私」は肉体の死とともに消滅するのだと言う人、肉体の死とは無関係に続くのだと言う人、輪廻するという人色々ありますが、結局は「私」の救済は「私」をなくす以外にないということになります。「私」は『私』の作った幻影なのだから、それを見極めば、「私」は消える。
これはこの対話の冒頭(対話3)でも出ていることです。それでも、なお、延々と、こと対話が進んでいるのは、猫さんはこの「私」に話しかけておられるのではないでしょうか?

いきなり、次元を下げるようですが、ここに、ケーキと酒があるとします。どちらか取りなさいといわれれば、猫さんは間違いなくケーキを、私は酒を取ることでしょう。このような「私」が話をし、ものを考え、泣き、笑いしているのだと思います。もし、この対話を覗かれる方があれば、おそらくその方もそんな「私」ではないかと思うのです。

314  : たぶん、アリスさんと私とで、「私」という言葉が意味するものが違っていると思います。確認するために、簡単な例を一つだけ取り上げます。

イェシュアの「でも、おそらくはそうならないであろう」という言葉は、私たちが御国に入ったとしても、「私」は消えないということを意味していますね。では、アリスさんは、御国においても、お酒を飲まれると思いますか? 私は御国ではケーキは食べないと思っています。ケーキは、御国においては何の意味もないからです。

315 アリス 私は、御国というものがよく分かっていませんし、そこでの「私」というものが、分っていないので、お聞きしているわけですが、もし、そこで「私」が存続するなら、それの個性というか、属性を持たないと意味がないと思うのです。ケーキを食べるといったことが、またはその嗜好が意味がないとすれば、そこでは、どんな個性を持っているのでしょうか?

316  : この問題は「自分を探すアリス」の最初(対話60)からずっと続いている問題ですね。

私は、「私」というのは「個性を持つ能力」であって、持たれた個性、属性というものは「私」そのものではないと考えています。そのことを「自分を探すアリス」の対話60では「認識する私」と「認識された私」という言葉で表現しました。対話448では「雪の結晶」という話をしました。全部同じことを言ったつもりです。ここではまた別のたとえをお話しましょう。

いま、アリスさんがシェイクスピア劇場の「お気に召すまま」に出演している俳優だとしましょう。舞台に出るためには、それなりの衣装をつけますね。演じる役割に応じた衣装をつけるはずです。半年後、アリスさんは今度は「リア王」に出演することになりました。そうすると、また別の衣装をまとうことになるでしょう。

私は「この世」というのは、このような一つの舞台であると考えています。「お気に召すまま」がアリスさんの過去世であり、「リア王」はその次の人生、例えば「現世」、であると考えることが出来ます。「お気に召すまま」に出演するときと、「リア王」に出演するときとでは、アリスさんの衣装は違うはずです。アリスさんは現世ではお酒が好きですが、一つ前の過去世では一滴もお酒を飲まない人だったかも知れません。それどころか、そこではアリスさんは女を演じていたかも知れません。

私は「この世」における個性というのは、こんなものだと考えています。

では、御国とは何であり、御国における個性とは何でしょうか。

私は、御国とは俳優がすべての舞台衣装を脱いでいる時間だと思っています。それどころか、シェイクスピア劇はもうやめて、まったくちがう現代演劇をやってみようとか、チャイコフスキーのバレーに挑戦しようとか、あるいは俳優を辞めてピアニストになろうとか、そういうようなことを考える状態だと思っています。

衣装を脱いだ俳優は、この世的な意味での個性は何も持っていません。別の舞台に出るときにはどんな衣装でもまとうことが出来るという意味で、本当の「私」というのは「個性を持つ能力」であって、舞台衣装であるところの「個性」そのものではないと私は考えています。

では、そういう生身の俳優には、まったく個性がないのかというと、たぶん個性はあると思っています。けれども、それはお酒が好きかケーキが好きかということではありません。お酒もケーキも舞台の上のドラマにしか存在しないからです。俳優自身の個性というのは、役柄によって決まるものではなく、酒飲みを演じても、酒を飲まない女性を演じても、ピアニストになっても、その表現に命を与える何か――ちょっと適切な言葉が思いつきませんが――であると思っています。たとえて言えば、それは、カラヤンが指揮するオーケストラと岩城宏之が指揮するオーケストラの違いとでもいいましょうか・・・? 同じ曲を演奏しても何かが違う。それが「魂の個性」だと思います。

では、その「魂の個性」が本当の「私」なのかというと、私はそうではないと思っています。「本当の私」というのは、あくまで「個性を持つ能力」であって、「個性」ではない、というのが私の考えです。そういう意味では本当の私には個性はありません。個性を持つ以前の存在です。けれども、脱いだり着たりする舞台衣装と違って、「魂の個性」はたぶん後退しないだろうと思っています。それは、これまでにどんな衣装を脱いだり着たりしたか、その衣装の中で、どのように役柄を演じてきたかによって次第に身につけた役者のスキルのようなもので、いったん身につけたスキルは決して消滅しないと思います。そのようにして、私たちは、次第に重厚な、熟達した、奥行きの深い「魂の個性」を身に着けていきます。

では、その先はどうなるのか――ついでですから、永遠の未来についての私の考えをお話しておきます。たぶん、この「魂の個性」を作り上げていくプロセスというのは限界がないので、終わりはないと思っていますが、仮に、ありとあらゆる役を演じつくして、もう何もすることがない状態、魂の個性の中にありとあらゆるものを取り込んでしまった状態というものに到達することができたとしましょう。それはいわば私たちが「神」そのものになる瞬間です。その先はどうなるか――私はまたゼロに戻ると思います。それまでに作り上げた魂の個性を完全に放棄します。それでも「私」は消えません。「私」というのは「個性」ではなく「個性を持つ能力」だからです。そして「私」はまたゼロから「魂の個性」を作り始めます。たくさんの舞台に出演し、無限に多くの役を演じ、そこからまた独自のものを自分の個性として作り上げていきます。

私が考えている「私」というのはこんなものです。したがって、「私」というのは何があっても消滅しない、「私」から個性を全部剥ぎ取っても「私」がなくなることはない――これが神から生まれた人間の本質だと思っています。



2008・・5・8
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