アリス、アリスに会う  291−301

291 アリス : 「この世」とは何か、という問題は、猫さんとの対話で、私が最も関心があることで、「アリス、アリスに会う」というこの対話も、A 歯が痛い。B 金がない。C 恋人が心変わりしたという、「この世」の問題からスタートしたのはそのためです。
これは現世利益を望む気持ちが多分に働いているのですが、一方では、「この世」とは何かを問うていたわけです。
猫さんのおっしゃる「この世は、私の描き出した幻想である」というお考えには同調しながらも、一方では、この幻想以外の何があるのだという気がしておりました。
猫さんが「色即是空」なら、私は、「空即是色」を確かめてみたいという、たいそれた気持ちもありました。

猫さんはこれに対して絶えずお考えを言っておられるのですが、今言ったような天邪鬼な性格もあってなかなか、私の心に届かないのです。

「この世」は不如意に満ちていますが、またこれほど甘美なものは
ないのではないでしょうか?この甘美なものを捨てて他に行きたくないと心の隅で思っています。
これはエゴが作り出し、また手放したくない世界でもあるのでしょう。

タイスの瞑想曲を例にした275、276の対話で猫さんは<夢の中のアリスさんと夢を見ているアリスさんは別の存在でしょうか。>おっしゃいました。
逆に言いますと「この世」も又真実、ここから離れて、どこかへ戻るための、仮のものではないと言えると思うのです。「この世」を除いて、猫さんも私もないと思うのです。

話は少しずれるかもしれませんが、猫さんの夢を考える過程で、ユングの自伝を読んでおりましたら、ユングが、無意識の世界に沈潜し、内的な探索を続けている過程で、「この世」に支持点が必要だったと言っているところに出会いました。幻影の世界、狂気の際をさまよったのではないかと思いますが、その時の「この世」の支持点は家族と仕事だったと言っています。このような所で、この世(英訳本でthis world)にで出遭ったのは意外でしたが、ある意味で、素朴ながら、真実を突いているように思います。

「この世」の不如意、悲しみや喜び、これを我々の偏向した目や耳で感受した幻影だとすれば、それは血の通わない観念論ではないでしょうか?これなくして「目覚め」もないと思うのです。

すべて言い尽くしたわけではありませんが、「この世」が強く私の心をひきつけるのは以上のような背景があります。

292  : アリスさんがこの世にどのような価値や愛着を認められようとも、それはアリスさんの自由ですが、アリスさんはそれをスタティック(静的)にとらえておいでではないでしょうか。スタティックという意味は、その価値が「この世」に固有のものであり、誰に対しても通用する普遍的なものであり、また時間によっても変化しない永続的なものであるという意味です。けれども、私は、物事の価値というものは、それにかかわる人によっても違うし、また、時々刻々と変化してゆくものだと思っています。なぜなら、物事に固定した価値があるのではなく、その物事と「私」との相対的なかかわりの中で価値がきまるからです。

たとえて言えば、アリスさんはいま山に登っている人、あるいは頂上で眺めを楽しんでいる人であり、私はもう山を降りようとしている・・・そういう違いがあると思います。私は山を降りてどうするのでしょうか。たぶん家に帰ってしばらく休養したあと、また別の山に登りに行くのだと思います。そして、アリスさんもいつかは、もう「この山」を降りようと思われるときが来るだろうと思っています。私たちは、神の自然公園における永遠の旅人なのですから。

293 アリス猫さんから見れば、私の「この世」はスタティックに見えるかもし知れないのですが、それほど確固たるものではなく、実は良く分からないのです。むしろ反対に、時間によって変化するものとして捉えるから、紅葉も桜も美女も・・・野辺の雑草の花でも良いのですが、・・・その美しさが見え、悲しみに似た感情にとらわれるのではないかと思っていました。この感情は、あるいは一過性のものかもしれませんが、それは、猫さんの双子の女性が消えた後のオリオン座のように、どこか永遠を思わせるものがあります。
そのオリオン座さえ仮の姿かもしれません。
その物事と「私」との相対的なかかわりの中で価値がきまるからです。>
「私」がなければ「この世」はないのかもしれません。<永遠の旅人>も消えるのでしょうか?

ちょっと目先を変えて見ます。
婆子焼庵( ばすしょうあん)という禅の公案があります。猫さんがご存知と思いますが、一応書いておきます。

ある老婆が、一人の修行僧を世話して、いつも16歳くらいの美少女に食事を届けさせていたのだが、二十年が過ぎたあるとき、修行も熟した頃と見て、少女に修行僧に抱きついて
「さあ、私をどうなさいます。」と問わせた。
だが僧はまったく動揺せずに、答えて言った。
「枯れた木が冬の岩に立つように、私の心は冬のように冷たく澄んでいて、まったく熱くならない。」
あっさりと断ったのである。美少女それを老婆に報告すると
この言葉を聞いた老婆は、この僧を賛えるどころか大変怒り、「自分はこんな俗物を二十年間も世話していたのか!」と僧を追い出し、庵も汚らわしいと焼いてしまった。


私はこの公案を通過していません。丁度、美少女に抱きつかれている修行僧のようなものかも知れませんね。

294  : 私は、「魂のインターネット」という本の中に、こんな話を書いています。

あるとき、私の家の庭にある山茶花(さざんか)の木に毛虫がつきました。チャドクガという毒蛾の幼虫で、体長1センチほどの細い小さな毛虫ですが、そばによるだけでも発疹が出来ます。それが細い枝の先に数百匹、塊になって付いていました。私はちょうど「どんな生き物も愛さなければならない」と書いてある本を読んだばかりだったので、「こんな毛虫も愛さなければならないのか」と思いながら、いつもならさっさと殺虫剤をかけてしまう虫をしばらく残していました。けれども、三日ほどするうちに、家人が気づいてしまったので、私はその毛虫を枝ごときりとって処分しました。そのあとで、自分の心の動きを振り返った私は、「私は毛虫を愛したわけではなかった」ということに気づきました。私は、ただ、自分が罪を犯すことを恐れただけだったのです。

この公案に出てくる修行僧も同じですね。この人は、自分が罪を犯してはならない、というそのことだけしか頭にありません。これでは、二十年間何を修行していたのかと言われても仕方がないのではないでしょうか。

295 アリス公案では美少女が抱き付きますが、これが老婆であったらどうか、猫さんのお話の毛虫だったらどうか、と考えると、いずれも同じことになると思うのです。同じ抱き付かれるのなら、美少女がいいですが、いずれにしろ、これは私の意識の中のことですから、100%受け入れる以外に道はないと思います。
とは言うものの、一方では、好き、嫌いの起きるのも自然な気がします。どうしてかと考えると、それは「私」があるからで、虫の立場に立つと事態が一変するはずです。
この「私」は<永遠の旅人>の現在の姿ですから、これを抹殺してしまうと、すべてが消えてしまうと思うのです。また、そう思わないと「私」の価値がなくなるので、そう思うのです。

「この世」という像を結んでいる、いわば焦点のような存在、「私」を消してしまうと言うのが多くの宗教の指し示す所ですが、消す前に、もう一度点検しておきたいことがあります。
それは、先に触れた、美しいものー美人でも、花でも、子犬でも、名曲でも、夕日でも・・・何でもいいのですが、その時感じる、一種の悲しみに似た感情はいったいなんだろうか?ということです。これは私だけの感情かもしれません。あるいは、慈悲の「悲」ではないかと思うことがあります。猫さんの「愛」に近いのではという気がしますが、どうでしょうか?

296  : このままでは、婆子焼庵( ばすしょうあん)の公案がどうなってしまったのか、この対話を読んでおられる方にわからないと思いますので、少し解説を入れておきます。

――この公案は、修行僧が抱きついてきた美女を拒否したので庵を追い出されたわけですから、じゃあ、抱いてやればいいかというと、そういう簡単なものではないことぐらいは、皆さんにもお分かりになると思います。あるお寺のサイト(2年ほど前に見つけましたが、今回は見つかりませんでした)には、ある僧がこの公案の話を聞いて、「おれなら、すぐに抱いてやるがなあ」と言ったら、師がその僧を即座に破門した、という話が書いてありました。

私が書いた答えは、公案の修行僧は自分の修行のことしか頭になく、少女のことも老婆のことも考えていないので、そこが問題ではないか、と言っています。昔のインドの仏教において、自分の悟りに集中する教派は小乗(しょうじょう)と呼ばれ、衆生(しゅじょう:すべての人々)の救済を目指すべきだとする大乗(だいじょう)の人々から軽蔑されていました。一般には、この公案は小乗と大乗の対比を意味しているとされているようですから、私の書いたようなものが答えなのかもしれません。

けれども、アリスさんは、それとはまったく違う角度から、この公案を見ておられます。私たちの人生には、いいことや悪いことが次々に立ち現れるので、私たちは絶えずそれに振り回されています。アリスさんはそれとこの美女が突然抱きついてきたこととを重ねてみておられます。それで、これが美女でなく、老婆であったらどうするか、という話になります。そして、アリスさんは、美女も老婆も(いいこともわるいことも)結局は自分の意識の中にあるものなのだから、全面的に受け入れるほかはない、と言われるのです。

では、本当のところ、この公案の答えは何なんだ、と思われるかもしれません。私は、禅の専門家ではありませんが、公案には一定の答えはないと思っています。公案というのは、師が弟子の心の動きを見るための手がかりに過ぎないので、弟子がどんな答えを持っていっても、師はその答えそのものよりも、弟子の心がどう動いているか、を見ているのだと思います。「この問題にはこう答えるのが正しい」と固定化するような考えは、それこそ、禅の精神に反するのだと思います。――

さて、そこで、アリスさんの話に戻ります。アリスさんは、<美しいものー―美人でも、花でも、子犬でも、名曲でも、夕日でも・・・何でもいいのですが、その時感じる、一種の悲しみに似た感情はいったいなんだろうか?>とおっしゃいましたが、2年ほど前、私がそれとまったく同じことを言っていたのを覚えておられますか?

当時、私は、美しいものはすべて悲しいと思っていました。オフでお会いしたときにそのことをお話ししたら、アリスさんは「美しいもののはかなさ」に対する悲しみではないか、とおっしゃいました。確かに、この世では、あらゆるものが時々刻々と変化していきます。真宗のお葬式で必ずと言っていいほど読まれる蓮如上人の白骨の御文章にあるように、どんな美人も「朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」という運命を逃れることは出来ません。

けれども、私は少し違うことを考えています。私は、これは、私たちが遠く離れてしまった私たちの魂のふるさと――キリスト教で言えば天国、仏教で言えば極楽浄土――に対するノスタルジアではないかと思うのです。子どもを失ったお母さんが、同じ年頃のよその子を見るたびに、「ああ、あの子が生きていたら、今年は成人式だったのに・・・」となくなった自分の子どもを思い出すように、私たちは地上の美しさを見るたびに天上の美しさを思い出しているのだと思います。

私は最近、この悲しみを感じることが少なくなりました。それは、極楽浄土というものが、私が思うほど遠くにあるわけではないということが、わかってきたからです。それは、私たちのすぐそばにあるのです。本当を言えば、私たちは既に極楽にいるのです。ただ、そこで眠っていて、極楽を離れて遠く旅に出たという夢を見ているだけ・・・ということが身体にしっかり染み込んできたので、悲しみをあまり感じなくなったのだと思います。

297 アリス :公案への猫さんのお考えに対して、特に、異論はありませんし、<公案というのは、師が弟子の心の動きを見るための手がかりに過ぎないので、弟子がどんな答えを持っていっても、師はその答えそのものよりも、弟子の心がどう動いているか、を見ているのだと思います。>のご意見はそうだろうと思いました。
「この世」の論議の中で、私がこの公案を取り上げたのは、この僧は「この世」をしっかりと見ないで(受け止めないで)、なんだかうわの空で修行の真似事をしていたために、老婆から追い出されたのではないかと思います。

美しいものを見て感じる悲しみに似た感情については、以前にも、話し合ったことがありましたね。今は、猫さんはそれに「魂のふるさとに対するノスタルジア」という美しい名前をつけられました。魂のふるさとを極楽とすれは、<本当を言えば、私たちは既に極楽にいるのです。ただ、そこで眠っていて、極楽を離れて遠く旅に出たという夢を見ているだけ・・・ということが身体にしっかり染み込んできたので、悲しみをあまり感じなくなったのだと思います。
これは猫さんの到達された境地(境涯、境界)だと思います。

私は「この世」で極楽を探しているようなものです。もう「この世」という考えを捨てる時期に来ているのかもしれません。先日、猫さんがお貸しくださいました『イェシュアの手紙』(マーク・ハーマー著、マリディアナ万寿子訳 ナチュラルスピリット)は強くそのことを訴えており、全編、感動しながら読み続けました。その一部、特に過激だと思う箇所を一つ引用しておきます


マークよ、この世には
何の意味もない。

このことは、あなたに怖れをもたらすが、
その怖れさえ、もはや大したものでもない。
なぜなら、あなたはすでに自分の中で
この真実を受け入れているから。

さて、あなたに最初の鍵を与えよう。
あなたの抱いている感情は、
この真実をあなたという存在のすべてで
受け入れることを拒絶した結果である。

この世が何か意味してほしいという
あなたの内なる叫びは、
父との分離を信じている者すべての叫びである。
この真実を完全に受け入れることは
分離の消滅であり、
この世の終わりを意味する。

(同書 90ページ〜)

298  : イェシュアは「この世には何の意味もない」と言いますが、私は、神の子である私たちが意味のないことをすることはないと思っています。たとえ、それが夢であろうが、バーチャルリアリティであろうが、意味があるからつくるのです。

けれども、その「意味」は、たいていの人がこの世に持ってほしいと思っている意味とはかなり違うと思います。

以前、巨大迷路のことをお話ししたことがありますね(「自分を探すアリス」対話番号20)。人間はなぜ、わざわざ迷路を作るのだと思いますか? それは、おもしろいからですね。自分で迷路の中に入り込み、出口を探してうろつきまわるのが楽しいから、迷路を作り、わざわざお金を払って、迷いに行くのです。

私は、「この世」も同じだと思っています。この世で、思いがけない出来事にであい、泣いたり笑ったりするのが楽しいから、この世という迷路を作ったのです。ですから、この世で遊びたい人は遊び続けてもいいのです。けれども、この世には「楽しい」以上の意味はないのですから、もう「この世」は飽きたと思う人は、いつでも出て行っていいのです。戦争やテロや災害や過労死や・・・そんな生活はもうしたくないと思う人は、この世から出て行ってもいいのです。

ただ、この世は迷路ですから、出ようと思っても簡単には出られません。そこで、釈迦やキリストをはじめ、いろいろな人が出口はこっちだよと教える人が現れるのです。

それから、アリスさんは、この世で極楽を探しているといわれましたが、私たちは、もともと極楽にいたのですから、この世に極楽を作るくらいなら、極楽にとどまっていればよかったのです。この世は、極楽では体験できない状態――恐怖や苦痛や絶望や死――を体験するための擬似世界ですから、この世には極楽はありません。一瞬極楽かと思う瞬間はありますが、この世は絶えず崩壊し、変化します。極楽状態が永続することはありえません。ですから、アリスさんが、極楽を望むなら、この世を卒業したほうが簡単だと思います。

ただし、「この世を卒業する」という意味は、地球からいなくなるという意味ではありません。そのことについては、別に取り上げたいと思います。

299 アリス :過激だといったのは

マークよ、この世には
何の意味もない。

この箇所です。2行目はわざわざゴシックにしてあるのです。猫さんがこれにどう反応されるか興味がありました。引用文の続きをもう少し写しておきます。

確かに
人類の信じている観点から見れば
これは怖れと見えるであろう。
しかし、この世の終わりに対する怖れは、
幻影を選択しているからだと知っておくように。
ここで、あなたに
たくさんの鏡のイメージを送ろう。
それは、あなたのまわりで静に砕け、
やがて壮麗な光だけを残す。
幻影を手放すことが
真実どれほど安全なことか感じてほしい。

この世は、あなた自身の創造した罠である。
あなたは、
地上の一つひとつの魂と同じように
この複雑きわまりない幻想と
その結果生じる妄想を創造する手助けをして
現実とした


引用はこれくらいにします。全編引用しないと済まなくなるからで、また、出来るだけ自分の言葉で話します。
自分でこの世を作り出しているのですから、この自縄自縛から逃れるのが難しいのですね。それに、面白いように作っているから、手放したくない。

300  : 「この世には何の意味もない」という言葉に私がどう反応するか、興味があったそうですが、私にはこの言葉は全然過激ではないということだけ、お伝えしておきます。

ところで、「この世を卒業する」ということの意味を話題にしたいと思うのですが、イェシュアの本には、私たちが夢から醒めたときどうなるか、ということに触れた場面がありましたね。「あなたは消えてなくなるのだろうか。もちろんそうすることも出来るが、たいていの人はそうしないだろう」といくだりがありました。

アリスさんは、これについて、どう思われますか。

301 アリス :「この世」と「私」を一対のものと見て、この世を手放すことは、私の消滅を意味すると思い、この世に執着が生じていると見ていました。この本は、終始その怖れを捨てなさいと言っている所に私は感銘を受け、猫さんの引用の箇所は、読み過ごしていました。この箇所をどう思うかの質問は、ちょっと意外な感じで、お答えするとしたら、この世を卒業してまた別の旅をする私がいるのかな?という感じです。

本が今、私の手元にありますので、その前後をここに写しておきます。

「わたしの国はこの世に属していない」

この節に関して説明しておこう。
御国とは、どこか他の場所に存在するものではない。

「天の御国は地上に広がっているのに、人はそれを見ない」

人は、この世を見ようとするあまり
御国が見えないのである。
だからわたしは、こう教えた。

「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」

この世に残ったまま、
御国に入ることはまったく不可能である。
それでは、あなたが消えるということだろうか?
それも可能である!
でも、おそらくはそうならないであろう。
覚えておくように。
この世とは、すべて分離という見地からの認識であるということを。
これで終わらせなさい。
そこに残るものは、御国だけである。


(同書 211頁〜)

2008・・4・1
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